4──くちびる
まさか悪戯だろうか。いや、そんなはずない。
「美瑚は顔色いいから、あんま隠すものないけど。でも、かわいくなるよ」
「それは……」
「パウダーインリキッドファンデーション」
「え?」
初めての単語で思わず聞き返した。
八朔先輩はまた手の甲にそれを出し、指先で広げた。
「はじめは液状なんだけど、塗ると粉に変わる」
「ええっ?」
言った通り、八朔先輩の手の甲は、塗った瞬間に乾いた。
魔法みたい。
「本当はリキッドの後パウダーとか生ファンデがいいんだけど、テスターのパフ不衛生だし。今度うちでフルメイクしてあげる。今日は、簡単にすっぴん風ね」
「……」
何を言っているのかわからない。
改めて手の甲に出した分を、また、指の腹であたしの頬に伸ばす。ひんやり冷たい液の感触が、ふわっと空気に溶けるようにして消えた。反対の頬も、額も。鼻先は、形をなぞるように、高速で優しく叩くような感じ。自然と同じリズムで瞬きしてしまい、笑われた。
それから目を瞑るように言われ、瞼の上で、優しく、指が跳ねる。
化粧水を塗ったときのコットンで指を拭くと、棚の上の方から小さなチューブを選んだ。値札にはオイルティントと書いてある。深みのある赤い色からして、リップだろう。
「見た目ほどきつくないから。でも、血色いい感じになる」
言いながら八朔先輩は、薬指の爪にまず出してから、中指の爪にも出して、それをあたしに向けた。
「ティントって言って、肌の色を変えるの。美瑚も爪でとって」
言われるままに、小指の爪を八朔先輩の中指の爪に合わせてくすいとり、唇に伸ばした。するりとなじんで少し甘い味がした。その間に八朔先輩は、最初に薬指にとった分をコットンで拭き取り、コーナーのゴミ箱に捨てた。
肩に手を置かれ、棚に備え付けられた小さな鏡の前に導かれる。
「──」
ひゅっ、と息を吸った。
小さな鏡の中には、透き通った肌と、濡れたような赤い唇をした驚き顔のあたしがいた。八朔先輩のように、きれいな肌。
「ね、赤もかわいいでしょ」
本当にかわいい。
自分の顔の変わり様に驚いていると、八朔先輩がそれぞれ使ったお試し用の奥からパッケージを取り出してこちらに向けた。
「どうする?」
買うのかどうか訊ねられていると気づき、首をふった。
今日はケーキでお返しをするために、貯金をおろしてある。謂わば八朔先輩資金だ。手持ちは足りるけれど、本来の目的とは違うし贅沢に思えて気が引けた。
でも──。
「ケーキなんていつでも食べられるし、そろそろスキンケアも終わる頃だよね。美瑚におすすめのシリーズあるんだ。明日もすっぴんで来よう」
既に決定事項のように言われ、戸惑いと期待の間で揺れる。
それに、あたしは聞き逃してはいなかった。さっき八朔先輩は「うちで」と言ったのだ。これは始まりに過ぎない。それに薄々と、メイクにはお金がかかると気づき始めていた。
八朔先輩に教わって、試してみたい。
それに、もっと、一緒にいたい。
「今日は、これだけ」
長い指に包まれた中からオイルティントだけ受け取る。
他の二つを棚に戻して、八朔先輩は横目で微笑んだ。
「それだけでもいいしね」
「ありがとうございます。選んでくれて」
「メイク落とし持ってる?」
「お母さんのが洗面所に」
「あ。お母さん、怒るかな」
「大丈夫だと思います」
実はもう既に少し怒っているのだけれど、気にしない。
八朔先輩にかわいいと言ってもらえるのが、とても嬉しいから。
ケーキを食べても唇は赤いままで、ティントの魔法に心から感動した。
改札まで送ってもらって手を振りあう。嬉しくて少しドキドキしたままだったのに、八朔先輩が唇をきゅっと尖らせたのを見て、叫びそうになった。リップを示唆されたのだとわかっていても、まるでキスを投げるみたいな仕草がモデルのように様になっていた。
家に帰り、クローゼットの中をあさってベッドに服を並べた。
せっかくきれいにしてもらったのだ。お洒落しなくては。
鏡を見る度に驚いて盛り上がる。スカートもデニムも前から持っていたものなのに、メイクをしただけで全く印象が変わる。ティーシャツでさえかわいく見える。
次はどんな服を着よう。どんな格好をすれば、八朔先輩とお出かけできるだろう。普段はどんな服装で過ごしているのだろう。そんなことを考えながら鏡の前を行ったり来たりしていたら、すっかり暗くなっていた。
その間、ずっと感じていた。
優しい指と、甘い匂い。
美瑚かわいいねと言う、柔らかな声。
笑うとぷっくり膨らむ、きれいな頬。
「先輩」
ごはんよと、母親の少し怒った声が聞こえた。
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