第3話 紅葉(もみじ)


周明との一件が有ったその翌日、ヒデと修司は的場組の事務所で珈琲を飲んでいた。



「兄貴済まねえ。大変な目にあわせちまって……」



「いや、タカシには聞いてたんだ。奴らが近々挨拶に来るってな。それが昨日だったってだけさ。しかし、あのオカマ……許周明って何者なんだ?」



ヒデは所在なさげに角砂糖の瓶を弄んでいる。



「聞いた話だと、台湾マフィア【揚羽蝶】のメンバーで、それが何かの事情で日本に流れてきた。そして今は、食い詰めた派遣外国人を集めてグループにしているみたいなんだ……」



「そうか。それで奴ら日本語が堪能なんだな。それとあいつ……頭は日本人だって言ってたぜ?」



煙草の煙を思い切り吸い込むと、ヒデは溜め息と共に吐き出した。



「兄貴、それ……ヒロトだよ」



「ヒロト? ヒロトって……あの破門になったヒロトか?」



「そう。兄貴も知ってるように、あいつは計算高い癖に、カネが絡むと見境無い。破門になったのだって、なかなか立ち退かない住人の家に、トラックを飛び込ませて死なせたことが原因だった筈だよ」



修司が煙草を咥えると、ヒデが火を着けた。



「ああ、有り難う。しかし……何でそんな奴が今頃になって……」



「さあね。破門になってどこの組にも相手にされないあいつには、願ってもないチャンスだったんじゃないの?」



「そうなのか……」



修司は煙草から立ち上る煙の行く先に目をやりながら呟いた。ヤニで汚れた蛍光灯がチラチラと瞬いている。



「だけど兄貴、奴らの組織は長く続かないと俺は思うんだ」



「それはどうして」



「兄貴が周明から聞いた通り、奴らのシノギはシャブに頼り切りだ。剰りにも大っぴらにやり過ぎて、警察からも既にマークされている。現に監視カメラはどんどん増えているし……一斉検挙されるのも時間の問題だよ」



暴対法で取り締まれないマフィアだったとしても、組織的に覚醒剤を売り捌いているとなれば話は別だ。修司は「私達はリッチなのよ」と月明かりの下で笑った周明の顔を思い出していた。



「傲れるものは久しからずや、ってとこだ。奴らもオシマイさ。それにあいつらは俺達みたいに杯での結び付きが無い。金の切れ目が縁の切れ目、あとはクシの歯が抜けるようにバラバラになるだけ。俺達は高みの見物だよ」



