3──甘い指先
「付き合ってください、お願いしますッ!」
「……ァ……ぃ」
「えっ!?」
九十度から起き上がってきた額に短い前髪がかかり、その奥の瞳に残暑の陽が照り返る。
はっきり発音できなかったせいだ。変に期待を持たせてしまった。
「ごめんなさい」
「え、あぁっ」
八朔先輩と同じクラスの先輩は、今日まで名前も知らなかった人だ。頻繁に教室を訪ねるあたしを覚えて、告白してくれた。けれど、嬉しさより戸惑いの方が大きい。丁重にお断りした。
「あの、それじゃ。すみません」
急ぎ足で校門へ向かう。今日は八朔先輩とケーキを食べる約束をしていた。
手前で気づいた八朔先輩は、スマートフォンをしまうと、頬をぷっくりさせるいつもの笑顔で傍へ行くまで見守ってくれた。
「お待たせしました」
「お疲れ。暑いね」
歩き出してすぐ、足が止まる。
背の高い八朔先輩が前に立ち、あたしは影に収まった。なんだろうと思っていると、顔の横に手が伸びた。髪についた何かを取ってくれたのだ。穏やかな笑顔に促されまた歩き出す。
駐輪場までのわずかな道のりで、告白された事を言い当てられ、今更になって心臓が跳ね上がり汗がわいた。おかしい。
「二学期入ってもう四人か」
自転車を引きながら、八朔先輩が呟く。
「いや、あの……あたし」
「ふん。美瑚がかわいいのは今に始まった事じゃないっつの」
「そんな……」
部活を辞め、夏休み中に最寄り駅のドーナツ店でバイトを始めていた。バイトの先輩と、他のクラスの男子二人と、今日の先輩。一連の告白事件については戸惑いを隠せない。
かわいいと、言われるようになった。
肌はきれいになったけれど、顔の形が変わったわけではない。ほんの数センチ髪が伸びたくらいで、下ろしているから髪型も一緒だ。
「あたしなんか」
「なんかって言わない」
「先輩ですよ、かわいいのは」
少し肩をすくめ、八朔先輩が笑った。
ほら、最高にかわいい。
「美瑚にかわいいって言われちゃった」
「だって本当だし」
「美瑚がずっとかわいかったのも本当だよ」
立て続けに言われ、頬が熱くなる。ただでさえ暑いのに、汗をかいてしまう。
顔を仰ぐあたしを見て八朔先輩が笑った。
「でも美瑚きれいになったからなぁ」
「お肌は、先輩のおかげで」
「リップいいね」
気づいてくれた。
嬉しくなって見あげたら、つい体が寄ってしまい、軽くぶつかる。八朔先輩は気にする様子もなく自転車を引いて歩き続けた。
「なんでその色?」
まさかの問いに驚いて、黙って瞬きを繰り返した。
理由はない。バイト前に寄った薬局で、買える範囲で、目に着いたから。薄いピンクだ。考えたら、唇がリップを塗ってなじませるときの動きをしていた。
「もっと鮮やかなのも似合うよ」
それには首をふる。
「美瑚、メイクは?」
「したことないです」
「ふぅ~ん」
目尻を下げて、八朔先輩が笑う。
ケーキを後回しにして薬局に連行された。今日は高い化粧品のコーナーだ。八朔先輩は備え付けのコットンを取り、お試し用の中から迷わず選んだ化粧水を沁みこませると、あたしの顔に当てた。頬から鼻、額と顎、最後に瞼。驚きながら、触れられる緊張感に息を止める。とくん、と胸が躍った。
それから手の届きそうなコーナーに移る。
「最初だからね」
独り言のように呟く八朔先輩をただ見ているしかできない。楽しそうだ。数々並んだお試し用のコスメの中から、まずハンドクリームのようなものを選んで手の甲に少し乗せた。それを指にとって、あたしの頬にちょんとつける。
「これは下地。美瑚は敏感だから、添加物フリーのやつね」
言いながら、つけた所を中心に塗り広げられる。そっと触れたまま滑る指の腹の感触はふしぎで、少し擽ったい感じに似ている。けれど、気持ちよかった。
「ほぼ美容成分でできてるから、メイクしながらスキンケアできる」
「先輩も使ってますか?」
「うん。持ってるよ」
それを聞いて、なぜかとても嬉しくなった。
間近で見あげる八朔先輩の肌は相変わらず透き通るように白くて、なめらかだ。それにいい匂いがする。
「先輩、今日、メイクしてるんですか?」
あたしの顔に乗る自分の指先を見ている八朔先輩とは、微妙に目が合わない。
「ナイショ」
「え?」
それから小さなボトルをとって、音を立てて振った。
メイクをした事のないあたしでもわかる。ファンデーションだ。何種類も出ている上に、色も多様でまったく基準がわからない。それを八朔先輩は一切の迷いを見せず選んでいる。
図書委員なのに。
でもこれだけきれいなのだから、メイクを、するのかもしれない。
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