第6話 戦友からの伝言


─────話は現代に戻り、『芍薬』の事務所。




「周明! おい周明!」



ヒロトが忙しなく周明を呼んでいる。



「ここに居たのか……って、なんだ。電話中かよ」



見ると周明はいつになく真顔になり、現地語で話し込んでいる。手のひらをこちらに向けてヒロトを制していた。



いつもは明るく、どこかとぼけていて、こ憎らしい性格なのだが、今は違う。



周明の裏の顔、そう、あの身の毛もよだつ殺人機械、【モノクロの周明】がそこに居る。



周明の通り名についてはヒロトも詳しくは知らない。彼が関わった抗争は剰りにも酷い惨状の為、モノクロでなければ直視に耐え難いとか、彼の冷たい心の色を指すなどとは言われているが、どうも後付け感が拭えない。



「触らぬ神に祟り無しだな」



ヒロトは電話の邪魔をしないように、おとなしく椅子に腰掛けた。



聞こえてくる声、中国語のやり取りは早くて解らないが、周明から漂う殺気と、相手を威嚇するようなその低い声は、会話の内容が決して穏やかなものではない事を想像させる。



そして程なくすると、周明は静かに受話器を置いた。



「ごめんなさい、ボス。揚羽蝶からだったの……ああもうっ、ガス切れだわっ!」



カチカチと鳴らしていたライターを見限って床に叩き付けている周明に、ヒロトは自分のライターを差し出して聞いた。



「それって……周明が昔居た組織だったよな」



「有り難うボス。そう、台湾のマフィア組織よ」



周明はやっとのことでありつけた煙草を、肺一杯に吸い込んだ。



「フゥ。警察の派手な摘発を受けて、てっきり解散したものだと思っていたのに……全く嫌になっちゃうわ。もう十年以上も経つのにね」



周明はヤレヤレと肩を竦め、溜め息をつく。



「それで向こうは何だって?」



周明はまた思い切り煙を吐き出してヒロトに向き直った。



「私達の縄張りを残さず明け渡せ……って。ふざけるのもいい加減にして欲しいわ!」



ヒロトも胸から煙草を取り出して、のんびりと火を着けながら尋ねる。



「それはずいぶん一方的な奴らだな。でもまあ元々周明はその為に日本へ来たんだし」



周明はまるで現実が見えていないヒロトに食って掛かった。



「何言ってるのよ、ボス! 私達の縄張りって事はつまり、ボスの縄張りを寄越せって事じゃない」



「そりゃそうだ。お前の言う通りだな。じゃあ今後は、揚羽蝶征伐の準備をしなきゃならないって訳か……」



「ええ。そうなんだけど……でも正確に言うと、揚羽蝶そのものはもう無いの。ボスも死んだしね。だから揚羽蝶からの命令は無効って訳。ただね……」



「ただどうした」



二本目の煙草に火を着けた周明に、漸く事の重大さを把握したヒロトが詰め寄る。



「生き残った武闘派の連中が、細々と組織を存続させていたらしいのよ」



「武闘派……周明達の他にもまだ居たのか?」



「ええ。揚羽蝶の傘下に幾つか武闘派のグループが有ってね。そいつらはみんな抗争で死んだって聞いてたんだけど、噂だけだったみたいで……」



周明はイライラした様子で煙草を揉み消した。



「こっちだって、日本で死に物狂いになって今の地位を築いたのよ? 自由になれてホッとしていたのに……全くしぶといったらありゃしない」



ヒロトは部屋の隅に行き、何かゴソゴソやっていたが、氷の入ったグラスとバーボンを抱えてやってきた。



「周明、飲みながら話そうぜ」



ヒロトがそう言うと、周明はやっと笑顔を見せた。



「いいわね、ボス」



グラスがなみなみと琥珀色で満たされ、透き通ったロックアイスが涼やかな音を立てた。



「ところで、武闘派の残党ってどんな奴らなんだ?」



袋に入った乾きものを勧めながらヒロトが尋ねると、周明はガサガサと手を入れながら答えた。



「私と同じく拳法を使う。台湾も日本と同じように銃の携帯は禁止されているから、銃は使わないし、青竜刀なんかの武器も使わない。証拠を残さない為にもね」



「ガサ入れされても、余計な容疑を掛けられずに済むから、か……」



「そうね。そして何よりも鍛えられ、凶器と化した己の五体を使ってこその闘いだし、そうやって手に入れた勝利にこそ価値が有る、っていう美学を持ってるの。その闘いの中に生き甲斐を感じる所は奴らも私と同じね」



「はあ。なんだか厄介そうな奴らだなあ。縄張り以外の事で何か話したのか? 随分長いこと喋ってたろ」



ヒロトの質問に、煎餅をバリバリ噛み砕き、ニタリと笑った周明が答える。



「ええ。食い殺されたいならいつでも来いって言ってやったわ!」



ヒロトは座っていた事務椅子でクルリと一回転すると、大きく溜め息をついた。



「ハアアア……そういう奴なんだよ、お前は……。何もわざわざ揉め事にしなくたっていいだろうよ」



「交渉の余地は無いわ、ボス。縄張りの例え片隅でも、奴らに渡す義理はないもの。ボスだってそう思うわよねっ」



「ハイハイ解ったよ。じゃあ差し当たっての作戦会議だ。まず相手の状況をもっと詳しく教えてくれ」



周明はホワイトボードを使い、相関図を示しながら説明をした。



それによると残党達は規模こそそれ相応なものだが、所謂『烏合の衆』で、危険と思われる三人を除けば、取るに足りない組織なのだという。



呉明明【ゴ・ミンメイ】卓牢陣【タク・ロウチン】陳青龍【チン・セイリュウ】の三人は、周明を含め台湾で最も恐れられていた武闘派四天王の一角で、揚羽蝶の威光は彼ら四天王に依って支えられていたと言っても過言ではないらしい。四天王に目を付けられたら即ち、それは『惨たらしい死』を意味するからだ。