「そうか……」



ヒデの言葉は自信に満ちている。しかし修司は胸に湧き上がってくる違和感を拭い去れずにいた。



「傲れるものは久しからずや……か……」



修司の違和感はやがて胸騒ぎとなり、胸を焦がすその悪い予感は、とうとう現実となって的場組に降り掛かってきた。



「おやっさん! はあっ、はぁ。た、大変です!」



乱暴にドアを開け、組員の加藤が飛び込んでくる。余程急いで来たのか、汗をダラダラ垂らし、肩で息をしている。



「なんだ加藤。どうした?」



「ああ修司さん、ご苦労様です。いや、おやっさん……実はですね……」



ヒデは煮え切らない加藤の様子を見て声を荒げた。



「野郎、勿体ぶってねえで、サッサと言いやがれ!」



「ひっ、す、すいません。八丁目の滝川ビルで、石田組の若い衆と揉めまして……」



それを聞いたヒデの顔色が変わった。



「それで……どうした」



「真一【シンイチ】が……向こうの若い衆を刺しました」



ヒデはテーブルを拳で叩いて叫んだ。



「この馬鹿野郎!! 何か有ったらすぐ報告しろって言っただろうが!! あそこはまだ微妙なシマなんだぞ!」



「で、ですがおやっさん、奴らが陰険な嫌がらせをするからなんです。舐められっぱなしじゃ……」



「てめえ、そのでっけえ頭にゃ脳ミソ入ってねえのか。今派手にやらかしてみろ、簡単に両方の組が無くなるんだぞ! 刺したらマズいだろ、刺したら……」



頭を抱えているヒデの肩をポンと叩いて、修司が身を乗り出す。



「石田組って……共和会の石田勝敏さんのところかい?」



ヒデと加藤は目を丸くして振り返った。



「兄貴……知ってるのか?」



「ああ。この前偶然会ったんだ。その時もビルが何とか言ってたが、詳しく聞かせて貰えるかい?」



ヒデは軽く頷いて、概略を説明する。



「滝川ビルは、白澤一家が解散して手放した、いわばフリーのビルなんだ。ここは駅に近くて、莫大やな利益を生み出す。だから、うちと石田組でその利権を巡って小競り合いになっていた」



「なるほど。……じゃあこうしたらどうだ? そのビルを石田組と仲良く分かち合うってのは」



ヒデは腕を組み、大きな声で唸っている。



「うぅぅむ……それは俺も考えた。でもこのご時世だ。どこの組も喉から手が出るほどシノギが欲しい。向こうが簡単に納得しないだろう。それに、よりによって、石田の若い衆を刺しちまったんだ。もう有利な取引なんか出来ない。いや……それどころか向こうは戦争だって息巻いてるかも知れないんだ」



