5──シロップの海


 三面鏡に映る八朔先輩の美貌に、息を呑む。

 初めて自宅に招かれた、九月最後の日曜日。十時半に駅前で待ち合わせて、優しいアースカラーで統一された部屋でゼリーを食べた。


 それから三十分、白く光る鏡台の前に座り、メイクをしてもらった。

 以前聞いた生ファンデーションは、あたしの知るファンデーションとは違い、しっとり柔らかいクレヨンのような、硬いバターのような、崩れやすい濡れた粘土のような感じだった。


 仕上がった自分の顔を見て、驚いた。卵のような肌、柔らかい印象の軸になる眉、縁どられた目にくるんとした濃い睫毛、透明感のあるピンクの唇。

 肩甲骨までの髪は八朔先輩の操るヘアアイロンによって、ゆるく空気を含んでアレンジされ、花のヘアゴムで左耳の下にまとめられている。


 ネットや雑誌にいるモデルみたいな、自分とは思えない姿があった。


 そして八朔先輩は勉強机の椅子を傍に置いてあたしを座らせ、メイクを始めた。

 同じ下地のあと、八朔先輩はあたしのよく知るコンパクトに入ったファンデーションでさっと肌を整えただけだった。それでもさらさら艶々の頬はきれいだ。


「この季節は乾燥しないし、ニキビもない」


 眉をかき、鼻筋と頬の輪郭をなぞるように陰影をつけ、オレンジと朱色を混ぜたような色にグラデーションをつけて瞼を彩る。アイラインを引いたあと、付け睫毛をつけて、オレンジ色のリップを塗った。

 ショートボブの髪を、ヘアアイロンでくしゅくしゅに遊ばせる。

 あんぐりと口をあけたまま、あたしは八朔先輩を見ていた。


「今日はどこ行こうか」


 鏡越しに向けられた笑顔に、心臓が跳ねた。


「お腹空いてたら先にランチして、ショッピングとか、遊園地とか?」

「遊園地?」


 さすがに遠い。まして八朔先輩資金を都合した補填分がまったく貯まっていないのだから、無駄遣いはできない。


「メイクしちゃったからプールは行けないし。来年行こう」

「先輩、いつもそんなお洒落してるんですか?」


 向きを変えた八朔先輩が間近に顔を寄せてくる。美しい顔が迫ってきて、反射的に距離を取った。


「たまに用事があればね。今日は美瑚とデートだから気合入れた」

「デート……」

「写真撮る?」


 目で促され、二人そろって鏡を見る。八朔先輩は鏡越しに笑ってあたしの後頭部に手をあてると、突然、唇を塞いだ。


「んんんッ!?」


 キス。

 しかもファーストキスだ。

 柔らかくてしっとりすべる唇が、あたしの唇に吸い付て、音をたてて離れた。

 八朔先輩があたしの頬を両手で包み、額を合わせる。


「美瑚かわいい」

「いっ、せっ、せんぱぃ……ッ?」


 湿った溜息が、熱い。


「ずっと見てたんだ。図書室の窓から。きれいに泳ぐ子がいるなって。熱帯魚みたいにキラキラして見えた。心配したよ。いつも、濡れた髪のまま来るから」


 部活のあと、図書室で本を借りて帰るのが習慣だった。受付で図書委員のバッジをつけた先輩が、いつも丁寧に対応してくれた。一年以上、名前も知らずに短くやりとりだけしていた先輩が、こんなにきれいな人だったなんて。

 こんなに、熱いなんて。


「先輩」

「瞳和だよ。美瑚」


 剥き出しの腕に、そっと触れる。すると先輩の指もあたしの頬を撫でた。


「瞳和、せんぱい」

「まだわからないよね。急だったし、メイク初めて楽しい時期だし。でも嫌じゃないよね。美瑚。好きだよ、美瑚」


 心臓が波打って、顔から火が出そうで、息ができない。こんなに近くから息を吐いたら、いけない。だから苦しくて喘いだ。でも本当に苦しいのは呼吸を気にしているせいではないとわかっている。


「先輩、あたしも……?」


 触れ合った時と同じように、突然、八朔先輩は体を引いた。

 恥ずかしそうに、でも嬉しそうに笑ったままあたしを見つめて、頬をむにっと抓まんでくる。


「ふぇっ?」

「早い。美瑚はふわふわしてるから、流れでそう感じただけかも」


 心外だ。

 初めて頬に触れられた瞬間から、あたしは、どんどん夢中になった。八朔先輩のことばかり考えて、鏡をのぞく毎日。きれいになりたい。八朔先輩みたいになりたい。恥ずかしくない姿で、八朔先輩の隣にいたい。

 泳ぐより素敵な事を知ったのに。


「だから、ゆっくり、考えて。それで美瑚が『やっぱり瞳和センパイ好き』って思えるんだったら、次は美瑚からキスして。ね?」


 強引なくせに遠慮がち。ちぐはぐな印象は、物静かな図書委員なのに実はお洒落でお茶目なところも同じ。

 あたしの頬を放すと、また鏡台に向いた。小さなケースと大きなブラシをとって、鏡の中からあたしに微笑んで、頬をほんのり赤く色づける。


「美瑚は水チークにするから待ってね」


 そして新たな丸くて小さいケースを取って、嬉しそうにまたあたしと向かい合う。薬指の腹にチークをつけて、八朔先輩の目は、あたしの頬に逸れた。

 

「美瑚?」


 椅子から腰を浮かし、肩につかまる。

 もう二人とも笑っていない。八朔先輩まで息を呑んで、瞬きを繰り返す。

 ドキ、ドキ。鼓動が重なっていくような、ふしぎな感覚。


 初めて、自分からキスをした。

 濡れた唇が吸い付いて、甘い。


 体の脇でチークのケースを握りしめ、八朔先輩がもじもじ動く。

 きれいだけと、かわいい。強引でお茶目で、大人っぽい落ち着いた、大好きな女の人。くっきり浮き上がった鎖骨の下に頭を寄せて、ぐりぐりと額をこすりつけた。


「瞳和先輩、好きです」


 まだ暑い、残暑。

 あたしは大切な恋に、身を浸した。


 文化祭を経て日が短くなった頃、すっかりドーナツ店の常連になってしまった先輩は、少し髪が伸びてますますかわいくなっていた。二人で歩いていると、声をかけられた。でも、かわいくてきれいなこの人は、見世物じゃない。誰かのためではなくて、あたしたちは二人の世界を大切に守った。



 八朔先輩が美容系の専門学校に進むのは、お継母さんの影響らしい。生まれてすぐ亡くなったお母さんの事を全く覚えていないのは当然で、たった八歳年上の若い継母をとても親とは思えないと言う。けれど、女性をきれいにする仕事は輝いて見えたのだと話してくれた。

 だんだんとお茶目なところが目立つようになって、あたしよりずっと甘えん坊さんだと知ったのはクリスマスの頃。


 それからあたしたちはずっと、手を繋ぎ、きらめく時を重ねている。

 甘い甘いシロップの海を、生きている。



                                  (了)

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