特に青龍は台湾きってのヒットマンで、派手な抗争には顔を出さない。揚羽蝶内部の人間でさえ、彼の技は見たことがないという。



「それは私にしても同じ。でも青龍がターゲットを仕留め損ねたという話は聞いた事がないわ。得体の知れない男よ」



粗方の情報を得たヒロトは、大きく伸びをしながら笑い掛ける。



「フッ、周明」



「何笑ってるのよ、ボス」



ヒロトを睨み返した周明を宥めてまた、彼は笑った。



「ハハハ。得体が知れないとか言っている割には、お前だってニヤニヤしてるじゃねえか」



「アラッ? そう?」



周明は手鏡を覗きながら前髪を直している。



「ウフフフ。実は奴らとの闘いが楽しみなのよ。この血湧き肉躍る感覚、ボスには理解出来ないでしょうね」



席を立ったヒロトは、数歩歩いて周明を振り返る。



「そんなん一生解るかよ、バ~カ! ハハハハ」



周明もそれに満面の笑みで応えていた。




─────あれから数日が経った或る夜



修司とタカシは久し振りに酒を酌み交わしていた。



「修司。そろそろ汁物の旨い店に行こうぜ」



「おっ、いいねえ」



何軒目かの店を出て、夜風に当たりながらご機嫌に街を歩いていると、思い出したようにタカシが口を開いた。



「そう言えば修司、あれから隅田ビルにちょっかい出してくる奴は居たか?」



「いいや、全く。他のシマも拍子抜けする位静かなもんだ」



近県でも一、二を争う勢力となった的場組と石田組。その両組が堅固な協力体勢の元で目を光らせている縄張りには、さすがの海外マフィアも手を出せないでいるようだった。



「こっちもだよ。でも腕がナマっちまいそうだぜ」



「とかなんとか言っちゃって、トレーニングは欠かしてない癖に」



「ハハハあぁ、バレた?」



二人は小突き合いながら交差点に差し掛かり、赤信号で立ち止まる。すると不意に後ろから声を掛けられた。



「随分とご機嫌ね。私も混ぜてくれないかしら」



タカシが振り向くと、そこには周明が微笑みながら立っていた。



「お、周明か。よし、一緒にやろうぜ」



タカシが杯を煽るジェスチャーをしてみせる横で、修司は不思議そうな顔をしている。



「おいタカシ、こちらはどなただ?」



信号が青になり、横断歩道を渡る人々が彼らの横を通り過ぎていく。するとタカシはニヤっと笑って、質問を質問で返した。



「修司。お前はそんな恩知らずな奴だったのか?」



まだニヤついているタカシの思わせ振りな態度に、修司は少したじろいだ様子を見せた。



「ええっ? 恩ってなんだよ。俺がこの方から恩義を受けたってのか?」



必死になって思いを巡らす修司だったが、何も思い当たらないようで、益々焦りの色を濃くしている。



「ああ、受けたとも! な?」



タカシは笑って周明に目配せした。わざと勿体ぶって修司の困惑した様子を楽しんでいる。



「タカシ、教えろよ。じゃなきゃこの方にお礼も言えねえだろ!」



「よ~し、じゃあ教えてやる。この方はお前がム所に入る時に見届け人となって下さった許周明様だ。どうだ、思い出したか?」



「見届け人?」



「そうだ。お前が国立組に一人でカチコミに行った時、サツが迎えに来るまで一緒に居て下さったろ?」



少し考えて修司はハッとした。



「あああっ、思い出した!確かライターを貸して頂いた……」



周明はニッコリ微笑んだ。



「修司さん、思い出して貰えて光栄だわ、その周明よ。改めて宜しくね」



「あ、いや……こちらこそ宜しくお願いします。結局この前出所するまで、あの煙草が最後だったんです。お気遣い心に染みました。覚えてなくて本当にすみません」



修司は義理堅い。



極道ゆえにこういう恩義は大切にするし、丁寧に敬語を使って話す。だが……。



その和やかな雰囲気の中、周明は更に言葉を続けた。



「修司さん。ついでに言わせて貰うと、この前隅田ビルで貴方を襲撃したのも私よ。薄暗くて気付かなかったかしら?」



その言葉で、タカシは一気に酔いが冷めた。



「な?……しゅ……馬鹿お前……」



そして修司の顔色はみるみる内に変わっていった。



「……なんだとぉ? そう言やぁ、あの夜確かシュウとか何とか……」



「周明だってば」



悪びれた様子も見せずに胸を張る周明を、修司は余計に腹立たしく思って語調を荒げた。



「周明だか車庫証明だか知らねえが、急にでっかい刀で襲ってきやがって! あれで俺が死んだらどうすんだコノやろ」



タカシは周明に掴み掛かろうとしている修司を慌てて制止する。



「待て修司! 落ち着け!」



すっかり頭に血が上った修司とそれを止めるタカシを尻目に、周明は我関せずとばかりに笑いながら言った。



「何言ってるのよ。貴方はあんな程度で死ぬタマじゃ無いでしょ? もしかしたら、これから貴方と闘わなきゃいけないかも知れないでしょ、実力を知りたかったのよ」



修司はタカシの顔を睨んだ。



「お前この件を知ってやがってこいつと……事と次第によっちゃあな……」



「違う違う、知らなかったんだよ修司。勘弁してくれよぉ」



拝み倒して謝るタカシの態度と、人懐こそうにニコニコ笑っている周明を見て、急に修司は馬鹿馬鹿しくなった。



「全くどいつもこいつも……周明! 見届け人の一件は、今回の襲撃でチャラだ。勿論敬語も使わねぇ!」



周明はいかにも楽し気に笑顔で頷いた。