「すいません、すいませんおやっさん。取り返しのつかないことを……」



加藤は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、土下座のしっ放しだ。すると修司が声を掛けた。



「お前が刺したんじゃないんだろ? それに起きてしまったことは仕方ない。今出来ることを何か考えるんだ」



「はい、グズッ、解りました……修司さん、グジュ……」



そして暫くは加藤のすすり泣く声だけが事務所に響いていたが、やがて彼は大きな音で鼻をかむと立ち上がり、修司に向き直った。



「おやっさん、修司さん。俺はこれ以上向こうと揉めないように、皆に伝えてきます」



「ああ、それでいい」



ヒデが頷きながらそう言うと、加藤は満面の笑みを湛えて事務所を飛び出して行く。ドアがまたけたたましい音を立て、閉まった。



「全く。泣いたり笑ったり、騒々しいヤツだよ」



修司が笑いかける。



「さすがは兄貴だ。でもごめんよ、俺の教育が行き届いてなくて」



ヒデが頭を掻きながら畏まる。



「はっはっはっ、若いモンはあれ位じゃないとな。しかし問題は……」



「ああ、どう落とし前を着けるか。だな兄貴」



また事務所に静寂が訪れた。二人は押し黙ったまま考え込んでいる。先に沈黙を破ったのは、修司の方だった。



「なあヒデ。俺と話した時には石田さんも、抗争はなるべく避けたいって言ってたんだ。平和的に話し合えば何とかなると思うぞ?」



「え? そうなのか兄貴」



「ああ。聞けば、元の発端は向こうの嫌がらせみたいだし、交渉の余地はまだ有ると見た」



「でも、一体どう交渉すればいいって言うんだ……」



ヒデはすっかり頭を抱え込んでしまった。



「なあ……ヒデ、そのビルは年間どれ位のアガリが有るんだ?」



「う~ん、正確には解らないけど……おそらく2、3億は有ると思うけど?」



ヒデは不思議そうに修司を覗き込んだ。左手を握ったり開いたりしていた修司は、ヒデに向かってキッパリと言い放った。



「ヒデ。俺が【もみじ】で決着をつける」



この修司の言葉に、ヒデは慌てふためいた。



「も、も、もみじ!? しゅ、修司さん正気ですか?」



「なんだよヒデ。敬語なんか使って!」



ヒデとは対照的に、修司は落ち着き払って微笑みを見せている。



「だって……兄貴が剰りにも驚ろかすから」



「ははは。俺の腹は決まったぞ。年間数億の利権と若い衆の命。吊り合うどころかお釣がくる。石田組の番号解るか?」



「解るけど兄貴、喧嘩相手に電話を掛けるのかい?」



「どのみち話はしなきゃいけないんだ、繋がったら俺が話すよ」



ヒデは電話帳で調べた番号を押して、修司に受話器を渡した。



トゥルルル……



呼び出し音が漏れ聞こえてくる程、事務所の中は静まり返っている。ヒデは固唾を飲んで、修司の様子を見守った。



ガチャッ



『はい石田組』



「的場組の北原だけど、組長の石田さんはいるかい?」



喧嘩相手から掛かってきた突然の電話に、電話口の組員は慌てているようだ。



『ま、的場組だと?! ちょ、ちょっと待ってろ』




─────石田組事務所




「おやっさん、的場組からです。北原って奴から」



若い組員の言葉に、石田は眉を潜めた。組員達も色めき立つ。



「的場組が何の用だ!」



「かち込んだろか!」



銘々が叫んだので一時事務所内は騒然となった。銃を探しに行く者や、木刀を持ち出し、事務所を出て行こうとする者迄現れた。



「静かにしやがれ、このクソタレがぁっ!」



「す、すいません」



しかし、組員達は石田の一喝で騒ぐのをやめ、借りてきた猫のように大人しくなった。



「で、修司さん……北原さんからなんだな?」



「そう言ってました」



石田は受話器を受け取り、深呼吸をしてから耳に当てる。その一挙手一投足を石田組組員達が注視していた。



「お電話代わりました、石田です。修司さん、その節はお世話になりました。ご用件は……例のアレですよね」



敵対関係にある両者だが、石田は礼節を持って修司に接している。



『ああ。済まなかったな。若い衆の具合はどうだい?』



修司も、出来るだけ事態の重みを匂わせないように伺いを立てた。



「ええ。お陰様で命に別状はありません。しかしケジメはケジメです。的場組はこの件に対して、どういった落とし前を着けてくれるつもりなんでしょうか?」



『それなんだが石田さん、確かに怪我を負わせたのは悪いが、ことの発端は、そちらの若い衆の、行き過ぎた嫌がらせだと聞いている』



「シマが絡んでるんだ。修司さんも極道なら、仲良しこよしじゃ居られないこと位は解るでしょう。とにかく、何らかの形で収めて貰わないと、こちらもいきり立った若い衆を抑え切れないんでね」



