Summer Term 「不均衡」

 どうすればよかったのか、どうしたらいいのかわからないまま、ルカはテディに対してなにも云わず、いつもどおりに過ごした。朝目覚め――といっても、ほとんど眠れていなかったが――、着替えて朝食を摂りに行き、教室で授業を受けた。テディもそんなルカに倣っていつもと同じようについてきていたが、ふたりが言葉を交わすことはなかった。

 ルカはなるべく目も合わさないようにしていたがテディは逆で、表情を探ろうとするかのようにじっとその横顔を見つめていた。ルカはそのことに気づきつつ、素知らぬ振りを続けていた。内心では、なにか云いたいことがあるなら云え! と怒鳴りつけたかったし、どうしてまたあいつの部屋に行ったりなんかしたんだ、と問い詰めてもみたかった。が、ルカはそうすることで、テディとの関係が終わってしまうことをおそれた。

 今回はただ部屋に行って飲んでいただけだというのだから、赦せばいいのだ。そう思いきろうとするのだが、授業を抜けだし、自分に黙って一度関係を持った男のところに行ったということが、暗雲のように胸の中に立ち籠めてすっきりしない。本当は赦すどころか、ふざけるな、いいかげんにしろと一発、横面を張って、自分がどれだけ心配し、悩み、信じようと堪えていたか知らしめてやりたいのかもしれなかった。

 それに――心のどこかでほんの少し、もうテディのことは見限ったほうがいいと思っていることも、確かだった。


 なにもかもが上の空なまま、なんとか一日を終えて部屋に戻ってくるとルカはほっと息をついた。朧気に誰かが自分たちについて陰口をたたいていたような気もするし、食堂ではオニールとエッジワースにもなにか云われたような気がするが、それさえもルカはあまり覚えていなかった。ついさっき食べたはずの夕食が、今日はどんなメニューだったかさえもだ。

 なんでもないふうを装いながら一日中あれこれと考えて、ルカはすっかり疲弊しきっていた。やっと張っていた気を緩め、疲れた顔でくしゃっと髪を掻きあげる。そして無意識に部屋のドアを閉めようとして――すぐ後ろにいたテディに当たってしまい、ルカは何時間かぶりにテディの顔を直視した。

 しかしすぐに視線を逸らし、奥の自分のデスクへすたすたと向かう。

「ねえルカ。……話をしようよ」

 ぱたんとドアを閉めながら、静かな声でテディがそう云った。ぴく、と僅かに反応し、しかしルカはなにも応えず、椅子に坐って背を向けた。

「もう、俺のこと嫌いになった?」

 その言葉を聞いて、ルカは肘をついた手を額に当て、顔を伏せた。――そんな単純な答えが出せたなら、どんなに楽だろう。

「俺のこと、怒ってる? また授業をサボったから? それとも、ジェレミーのところに行ったから? ……ねえルカ、なにか云ってよ」

 重く溜息を吐いて、ルカはゆっくりと椅子を回転させ、テディを見た。

「ああ、そうだよ。よりにもよってこんな大事な時期にまた授業を……、いや、違う。それはかまわない。おまえもここのところ真面目にやってたし、偶に息抜きしたけりゃそれは別によかったんだ。俺にそう云って、俺と一緒にサボってカフェに行ったりすりゃよかったんだよ。なのに、なんでおまえはひとりで勝手に、しかもあんな奴のところへ行っちまうんだよ! 俺は、おまえを信じてたんだ。信じなきゃって……なのに……!!」

「……昨日は、ジェレミーとは……ただ部屋で飲んだり、カードで遊んだりしてただけだよ。だから……謝るから、もう機嫌なおして――」

「機嫌――」

 ルカは呆れたように天井を仰いだ。「おまえにとってはその程度のことか……おまえはいつもそうだよな。後先考えないで思いつきで好き勝手して、俺がどんな思いでいるかなんて気にしたこともないんだ。一度寝たってわかってる奴がおまえを送ってきたとき、俺がどんな気持ちだったかなんて、おまえにはどうでもいいんだよな!!」

「それは……ごめん。俺、早めに戻るつもりだったんだけど……つい、飲み過ぎたみたいで――」

「そんなこと関係ないだろ! そこじゃないよ、なんであいつのところに行ったのかって――ううん、おまえがあいつに会うだけでも俺はいやだよ!! こんなことばかり何度もあって、おまえを信じられなくなってくのがたまらなくいやなんだよ、なんでわからないんだ!!」

 ルカが声を荒げながら立ちあがると、テディがびくっと身を竦ませた。が――次の瞬間、ふっとテディの表情が嬉しそうに綻んだように見えて、ルカは怪訝そうに眉根を寄せた。

「……ルカ、ごめん。でも、なんか……嬉しい。変かな、俺……ルカがそうやって心配してくれたり、ヤキモチやいてくれるの、すごくほっとするんだ……」

 ――嬉しい? ほっとする?