「いいわよ。『鼻歌の修司』に敬語は似合わないもの。じゃあ、お詫びにおごるから二人ともついてきて」



何とかその場が納まった安堵の溜め息をついて、タカシは修司の肩をポンと叩いた。



「ふうう。ほら、行こうぜ」



タカシはスタスタと、修司は苦い顔をしながら渋々周明の後を追う。



「でも珍しいな、お前から誘ってくるなんて」



「そお? 最後になるかも知れないからね。タカシさんと飲んでおこうと思って」



「最後って?」



「うん、それが……ああほら、あそこ。店構えは汚いけど、肴は絶品よ」



「おいおい、ホントに汚ねえなあ」



三人は町外れのこじんまりとした居酒屋に辿り着いた。



普段から羽振りのいい周明は、配下の者を連れ歩く時にはそれなりの高級店ばかりを使っている。



しかし貧しい環境で育った彼は、こういう薄汚れた、しかし人情を感じさせるような店が落ち着くらしく、タカシと飲む時には大概庶民的な店に足を運ぶ。



「やっぱりいいわよね、こういう温かい雰囲気」



「まあな、やたら洒落た店だとケツが落ち着かなくていけねえ」



タカシが早速頼んだ熱燗をクイッと飲み干して頷いた。



「なあ……タカシ。こうやってちょくちょく飲んでるのか? お前らいつからの知り合いなんだよ」



「ああ。実はム所へ入る前にやりあった事があってな。それからダチになって、出所してからよく飲むようになった」



修司は目を丸くしてタカシに詰め寄る。



「お前とやりあったって? こいつがか?」



「周明よ」



「ああ、コイツは強いぜ。もしかしたら、俺は周明に勝てないかも知れない」



周明はジョッキを片手に、照れながら謙遜した。



「何言ってるのよ! 私だってタカシさんに勝つ自信なんか無いわよ。か弱い乙女なんだからあ」



「お前がアレでか弱かったら、この世に強い奴は数える程しか居なくなるってえの!」



「あら、タカシさんから認めて貰えるなんて光栄だわっ、ア・リ・ガ・ト・チュッ」



「投げキッスを寄越すな! そんなモノ要らん!」



「じゃあ本物がいいのぉ?」



「やめてくれぇぇええっ!」



盛り上がっている二人をよそに、修司は黙り込んでいた。タカシの実力を嫌と言う程知っている彼は、目の前でおちゃらけている周明を見ていると、にわかには信じ難い思いだったのだ。



しかしとうとう、感心頻りで呟いた。



「はぁぁああ。人は見掛けによらねえなあ」



「熱燗もう一本! ああ、ぬる燗にしてくれ」



タカシが空になった徳利を振ってアピールする。景気良く返事をした店員が、そそくさと厨房に消えた。



「そういや周明。……さっき言ってた最後ってなんだよ。国に帰るのか?」



周明は黙って首を横に振り、何かを思い切るようにジョッキを飲み干した。



「プハーッ! やっぱり仕事後のビールは最高ね。ああ、そうそう最後ってのはね、揚羽蝶が日本に乗り込んで来るのよ」



「揚羽蝶?」



タカシと修司は揃って聞き返した。



「私の所属していた台湾マフィアよ。まあ元の組織はもう無いんだけど、その残党が今のシマを全部寄越せって言ってきたのよ」



「芍薬のシマをか」



「ええ、そうなの。でも、私はもともと日本の利権会得の為に揚羽蝶から駆り出された特攻隊長だし、しょうがないんだけどね」



タカシが身を乗り出して問い詰める。



「でも、それがどうして最後って話になるんだ? 目的が果たされたなら、素直にシマを明け渡せばいいだろう。なぁ、修司」



「そうだ。その組織の為にシマを拡げてきたんだよな?」



不思議そうな顔をしている二人に、周明は事も無げに言う。



「うふっ、私ね。突っぱねちゃったの」



「突っぱねたぁっ?!」



二人はまた揃って叫んだ。



「当たり前でしょ? 私の居た揚羽蝶は本国で台湾警察の激しい弾圧にあって、実質解散に追い込まれた。そして知らないうちにボスが入れ代わり、当時私のライバルだった奴が実権を握っている。十年以上も音沙汰が無くて、支援も当然有りゃしない。それが今頃になってシマを寄越せ? 冗談じゃない! 私が引き連れてきた部下達は全員死んだのよ? 今の揚羽蝶は私に取って、何の関係も無い組織なのよ? それが何もしないでいいとこ取りだなんて、虫が良過ぎると思わない? だから、『どうしてもシマが欲しいんだったら力ずくで来れば?』って言ってやったの。だから奴らは、私の息の根を止めに来るのよ!」



一気に吐き出した周明は、ハァハァと肩で息をしている。



「そうか。それで最後という訳なのか。だけど、お前はそう簡単にやられるタマじゃないだろ?」



「当たり前でしょ? 返り討ちにしてやるわ!……と、言いたいとこだけど……。今回ばかりは解らないから、こうして飲んでるの」



タカシは煙草に火を着け、最初の一服を長々と吐き出して言った。



「周明が解らないって言う位だから、相当な奴らなんだろうな。まあ……暗闇から一気にチャカで弾かれたら、腕っ節が強かろうが、達人だろうが関係ないからな」



「いいえ。アイツらは拳法家よ。チャカどころか武具も使わないし、複数で襲ってくる事もない。抗争相手の出方にもよるけど、この私には絶対素手で挑んでくる筈よ」



「中国拳法なのか?」



「そう。流派は違うけど、私と同じ暗殺拳。台湾の政治や経済界の裏で起こるきな臭い殺人事件は、いつもアイツらが絡んでいると言ってもいいわ。巨額な報酬で依頼を受たが最後。静かに、確実に、証拠も残さずやり遂げる」