石田の声色が低くなり、その口調も丁寧さを欠いている。組員達にも親父である石田の怒りがヒシヒシと伝わり、自然、各々が頷いていた。



『なるほど……。しかし、こんな事で抗争にでもなったら、お互いの組に明日は無いという事になる。そこで相談なんだが……』



「修司さん。何か妙案が有るとでも?」



質問を投げ掛けられた修司は、一呼吸間を置いて言う。



『……ああ。そちらの若い衆の件と、滝川ビルの件もひっくるめて【もみじ】でケリを着けたいんだ』



その修司が言った言葉に、石田は目を見開いた。



「えっ? もみじ……ですか? また随分古い慣習を持ち出しましたね。それで、やるとなったら的場組は誰が出るんですか?」



修司からもたらされた予想外の提案で、石田はすっかり元の言葉遣いに戻っていた。もみじと聞いた組員達もどよめいている。



『もちろん俺が出る』



もみじのことを知らない組員も居て、ヒソヒソとあちこちから内緒話が漏れ出した。



「いいんですか? 二度と指が動かなくなるかも知れないんですよ?」



『構わない。それで、そちらの代表は、俺と同じ客分のタカシをお願いしたい。これ以上傷が広がらない内に、お互い綺麗さっぱりケリを着けようじゃないか』



「私は構いませんが、タカシさんが代表になってくれるかどうかは解りません……。相談して、また折り返し電話します」



もみじがどんな物か知っている組員は、タカシが代表になりそうなのを聞いて、安堵の溜め息を吐いている。それ程に過酷な儀式なのだろう。



『ああ、解った。よろしく』



そして二人は電話を切った。



石田が電話を置くと、待ち兼ねたように組員達が次々と詰め寄ってきた。



「戦争はするんですか、しないんですか」「もみじですか?」「おやっさん、的場組はなんて……」「こうなったら、やってやりましょう!」



石田は短い溜め息を勢い良く吐くと、両手で机を思い切り叩いた。



「……るせえぞてめえら! 一度に喋るんじゃねえっ!」



水を打ったように押し黙った彼らをよそに、石田は奥のソファーに座っているタカシに声を掛ける。



「修司さんが貴方に【もみじ】での決着を申し出てらっしゃいますが、どうなさいますか? 勿論、お断りになるのは自由です」



タカシはゆっくりと立ち上がり、素早く道を開けた組員達の間を進みながら答える。



「ちらほらとは聞こえてたよ。今度の一件での落とし前ってことかい?」



石田はデスクの前に立ったタカシを見上げて微笑んだ。



「いえ、それでは割りが合いません。滝川ビルの利権もひっくるめての勝負です」



タカシは胸から煙草を取り出して、口に咥えた。若い組員がすかさず火を点ける。



「あの馬鹿修司……古臭い勝負を持ち出してきたな」



煙を吐き出してタカシが呟くと、組員の関根が申し訳なさそうに頭を掻きながら二人の会話に入ってきた。



「あの……おやっさん。そもそも【もみじ】って何の事ですか?」



「ははは。お前はまだ若造だから知らないのも無理はない。もみじはな、この辺の極道に伝わる、抗争を納めるための勝負だ」



「勝負……」



関根はタカシと石田を代わる代わる眺めている。石田が更に続けた。



「揉め事の度に戦争をやるより、その組の代表を決めて勝負した方が、お互いの被害が少なくて済むだろう」



「そうですね。でも勝負って……具体的に何を?」



石田が手のひらを関根に向けて開き、悪戯っぽく口角を上げた。



「もみじと手の平。似てると思わないか?」



関根は訳が解らず目を白黒させている。



「はい。いや、でも……それが何か……」



「もみじの葉を千切るようにな、自分の指をぶっ千切り合うんだよ」



「千切り合うって……」



関根の顔色が変わったのを見て、石田は薄ら笑いを浮かべながら続けた。



「つまりな。代表者がドスを片手に、交代で小指から一本づつ指を落としていく。どちらかが負けを認めるか、気を失ったらそこで決着だ」



「そ、そんな……そんな馬鹿げた勝負が有るんですか。いや、それをタカシさんがやるんですか?」



目を見開いて自分を見詰める関根を振り返ることもしないで、タカシは他人事のように言った。



「前回はいつだっけか……随分前だよな、石田さん」



振られた石田は懐かしそうに答えた。



「そうですね。あれはもう、十五年以上前になりますか。確かほら、栗原組と南雲組の抗争で……」



「ああ、そうそう。栗原組の城間さんが勝って、山下ビルの所有権が決まったんだよな」



「そうです。城間さん左利きだから、しばらく尻が拭けないって嘆いていましたよね。ははは」



「右手を千切りゃあ良かったのにな、はっははは」