 冗談じゃない、とルカは思った――理屈はわからなくもないが、神経を擦り減らされるほうはたまったものではない。

「いや、おかしいだろ。ほっとするってなんだよ? 俺、ちゃんと毎日おまえに俺が本当におまえのことを大切だって、愛してるんだって伝わるように努力してきたんだぞ? 大学へ行ったら寮じゃなくてフラットを借りたほうがいいかなとか、話してたろ? 毎晩おやすみのキスだって欠かしたことないじゃないか。そういうの、なんの意味もなかったのか? 普通は一緒にいて、そういうちょっとしたことに安心したり、幸せを感じたりするもんじゃないのか? っていうか、おまえは俺をほっとさせてくれないのか!?」

 噴きだすように口を衝く言葉に、ルカはああ、と気づいた――結局、そういうことなのだ。テディはまるで砂漠に咲く花のようだ。どんなに懸命に水を運び潤しても、自分が与えたのと同じことを返してくれはしない。その美しさで、そこに在るだけで癒やしになることはあるかもしれないが――こちらが一方的に注ぎ込むだけの愛情など、いずれ消耗していくだけだ。

 テディはわかっているのかいないのか、少し困った顔で小首を傾げ、ルカを見つめていた。その表情を見て、ルカはかくんと肩の力を抜き、ふっと口許に笑みを浮かべた。

「もう潮時だ。終わりにしよう」

 テディが目を瞠った。

「どうせ大事なときだ。お互いよけいなことに煩わされずに、勉強に専念しよう。部屋は、もしも可能なら誰かと替わって――」

「嘘だろ? そんな……いやだよ。終わりってなに。いったいなに云ってるのルカ……もう俺のこと好きじゃないの?」

 テディのその言葉に、ルカは苦笑した。以前にも感じたことがあったが、やはりテディはなにもわかってはいない。

「好きじゃないとしたら俺じゃなくて、おまえのほうだろう?」

 不意に疲れを感じ、ルカはいつもの布張りのチェアに腰掛けようとして――テーブルの上に昨日買った7UPの袋が置きっ放しになっているのに気づいた。冷蔵庫にしまわなきゃな、と手に取り、いっしょに入っていたガムだけを取りだし、テーブルに置く。

「なんでだよ、俺、ルカのこと好きだよ、愛してる。ジェレミーのことは本当に謝るよ、もう行かないし、会わないよ。約束する。今度こそ誓うよ、絶対だ。だから――」

「もういいよ。もう……疲れたんだ。おまえはおまえの思うようにすればいい」

 そう云ってルカはテディの眼の前を横切り、冷蔵庫を開けた。一本ずつ袋から出して中に並べているとき、ふと見慣れない缶が入っていることに気がついた。なんだろうと取りだしてみると、どうやらチョコレートが入った缶のようだった。なんだか唐突に甘いものが欲しくなり、ルカはその両手に乗るくらいの赤い缶を掲げ「これ、チョコか? 悪い、ひとつもらうぞ」と云いながら、蓋を開けた。

「あ……っ、それは――」

 トレイの上に並んでいるのはルカがあまり好まない、淡い茶色をしたミルクチョコレートばかりだった。いつもなら甘すぎるそれをルカが食べることはないが、今日はビターでなくてもいいか、という気分だった。

 トレイからひとつつまみ、ぱくりと口に放りこむ。と――うっすらと透けたキャラメル色のトレイの下に、なにかが入っているのが見えた。そして同時に、トレイがきちんと缶に収まっていないことにも気がついた。少し斜めになったり、浮いた感じがするのは下になにかが入っている所為らしい――ルカはトレイを持ちあげ、缶の底を見た。