修司が忙しなく貧乏揺すりをしているのを見咎めてタカシが言う。



「修司、どうした」



「周明。そいつら……そんなに凄いのか?」



タカシには答えず、爛々と目を輝かせながら身構える。



「ええ、修司さん。中心人物が三人居て、いっぺんに襲われたら私も確実に命は無いわね。でもアイツ等は自分の武術に誇りを持っている。手強い獲物程サシで勝負したい筈。……貴方のようにね、修司さん」



「なっ、何で俺の思ってる事が解ったんだ?」



不思議そうにしている修司に微笑んで、周明は焼き鳥の串をしごいた。



「うん、オイシィ。ハハッ、貴方みたいに解りやすい人も珍しいわよ。私が襲撃した時だって、全然本気じゃなかったでしょ?」



修司は心を覗いたように言い当てる周明に戸惑っている。



「えっ……いや……そんな事無いって」



「誤魔化さなくてもいいわ。私はこれでも武術家のはしくれなのよ? 拳を合わせれば相手の力量が解るし、闘いで受けた怪我の様子を観れば、どんな技を仕掛けられたかが解る。でも……十年前の貴方の事件。死体の傷痕からはさっぱり解らなかった。得体の知れない技に恐怖したわ。修司さん、貴方その殺人空手をどこで習ったの?」



周明が尋ねると、修司はゆっくり噛み締めるように、そして静かな口調で語り始めた。



修司が語った所に依ると、彼が幼少の頃から通っていた大志館空手は、表向き『少年の健全育成』を掲げて運営しているが、実は昔から脈々と受け継がれた裏空手の伝承者を絶やさない為に、広く練習生を募っていた。



裏空手は大変危険な技の為、師範になる人間と、特に素質が認められた者の内、更に吟味されたほんの数名にしか伝承されない。



しかし小さい頃から悪がきだった修司を、『イザという時の人助け』が出来る人間にしようと、師範代自らが裏空手と、それに耐え得る精神力を叩き込んだ。






◇◇◇





ある日、練習生が居なくなった深夜の道場で、修司と師範代は互いの間合いを探り合っていた。



「修司。お前には自分が教えられる事は全て教えた筈です」



「押忍、師範代!」



「しかし如何せんお前の技には切れが無い。それではいつまで経ってもモノには出来ませんよ?」



「押……忍」



二人は会話をしながらも、相手の僅かな筋肉の動きさえ逃すまいと、神経を研ぎ澄ませている。



「裏空手の極意は反力とタイミング、そして作用点同士の僅かなズレです。普通の空手をナタに例えるなら裏空手はハサミ。自分の言っている事は解りますね?」



ジリジリと間合いを詰めてくる師範代の迫力に圧倒され、修司は堪らず後退りしてしまう。



「おっ、おっ、押忍」



「ナタを全力で振り回していたらすぐに疲れてしまう。でも裏空手はハサミを使う時のように、指先を動かすだけの力で、数多の敵を切り裂く事が出来るのです……こんな風にねっ! すりゃぁあ!」



気合い一閃、師範代は修司の懐に飛び込み、連続技を仕掛ける。



「ウグッ! げほっ!……」



手刀での挟み打ち、頭を抱え込んでの掌底打ち、膝蹴りと共に打ち下ろされる肘打ち。



師範代は攻撃する際に、作用点同士をわざと大きく離す事で肉体が切り裂かれるのを回避していたが、鍛え抜かれた技が修司に与えたダメージは、彼の予想を遥かに超えていた。



≪こ、殺される!≫



死への恐怖が修司のスイッチを入れてしまったのだ。



そして……。



「……!……ぅ、うぎゃぁぁあっ!!」



師範代の上げた叫び声に正気を取り戻した修司は、血に濡れた両手を見詰めて佇んでいた。



「う、うわっ」



ふと自らを見下ろすと、真っ白だった筈の道着が、師範代からの返り血で真っ赤に染まっていた。



「うわぁぁっ、師範代っ師範代ぃぃ!」



足元でぐったりしている師範代を抱き上げ、修司は叫ぶ。



しかし、二人の他には誰も居ない道場からは、こだまのひとつも聞こえては来なかったという。






◇◇◇






「幸い、師範代の命に別状は無かったが、俺が師範代の筋肉をズタズタにしてしまったんだ。彼はリハビリに依って通常の生活が送れる迄は回復したが、それ以降二度と格闘家として陽の目を見る事が出来なくなってしまった」



「………」



「ふう。技を習った所の説明は、大体こんなもんかな」



一通り話し終えると、修司は煙草に火を着けた。



「………」



周明とタカシは一言も発する事なく黙り込んでいる。



「練習中の事故だったと師範代が庇ってくれたお陰で、俺は少年院に送られずに済んだんだが、あんな危険な技は一生使うまいと思ったよ」



嫌な事をビールと一緒に飲み干そうとでもするように、修司はゴクゴクと喉を鳴らした。それを見ていた周明が店員を呼び付ける。



「ちょっとお兄さん、ビールのお代わり頂戴な。そうだったの……それは辛かったわね」



周明はそう言いながらも、落ち着きなくテーブルをおしぼりで拭いている。



「ああ、師範代にはどんなに謝っても謝り切れない。でも十年前のあの日……チャカや刃物を目の前にした時、また俺の中に有るスイッチが入ってしまったんだ」



「それがあの日の大惨事って事ね」



「そうだ。俺が動くとあっという間に敵が視界から消えていく。ただ身体を移動させているだけなのに、血しぶきを上げて倒れてしまう。自分の技ながら、あれは人間業じゃない」