関根は高笑いする二人をただ呆然と眺めていた。



世にも恐ろしい勝負に全く動じない権田隆史と、それを笑って話す石田。彼はこの二人に、自分達が知らない【極道】という生き方を垣間見た気がした。



「石田さん、滝川ビルのアガリはどれ位有るんだ?」



「はっきりしたことは調べなければ分かりませんが、恐らく年間二、三億は行くと思います」



それを聞いて、タカシがパシンと膝を叩いた。



「ヨシッ。戦争をしなくて済めば、無駄な血を流さずに済むし、更にそれだけの利権が有るとなれば見返りは大きい。石田さん、やらせて貰うよ」



「そうですか。では、心苦しいのですが、お願いします。その代わりと言ったらナンですが、いい病院を予約しておきますので」



「世話になってる石田組の為だ。お役に立てて嬉しいよ。医者も手配して貰えるなら、何の心配も要らないしな! はっはっはっ」



タカシはそう笑い飛ばすと、自分の手の平をしげしげと眺めて呟いた。



「しかし……長いこと守り通した指だったんだけどな……。ま、しょうがないか」



そうは言うものの、その言葉には微塵の悲壮感も無い。寧ろタカシの顔には、少年のような屈託の無い笑顔さえ浮かんでいた。






─────的場組事務所



「はい的場組」



折り返しの電話を待っていた修司は、一回目のコールで受話器を取った。



『修司さんですか? 石田です。先ほどの勝負、お受けいたします』



「そうか。どうもありがとう。古臭い勝負で申し訳無かったね」



『いいえ、どういたしまして。タカシさんにも快く了承して頂きました』



「実はね……アイツが首を縦に振らない訳はないと思ってたんだ。そちらの組には世話になってるんだし、お互いの組に取って有益なこの勝負、受けなきゃ男が廃るってもんだろ」



『ははは。さすがは兄弟分同士、お互いの腹は読めているという訳ですね。では当日の勝負、お二人の男気を見せて頂きますよ。近郊の親分達への報告や日程決めはこちらでやらせて頂きます。決まりましたらまた改めて』



「手間を掛けさせて申し訳ない。感謝してるよ」



そう言って修司が電話を切ろうとした時に、受話器からタカシのガナリ声が聞こえてきた。



『くぉらぁー!! 修司ぃ! もみじ対決だなんて調子こいた事言ってんじゃねーぞ!! 後で吠え面かくなー!』



これに答え、間髪入れずに修司も言い返した。



「うっせーぞ! てめーこそ泣きべそかくなよ!! おうっ?!」



お互いの事務所に、二人の声がビリビリと響いた。



そして少しの間を置いて、修司はフッと笑みを溢した。



「じゃあタカシ……当日に会おうぜ」



『ああ。またな』





─────某日、とある料亭の大広間にて



関東北辰会系的場組と、関東共和会系石田組の手打ち式【もみじ】が行われようとしている。



会場には、見届け人として近郊の親分衆が沢山集まっている。煙草の煙と荒くれ者達の放つオーラで、一種異様な空気がその場を充たしていた。



「おい修司、久し振りだな。しっかりと努めろよ!」



「タカシ! お前も根性出せ!」



厳粛な催しとは裏腹に、会場は活気に溢れ、修司とタカシは各親分達から次々と激励を受けている。



そして進行役を引き受けた隣町の太田組組長・広瀬影敏【ヒロセカゲトシ】が壇上に立った。



「高い所から失礼致します。定刻とあいなりましたので、手打ち式を始めたく存じます。お客様方は所定のお席へお掛け下さい」



来客達はいそいそと席に着き、会場はピンと糸が張り詰めたような緊張感で包まれる。



参列者が全員着席したのを見届けた広瀬は、頃合いを見計らって話し始めた。



「皆々様方におかれましては、既に万事ご承知の事とは存じますが、ここで改めまして今日迄のいきさつをご報告させて頂きます」



広瀬は咳払いを一つして、壁に貼られている経緯を綴った紙を指し示しながら説明した。



「的場組と石田組は、白澤組が手放した滝川ビルの利権を巡って悶着となった。この一件に関して両組は手打ちを希望し、本日取り行われる【もみじ】の決行にあい成った。両組の親分方にお伺い致します。ここ迄で相違はございませんか?」



石田とヒデは声を揃えて答えた。



「相違ございません」



参列している親分衆も、緊張した面持ちで式の進行を見守っている。スーツ姿や羽織袴など、その格好は様々でも、瞳に宿した眼光には、みな鋭いものがあった。



「よろしゅうございます。では、次に移らせて頂きます。両親分方は、この一件の勝敗をここに控えた二人に委ね、もみじで決まった結果に、組員一同従うことを、こちらの親分衆の前でお誓いになりますか?」



二人はまた声を揃えた。



「誓います」



「では手打ちの方へ参ります。ここで、今日の勝負に挑む、両組を代表する人物の紹介をさせて頂きます。両者、起立願います」



「うっす」「おう!」



修司とタカシは、緊張を顔に貼り付けたまま立ち上がった。



「まずこちらに控えますは関東北辰会所属、的場組客分、北原修司にございます。彼の異名である【鼻歌】をご存知の方も多いと存じます。本日は組を代表してこの催しに参加致しました。どうぞ皆様、この勇敢な漢オトコに、温かい拍手をお願い致します」



広瀬の呼び掛けに、会場からは盛大な拍手が贈られた。



「続きまして、関東共和会所属、石田組客分、権田隆史にございます。彼の異名、【仏】をご存知の方も多いと存じます。彼もまたこの極道キワメミチに於いて、華々しい活躍をして参りました。どうぞ皆様方、今一度盛大な拍手をお願い致します」



再び拍手と歓声が巻き起こる。広瀬は会場が落ち着くのを待って、仰々しく進行を続けた。



「ここに控えましたる両人は、極道の名に恥じない、そして両組を代表するに相応しい漢達であります。どうぞご来場の皆様方におかれましては、彼らの生き様をその御目に焼き付けて頂き、本日15年振りに開かれる【もみじ】をお見届け頂きますよう、お願い申しあげます」



広瀬に促され、修司とタカシが来客に一礼すると、会場は再び割れんばかりの拍手に包まれた。二人は親分衆の見守る中、中央の座敷テーブルを挟み、正座して向かい合う。



その後方では、羽織袴姿の介添人が、二人の使用するドスを酒で清めている。



「タカシ。どっちからにするんだ? 俺から行こうか?」



「いや、俺から行かせて貰っていいかな。こういう事は、早い方が性に合ってる」



そして先行に決まったタカシは、手に持ったドスを見詰めている。



その切っ先はよく研がれていて、触れただけでも切れてしまいそうだったし、刀身も妖しい光を放ち、輝いていて、後方の親分達の顔までが映り込んでいた。



「いかせて……頂きます」



参列者達は息を潜めてタカシの指先を見詰めている。タカシはドスの切っ先を桐の無垢材で出来た受け台に突き立てると、刀身に触れる位置に小指を置いた、そして……。



「くっ!」



歯を食い縛り、力を込める。その研ぎ澄まされた刃先が第一関節と第二関節の間に沈んでいく。



「ぐっ……くうっ……」



銀色に光る刃と、肌色の指の肉との境を溢れ出した真っ赤な鮮血が彩り、苦痛を堪えるタカシの歯ぎしりだけがギシギシと会場に響いた。



「うわっ、うわわ……」



介添人である筈の若い組員も、その光景に思わず目を背ける。



「むうぅ……」



刃が骨に当たり、止まったところでタカシは覚悟を決めた。



ドンッ



ドスが当たった勢いで受け板が軽く弾み、小指の先がコロコロと、血液で軌跡を描きながら転がった。



「一刀目、仕舞いです」



タカシは昂った気持ちと鼻息を落ち着けながら、仁義を切る。左手は燃えるように熱く、鼓動の度に激しい痛みが脊髄を駆け巡る。その切り口からは勢いの無い水鉄砲よろしく、規則的に血がピューピューと吹き出していた。



介添人が素早く傷口を消毒し、くるくるとさらしを巻いて止血する。するとタカシは、冷や汗を拭って修司を挑発した。



「どうするよ修司。何なら、このままやめてやってもいいんだぜ?」



修司は低く、落ち着いた声で返す。



「てめえ俺を舐めるなよ? やめるわきゃねえだろうが! あ、そうだ。ところでタカシ、俺サングラス掛けてもいいか?」



左手を襲う激痛と、いきなり軽い調子になった修司とに苛立ちを覚えながらタカシは答えた。



「ふん、何のつもりだか知らねえがな、どうやったって痛みは一緒だ。……好きにしろっ!」



二人が話している間に、介添人が血で汚れたテーブルの布と受け板をまっさらな物へと交換していた。すると修司は、徐オモムロに胸からサングラスを取り出して掛けると、ひょいとドスを手に取った。