周明は口に含んだビールをゴクリと飲み込む。



「じゃあ、あの技は、大志館空手の部外者にはあそこで初めて使ったって事?」



「ああ。最初で最後だ」



修司は目をつぶり、感慨深げに頷いた。



「……そう。日本にも凄い武術が有ったのね。じゃあ、私が死んだら後はお願いするわね~」



さらりと言ってのけた周明の言葉に、修司とタカシは顔を見合わせた。



「周明。俺とお前は掛け替えの無いダチだと思っている。だけど俺達は組織に属する極道だ。だからお前がもし殺されても、敵討ちをすることも出来ないんだ」



真剣な顔で説き伏せようとしているタカシを笑い飛ばして、周明はビールを飲み干した。



「アハハハ、平気よ。貴方に無理強いしたりはしないから。でもね、貴方達はいずれ揚羽蝶と戦う羽目になる。何故なら、アイツ等の目的は私達のシマだけじゃ無い。……この日本全体のシマが目的なんだから」



「それは……日本全土を制圧するってことなのか?」



周明は事も無げに答える。



「ええ、そうよ。今の日本の暴力団組織は命令系統が崩れていて、最早その形をなしていない。組織力が無くなった貴方達は怖くない。奴らからすれば、日本を放っておく手はないでしょ」



揚羽蝶がいだいている野望のスケールに、二人は驚愕した。



「奴らは私のシマを奪い、日本での体勢を整えたら後発部隊を投入して、一気に極道狩りを始める筈。その道に長けた殺人集団が五千人は居るわよ。極道社会はおろか、恐らく日本中が大混乱になる筈ね」



修司は半笑いでかぶりを振った。



「そんな話をいきなり信じろって言われてもなぁ……ゴホッ、ゴホッ」



いかゲソの唐揚げを喉に引っ掛け、派手な咳をする修司には、緊迫感の欠片さえ無い。もしもそんな事が起こったとしたら、間違いなく教科書に載る程の大事件だ。まさかそこまで大それた事が身近に迫っているなどとは到底思えなかったのだ。



「ね? 多分日本の極道達はみんなそうやって信じない。それは私が貴方達の上部組織、関東共和会と関東北辰会にこの情報をリークしたとしても同じ事。このままだったら奴ら揚羽蝶は、寝首をかくのと同じ位簡単に、日本を制圧するでしょうね」



周明の真剣な眼差しを見ていたタカシは、咳き込む修司にジョッキを渡して語り掛けた。



「修司はまだ付き合いが浅いから周明の話を信じられないかも知れないが、こいつはこう見えて、嘘を言うような男じゃない」



周明はすかさず割って入る。



「男じゃないわよ、乙女ですから」



「解った解った。嘘を吐くような乙女じゃない」



修司は吹き出しそうになりながらタカシの話を聞いている。



「真面目に聞けよ、修司」



タカシの迫力に負けて、修司はしおらしく姿勢を正した。



「そう、だから修司。揚羽蝶の襲撃は確実に有ると思っていい」



「そうね。遅かれ早かれ貴方達はきっと奴らと衝突するわ」



顎を弄りながら何かを考え込んでいた修司は、膝を叩いて周明を見た。



「そうだ。でも周明、揚羽蝶を敵に回すより、行動を共にする方がお前に取っては得じゃねえのか? これからは表に顔を出す極道よりマフィアの時代なんだろ? なんで揚羽蝶の言う通りにしねえんだ?」



答える周明は、手持ち無沙汰にネギマの焼き鳥を全部バラシながら俯いている。しかしその顔は微笑んでいた。



「ふふふ、どうしてかしらね。多分……日本で出会った、貴方達のような極道のせいかもね」



そして周明はネギと鳥だけにした串を交互に並べている。



「俺達極道のせいって?」



「私達台湾マフィアは抗争があると、報復に報復を重ねて、その連鎖は果てしなく続く。そう……一時の栄光なんて束の間。……次から次へと勢力が入れ代わり、またそのトップに立った勢力も、別の手によって排斥される」



周明は鳥皮とレバーの串を加え、次々に串をしごいて平らげる。



「ネギも鳥皮もレバーも、結局は食い殺されて終わりよ」



モゴモゴと口を動かしながら話している周明を、黙って見詰めている二人。



「でもね。私が日本に来て、極道……ジャパニーズヤクザ達の価値観に驚かされたわ。その殺戮的なイメージとは裏腹に、親和の精神を持ち合わせている。堅気の人間を尊重したり、親兄弟を大事にしたり。私はそういう規範を持った極道が、そして日本が好きになったの。マフィアも極道も同じ裏街道を歩く人種だけど、殺戮だけのマフィアからは何も生まれない」



周明は肩を竦めて目を閉じる。少し離れた席の学生達が何かの話題にドッと盛り上がった。



「だから、貴方達みたいな極道がまだ居るなら、このまま仲良く住み分けてやっていくのがいいと思ってる。私の祖国のような殺戮は、この国にはふさわしくないと、そう思ったのよ」



また何か面白い事でも有ったのか、学生達は再び盛り上がっている。その騒がしさとは対照的に、周明の言葉を聞いた二人は黙り込んでいた。



「何だか雰囲気が悪くなっちゃったわね、店を変える?」



絞り出すようにタカシが口を開いた。



「いや。お前がとんでもない事を言うからだろ」



「そうだ。周明、お前は日本の為に……俺達極道の為に揚羽蝶と一戦交えるつもりなのか?」



周明は照れたのか、顔を真っ赤にしながら両手を振って否定した。



「いやだぁ、そんな大したことじゃないわよ。私は私のやりたいようにするだけなんだから……」



「でも周明……」



「私はね、闘いの中にしか自分の存在価値を見出だせない、ただの殺人機械なのかも知れない……奴らと何も変わらないんだわ」



周明は睫毛を伏せて呟いた。三人の周りには居酒屋の喧騒さえ近付けない、重苦しい空気が漂っている。



「……周明、それは違うぞ」



「えっ? 修司さん?」



「俺も違うと思うぜ、周明」



「タカシさん……」



タカシは周明の前にドッカと胡座を組んで座り、講釈を垂れるが如く偉ぶって話し始めた。



「確かに俺も修司も、手強い相手との闘いは心が躍るし、自分から進んでそれに飛び込んでいく」



「そうだ」



いつの間にか修司はタカシの後ろに陣取っていて、その言葉に腕を組んで頷いている。



「だが、俺達は闘う事だけが目的じゃない。親の為、兄弟の為、シマの為に命を張ってるんだ」



「そうだ」



「だから、自分の楽しみの為に闘ってるんじゃねえ。守らなきゃいけないモノ達の為に拳を振るうんだ」



「そうだ」



「守らなきゃいけないモノ達の為……」



「そうだ」



「修司っ! お前はさっきからそればっかじゃねえかよ!」



「ハッハッハッ、ばれたか?」



笑いながら小突き合っている二人を見ながら、周明は考え込んでいる。



「……自分本位、自己中心とは最も掛け離れた精神よね。そうよ、それが極道。それが日本を好きになった理由なんだわ」



周明は顔を輝かせて二人を見た。



「それはお前も同じだろ、周明」



「タカシさん……?」



周明は驚いてタカシを見返した。



「お前だって……死んでしまった部下の為、築き上げてきたシマの為、一緒にやってきたヒロトの為に、揚羽蝶からの要請を突っ張ねたんだろ?」



周明の身体は何かに撃たれたように強張った。目の前に居るこの二人との強い縁【エニシ】を感じていた。



「なあ周明、兄弟盃って知ってるか?」



タカシが周明の肩をかかえて尋ねる。



「え? それは極道のしきたりかしら」



「そうだ。この儀式を交わしたら、兄弟の為に命を張らなきゃならねえ」



タカシを押し退けて説明する修司に、周明はニッコリ笑って向き直った。



「それは面白い契約ね」



「バッカヤロ! 契約だなんて、そんな紙切れ一枚、判子一つで交わせるような薄っぺらいもんじゃねえぞ? 本当の兄弟や肉親が殺されそうになったら、黙っちゃいられねえだろ? 兄弟になるって事はそういうこった」