「こちらも一刀目、いかせて頂きます」



トンッ



修司はキュウリか何かを切るかのように、ためらいも無く小指を詰めた。



その剰りに呆気ない行為とは不釣り合いな程、切り口からの出血は激しく、机の布はカンバスに描かれたハイビスカスのように鮮血で染まる。



「うわっ……見てらんねえ」



その様子を眺めていた石田組の関根が、思わず目を背けようとしたが、その途端に石田から首根っこを掴まれる。



「おらっ! しっかり見てろ! タカシさんは俺達の代わりに血を流してるんだぞ。この姿を最後まで、その目んたまに焼き付けておきやがれ!」



「は……はい、解り……ました」



関根は震える体を抑えて、漸く返事を絞り出した。



修司の止血も終わり、準備が整うと、タカシは薬指に刃を当てる。その額には脂汗が吹き出し、ドスを持つ右手が心なしか小刻みに震えているようにも見える。



生き物とは、殊更進化の進んだ高等動物ともなれば、誠に良く出来ているものである。



限界を超えた痛みが瞬時に発生したとしても、その刺激は形を変えて伝播し、痛覚として脳に届くことは無い。



人が事故などで突発的に肉体を破壊された時にでも、その後に何らかの回避行動が取れるのはその為だ。



しかしこのもみじは、激痛が来るのを自分自身で認識しながら、自らの肉体を破壊する。



そこには錯覚も錯誤も存在しない。純然たる激痛が、避けようもない神経の叫びが、容赦なく自らを責め苛む。



二本目の指だから痛みに慣れるという事も、当然ながら無い。結果その痛みを回避する為、脳は勝手に意識を遠い場所へと誘イザナうのだ。



そんな状態をやっとの思いで繋ぎ留め、タカシは呟くように宣言した。



「二本目、いかせて頂きます」



そして歯ぎしりをギシギシと響かせながら、また骨まで到達したドスに更なる力を込めた。



ゴットン!