「だから、それが何なの?」



不思議そうにしている周明をよそに、タカシと修司はニンマリ笑って顔を見合わせた。



「結ぼうぜ、盃。お前は台湾マフィアだったかも知れねえが、今では立派な極道だよ。な、修司」



「おうよタカシ! どうせ俺達武闘派はやることねえんだし、日本の極道社会を潰させねえ為にも、俺達がやらなきゃなんねえだろ。おう、あんちゃん。ビールお代わり三つ」



周明は溜め息をついた。



「ハア……。まったく性が無いわね。二人共酔ってるでしょう。これは遊びじゃないのよ? 死ぬかも知れないって言ってるでしょ?」



修司はだらしなく顔を綻ばせて笑っている。



「ハア……。二人共、酔っ払いなんだから」



修司は早速運ばれてきたジョッキを手に持った。



「タカシよお。盃、これでいいよな、んな?」



「ああ。俺達には上等だよ。きっちりした道具よりも何よりも、要はここだろ、此処! ゲホッ」



自分の胸を強く叩き過ぎて噎せるタカシ。



「随分怪しい儀式ねえ」



「細けえ事は気にすんなってえ、周明ええ。ジョッキを持てえ、ほらあぁ」



修司はかなり酔いが回っているようだ。タカシはコホンと咳払いを一つして、改まって口上を述べ始めた。



「俺達は今日。巡り会うべくして巡り会った。ここに居る三人は、盃を交わしたが最後、未来永劫苦楽を共にし助け合う。お前ら、覚悟は出来たか?」



「おうっ、いつでえもいいぜええ」



「何? ジョッキを飲み干せばいいの?」



「そうだ。それが兄弟の契りってヤツだ。いくぞ、せ~のっ」



タカシの音頭に合わせて、三人は一気にジョッキを飲み干した。周明は噎せてしまったのか、咳き込んでいる。



「ゲホッ、ゴホッ。こんな儀式一つで命を賭けるだなんてバカげてる。極道って一体何なの?」



タカシは笑って答えた。



「まあそう言うな、周明。兄弟の為に命を張るのはちっともバカげた事じゃねえだろ。なぁ修司」



「おお~う。兄弟の為ならあ、いつだって、こんな命くれてやってもいいぜ~っ、ヒック」



「いやね、酔っ払いは」



「ダハハハ、兄弟。お前こそ飲みが足んね~ぞ~」



「ハイハイ。兄弟の言う通りにするわっ。お兄さん、ビールお代わり!」



そして三人は、酔い潰れるまで飲み明かした。






─────修司達が兄弟盃を交わした数日後




周明は芍薬の事務所で忙しく采配を振るっていた。



「牢【ロウ】、滝川組の引き渡しはいつもの埠頭から場所を変えるのよ。あそこはもう足がついている」



ドタバタと事務所を出て行こうとしていた牢は慌てて踵を返し、額を叩いて悔しがっている。



「シマタ! ドッカら嗅ぎ付けられたか?」



「解らないけど……搬出入の経路には気を付けるのね、売人がサツのPシステムに写り込んだという恐れも有るわ」



「運転手を別に雇わなきゃいけなカタネ。了解しまシタ」



紺のパーカーのフードを被り、牢は事務所を出て行った。雑踏に紛れてしまえば、ごく普通の若者と変わらない。



「頼んだわよ、それから銚【チョウ】、斎藤組への営業を忘れないで。あそこも私達とコンタクトを取りたがっている筈。使いには絶対足がつかない人間を送ること!」



「解りました。頭、行ってきマス!」



灰色のビジネススーツに黒眼鏡の銚は、どこから見ても真面目なサラリーマンにしか見えない。こうしてマフィア達は、一般人に紛れて警察の目をくらますのだ。



「はい、行ってらっしゃい。銚は日本語が上手になったわね、偉いわ」



「有り難うございマス」



舎弟達を送り出した周明は、ソファーに身体を預けると、煙草に火を着けた。



「フゥ、やっと一息つけるわね」



小指を立てながら深く煙を吸い込んだその時、事務所の電話がけたたましく鳴った。



「はい、もしもし」



周明が受話器を取ったが、相手は何も話さない。



「……もしもし?」



痺れを切らした周明が受話器を置こうとした時に聞こえてきたのは、耳懐かしい台湾語だった。



『……なんだ、電話番号変えて無いのか。俺達を舐めてると言うか、肝が座ってると言うか……。周明、お前。俺達に殺される事なんて全く考えてないだろう』



周明はニヤリと笑って現地語で返した。



「久し振りね、明明【ミンメイ】もう十年近くなるかしら」



『ああ。もうそんなになるか? しかし良く俺だって解ったな』



「そのしわがれた声を聞き違えるもんですか、元気にしてたの?」



『まあな。取り敢えずは普通に暮らしてるよ』



二人の間には殺伐とした空気は無く、昔からの友人が話すかのように言葉を交わしている。



呉 明明【ゴミンメイ】卓 牢陣【タクロウチン】陳 青龍【チンセイリュウ】に許 周明を加えた四名は、揚羽蝶の武闘派グループの四天王として、それぞれが組織内で幅を利かせていた。



だが、マフィア組織故に徹底した秘密主義だった為、同じ組織のメンバーでもお互いの顔は知らずに居た。特に暗殺専門の陳 青龍は、配下の者でさえ顔を見た事が無いという念の入れようだったせいで「青龍は実在しない」とか「青龍役の人間が複数居る」など、憶測が憶測を呼んで、その正体はぶ厚いべールに隠されていた。



しかし対立相手と二回ほど大きな抗争が有った時、暗殺部隊以外の四天王、呉、卓、許の三名は作戦を共にし、ミッションが終わった後には、それぞれがお互いに友情を感じる迄になった。



殊更お互いの技を認め合った周明と明明は台湾時代、ちょくちょく酒を飲みに行くような間柄だったのだ。



「明明、今の揚羽蝶を仕切っているのは誰なの? 私達みたいに脳みそまで筋肉で出来ているような輩には、組織の舵取りなんか無理でしょ? どうせ殺し合うんだから教えなさいよ」



明明は溜め息を溢しながら答えた。



『全くよぉ。どういうつもりだか知らないが、お前が日本の利権を独り占めしようなんて変な気を起こさなきゃ、殺し合わなくてもいいんだぜ? そこんトコ解ってる?』



受話器越しに聞こえてきた明明の情けない声に、周明は笑って答えた。



「アッハハ、弱体化した組織に従うほど落ちぶれちゃいないわよ。大体、ボスが死んで、揚羽蝶は一回公安から潰されたじゃないの。新しいボスを据えて復活したはいいけど、台所事情が芳しくなくて青息吐息だって聞いてるわよ?」



明明はまた大きな溜め息をつく。



『その通りだ。今の揚羽蝶は一応構成員五千人を数えるが、そのほとんどが、仕事にあぶれて性が無くマフィアに成り下がったろくでなしばかりだ。日本に来たのは、俺達三人と選りすぐった精鋭百人程なんだが……本国に残ってるのはカスばかり。俺達を潰せば、揚羽蝶に勝ったも同然だぜ。どうする?』



「そんなの決まってるじゃない。全員ぶち殺して日本での安泰を勝ち取るわ。大体、あんたらのボスが日本を制圧するって息巻いてるから、こんな決断しなくちゃいけないのよ! 新しくボスになった馬鹿は誰なの?」



明明はまた更に深い溜め息をつく。



『ハァ……総林【ソウレイ】だよ』



「ええっ? 金 総林【キムソウレイ】なの? あの馬鹿息子の?」



『そう、ボスになっちまったんだよ。あの馬鹿息子が……』



すると今度は周明が大きな溜め息を吐いている。



「ハァァァ……あんた達には同情するわ。いくら適任者が居ないからって、総林は無いでしょ」



『ああ、誰かが院政を目論んで擁立したみたいなんだが、ヤツは根が馬鹿だから有頂天になっちまって、周りもヤツを抑え切れなくなったみたいだ。結局その首謀者も誰だか解らない内に殺されて、事実は闇の中さ』