受け板と刃が当たる嫌な音が会場に響き、机上では再び鮮血が吹き出した。切り飛ばされた薬指は、受け板の端にようやく引っ掛かっている。



歴戦の強者たる親分衆も、さすがに目を伏せたり、顔を背けたりしていた。



「ぐ、むむぅぅ」



タカシは全身を駆け抜けていく激痛に、もはや視界が狭まり掛かっている。しかし次の用意が整うと、目の前の修司は何のためらいも無く言った。



「二本目いかせて頂きます」



タンッ



その剰りにも簡単にことを運ぶ修司の行動に、タカシはこの上ない不安を覚えていた。



【俺が……負ける?】



自信を失いかけたタカシの意識は、更に遠い世界へと導かれる。机上は修司の薬指から出る鮮血で、紅に染まった。



「おやっさん。このまま二人が意地を張り続けたら、親指まで無くなって、ドラえもんみたいになっちまいませんか?」



そんな関根の問いに石田は笑って答えた。



「ははは。なあに、そんなに耐えられやしないさ。今までの最高は中指だ。恐らく、決着はもうすぐだ」



「そう、ですか……」



一方タカシは、その朦朧とした意識の中、血の滲んだサラシに巻かれている自分の手と、真向かいで何事も無かったように座っている修司を見比べて思った。



【何故……どうしてコイツは平気なんだ?】



剰りの激痛に、必死で意識を繋いでいる自分に対して、まるで痛みを感じていないかのように余裕でことをなす修司。



自分が痛みに弱いのか。いやしかし、今まで掻い潜って来た修羅場でも、痛みを耐えてきたからこそ、生き抜いて来れたのではなかったか。



それならば修司が痛みを感じない体質なのか。でもどうして、盃を交わしてからこれまで、そんな話を小耳にさえ挟んだ事が無いのか。



グルグルとタカシの脳裏を思考が駆け巡る。いや、ただ目がグルグルと回っていただけで、考え自体はまとまってさえいなかったのかも知れない。



そして敗北の予感に打ちひしがれながら修司を窺った時、タカシは漸くその異変に気が付いた。



ポーカーフェイスにサングラス。一見何でもないように振る舞っている修司だが、顎からは顔を伝ってきた汗が滴り落ち、唇は強く結ばれて血色を失い、あろうことか僅かにだが震えている。



真っ黒に思えたサングラスも、目を凝らして透かし見ると、自分と同じように痛みを堪えて充血した双眸が垣間見えた。



「フッ、修司。お前も俺と一緒じゃねえか。痩せ我慢しやがって」



「う……うるせぇ。早くしやがれ……」



絞り出すような修司の声に、漸く僅かな余裕を持ったタカシはしかし、考えるのをやめたことで全神経が傷口に集中してしまった。



ドックンッ! ズキンッ!



「ぐっ……くくぅっ!」



ドクン ズキン ドクン ズキン! ドクン ズキンッ!!



鼓動に伴って大きくなる手の痛み。止血が完全ではない為、貧血状態となって遠のきそうな意識。身体に刺さる、親分衆からの鋭い視線。煙草の煙で淀んだ会場の空気が催させる吐き気。



「ウゲッ……ウプッ、う、ううぅん」



様々な要因が交錯して、タカシの心を繋ぎ止めていたものが遂に、プツンと音を立てて切れた。



ドサッ



そして白目を向いたタカシは、力無く机に突っ伏してしまう。



「はぁ……。お疲れさんだったな、タカシ」



修司は溜め息をひとつ漏らすと、ピクピクと痙攣しているタカシに向けて、労いの言葉を掛けた。



「おおっ……」



会場の緊張が一気にほぐれる様子を見て、進行役の広瀬が声を上げる。



「皆々様に申し上げます。もみじ勝負はご覧頂きました通り、的場組は鼻歌の修司こと、北原修司が勝利を収めました。依って事前の取り決めに基づき、滝川ビルの利権は的場組の手に委ねられることとあいなります。この件にご異存がお有りになる方はご起立願います」



しんと静まり返る会場。立ち上がる者はおろか、誰一人として身動ミジロぎさえしない。その様子を一望すると広瀬は続けた。



「満場一致でのご了承、誠に有り難うございます。それでは皆々様、一本締めにて手打ちとさせて頂きとう存じますので、ご起立の上、お手を拝借願います」



広瀬の音頭に列席の親分衆が、わらわらと立ち上がる。



「では参ります。いよぉぉおっ」



パァァン!



会場が一本締めの音圧で満たされると、空気が一瞬膨張したのではないかという錯覚さえ覚える。



そして束の間の静寂が訪れた後、一気に盛大な拍手と歓声が沸き起こった。



「こんな素晴らしい勝利は久し振りに見た」



「修司! 良くやった!」



「タカシも立派だったぞ!」



会場には惜しみない拍手が注がれている。その興奮も冷めやらぬ内に、ヒデが修司の元へと駆け寄った。



「兄貴ィ! よく耐え抜いてくれたな。俺はいま猛烈に感動しているぜ!」



「ああ。でも危なかった……先に寝ちまわなくて良かったぜ」



ヒデは眼に涙を浮かべて言った。



「立派なもみじだったよ。兄貴!」



「そうか。じゃあもう……往ってもいいか?」



修司はそう言い終えると同時に、崩れるように倒れ込んだ。



「えっ? 兄貴?……兄貴ぃっ! おいお前ら、医者に連れてけ! 何を愚図愚図してやがる、早くっ!早くっ!」



ヒデは修司を抱えたまま、大声で若い衆に怒鳴り散らした。




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