「前のボスの長男、次男はどうしたのよ。長男はまだしも、次男はかなり優秀だった筈じゃないの!」



『いや、彼らは二人とも公安に引っ張られて囲いの中さ。二十年は出て来られないって話だ』



「でも総林は渡世のしきたりも知らないお坊っちゃんでしょ? カネを儲ける事しか考えて無いから無茶するし。アレはボスの器じゃないわ」



『そうなんだよ! それで、台湾のシノギが公安に目を付けられて身動き取れなくなった時、アイツなんて言ったと思う?』



「さあ、馬鹿の考えてる事なんて解らないわよ」



『これからのシノギはグローバルの時代だってよ!』



周明はすかさず突っ込んだ。



「何よそれ、私がボスから言われたことそのまんまじゃない!」



『そうだろ? それをさも自分が思い付いたみたいに言う訳よ、あの馬鹿息子。そんな気まぐれに命を掛ける俺達の身にもなってみろってんだ!』



不満たらたらの明明に、周明はとうとう吹き出してしまった。



「ブッ、アハハハ! 愚痴がいっぱい出てくるわね、ご愁傷様。いっそのこと芍薬に入らない? 明明だったら優遇するわよ」



『俺だってそうしたい所だが、前のボスには恩義が有るし、そういう訳にもいかないだろう。ところで、俺を優遇出来る位そっちは景気いいのか?』



「まあまあかしらね。こっちのヤクザ組織との提携を広げているから、シノギは順調よ。貴方達は知らないだろうけど、ここまでヤクザと信頼関係を構築するのは大変だったんだからぁ」



『そりゃ解っちゃいるさ。お前があの時台湾から引き連れて行ったあれだけの精鋭部隊が、あっさり全滅したんだからな。さすがに俺も日本の極道達にはブルったぜ。もっとも、お前が生き残っていた事にはもっと驚いたけどな』



「じゃあ、私が簡単に利権を渡せない事も理解出来るわよね。それに私はこっちのヤクザ達も日本も好きだし。文句が有るなら力ずくで来なさいよ」



『勿論だ。マフィアらしく力ずくで奪い取ってやるぜ、楽しみに待ってな』



「望む所よ、馬鹿総林によろしくね、じゃっ」



周明はそう言って、電話を切ろうとしたが、まだスピーカーから明明のガナリ声が聞こえてくる。



「なによ! まだ何か用なのっ?!」



『いやあ、ちょっとお前に聞きたくてな。あれから日本の極道社会は弱体化したって聞いたけど、俺達みたいな武闘派はまだ生き残ってるのか?』



周明はそう聞いた途端、笑顔になる。



「フフフ、居るわよ~。私が知る限りじゃ二人だけだけど、時代遅れの極道が居るわ。けど、あの二人は間違いなく本物よ。特に片方はとっても魅力的でね、思わず惚れちゃいそうになる位なのぉ……キャッ、言っちゃった!」



その乙女チックな物言いに、明明は全身の力を抜かれていた。



『ば~か。お前の好みなんか聞いてねえんだよ! でも……お前がそこまで言う極道なら、会ってみたい気もするな』



「ふふふ。貴方達が日本を仕切るつもりなら、絶対に避けては通れない二人よ。別にそこまで大きな組織に居る訳じゃないけど、不思議とカリスマ性が有る二人なの」



明明は会った事もない二人の極道に、興味が湧いていた。自分と同じ匂いがする、昔ながらの喧嘩屋に。



『カネ勘定は得意なタイプか?』



「まさか。義理と人情に命を懸ける、正真正銘の極道よ。あ、そういえばこの前、その二人とおかしな約束をしたわ。極道のしきたりらしいんだけど、『兄弟盃』っていうのを交わしたの。安っぽい居酒屋でジョッキを片手にね。とっても楽しかったわ」



『兄弟盃か。俺も昔、聞いた事が有る。義兄弟の契りを交わしたって事だよな。じゃあ、お前の命が危なくなったらそいつらが助けに来てくれるって訳だ』



周明は思わず笑い飛ばした。



「ハハッ、まっさかぁ! そんな訳無いわよ。一杯五百円のビールで命なんか懸ける筈ないじゃない。二人とも酔ってたしね。でもね、話していて気持ちのいい二人なの」



『ハハハハ、そりゃそうだな。居酒屋での約束にいちいち命を懸けてたら、命が幾つ有っても足りねえもんな。しっかし、モノクロの周明もヤキが回ったな。あ……これから殺さなきゃいけない相手とこんなに楽しく笑ってちゃイカン。情が移っちまう』



「私も、明明とお別れするのは本当に寂しいわ。せめて私が苦しまないように葬ってあげるから、安心してあの世に行きなさい」



『ヘッ、相変わらずの減らず口だな。でも、俺はお前の事を認めているから、こうして楽しく話せるし、明日死ぬかもしれない境遇だから、自分に嘘はつきたくない……。最後に言わせくれ、俺はお前と知り合えて良かったよ』



周明は受話器を耳に当てながら微笑んでいる。



「有り難う、明明。喧嘩相手とこうして話せるなんて幸せよね。私も明明と知り合えて良かったわ」



『あ、忘れてた。お前に差し向ける先発隊は青龍と牢陣だそうだ。青龍は武術の修行をする為に一度揚羽蝶を抜け、チベットの治安舞台に所属していたという話だ。恐らくその時に地獄を見たんだろう、言語障害を患っていて上手く話せないらしい。元々得体の知れないヤツだったが、失った言葉の代わりに得た殺人技の実力は、俺でも計り知れない。青龍には気を付けろ』



「ふふふ、その言い方。まるで私の心配をしているみたいよ?」



『ば、馬鹿言え! 俺がとどめを刺しに行くまで生きていろって意味だ!』



「ハイハイ、解ったわよ、約束する。ウフフフ」



周明はこの時、心の底から明明との会話を楽しんでいた。これから争う相手ではあるが、祖国台湾で心を許せる人間は、彼をおいて他には居なかった。



運命の悪戯とはいえ、これから明明とは殺し合う事になる。しかし恨みなど、これっぽっちもない。



ただ己の運命に従って精一杯生きるだけ。心に信念を携えて、真っ直ぐに、立ち止まらずに……。



『周明。地獄で会おうぜ』



「ええ。また会いましょう」



そう言って二人は、静かに受話器を置いた。




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