「おい……なんだよこれ」

 そこにあったのは、白い錠剤の包装シートだった。ルカは缶を手にしたまま戻り、テーブルの上にカタン! とそれを置いた。そして、チョコレートの乗っているトレイを外すと――何種類かの錠剤のシートと、アルミホイルの包みが現れた。驚きと呆れに言葉を失いつつ、ルカはその怪しいアルミホイルの包みを破って中身を確かめた。

 薄いオレンジ色の錠剤が、五錠包まれていた。正体のわからないそれを、ルカは缶の中に叩きつけた。

「なんなんだよこれは!! おまえ……本当にもう、いいかげんにしてくれよ……! 俺、薬はやめてくれって云ったよな? これ、なんの薬だ? 云えないのか」

 テディは蒼い顔をしてふらふらと後退り、かくんとベッドに腰を下ろした。

「……前も飲んでた……コデイン入りの鎮痛剤と……、アンフェタミン」

「アンフェタミン?」

 ルカは眉をひそめ、テディを見つめた。

「朝、しゃんとして授業に集中できるように……偶に使ってた」

「覚醒剤かよ……」

 頭を抱え、ルカは元いた場所に坐った。もう今度こそ本当に、なにも云うべき言葉をみつけられそうになかった。口の中に残った甘ったるさも、ただ不快だった。

「テディ……、煙草、くれ」

 テディがゆっくりと顔を上げ、ルカを見る。

「一緒に吸おう。……最後にさ」

 その言葉に、テディは表情を凍りつかせた。きゅっと唇を噛みしめ、ブレザーのポケットからいつものゴロワーズ・レジェールとライターを取りだし、一本振り出してルカに向ける。それを取り、ルカが口に咥えると、テディも傍のチェアに坐り、一本咥えた。

 火を点したライターをテディが差しだし、ルカは煙草に火をつけるとふーっと煙を吐きだした。

「……これっきりで俺、煙草もやめるよ。おまえも、煙草も薬もやめたほうがいい。……ま、俺にはもう関係のないことだけどな」

 云いながら、ちくりと胸が痛むのを感じる。

 テディは煙草の煙を燻らせ、泣きそうな顔をしていた。

「……ごめん、ルカ……。俺、ほんとにもう……ルカを困らせたり、悲しませるようなことはしないから……これで終わりだなんて、そんなこと云わないで……」

「俺も別に、云いたくて云ってんじゃないんだけどな」

「わかってるよ、こうなったのは全部俺のせいだ。だから、いくらでも謝るよ。もう二度とやらないって約束するよ、浮気も薬も。ルカがやめるって云うなら煙草だってやめるよ。ルカと同じ大学に行くために、勉強も頑張る。だから――」

「おまえはいつもなにかあってからそう云うけど、俺は何事も起こらないでほしかったんだよ。普通にハッピーな毎日を過ごしたかった。メリーゴーラウンドみたいにさ。でもおまえときたら、まるでローラーコースターじゃないか」

 ゆっくり少しずつ昇った先には、急降下が待っている――そんなのはもうたくさんだ。ルカは伸びた灰を落とすのになにか適当なものはないかと見まわし、缶の蓋を引き寄せた。そのとき――

「そんなの、俺だって――」

 震える声で、テディが云った。「俺だって、なにも起こらないでほしかったよ!! ……ルカの嘘つき! ルカ、ずっと俺と一緒だって云ったじゃないか! 俺が困ってたら必ずたすけるって……ルカが云ったんだよ、ルカがいないと俺はだめなんだって……絶対離れたりしない、離さないって、そう云ってくれたじゃない……!!」

 溢れ零れる涙を拭おうともせず、テディはそう云ってルカを責めた。

「無理だよ、俺、ルカと離れるなんて……俺、たぶん生きていけないよ? 自棄になってどっか行っちゃって、薬漬けになって死ぬかもよ? ねえルカ、ルカはそれでもいいの? 俺のことなんて、もうどうなっても関係ないって?」

「バカなこと云うな! なんでそうなるんだよ、俺がいなくたって、おまえはおまえでしっかり――」

「だって!! 俺にはルカしかいないんだよ! 俺がどこかで野垂れ死んだって、誰も悲しむ人はいないんだから!!」

 ルカは返す言葉を失い、一瞬しん、と空気が冷えた。

 ふたりのあいだで、煙草の煙だけがゆらゆらと揺れている。

「そんな……ことないだろ。恋人じゃなくなったって、俺はおまえが死ねば悲しいし……デックスやトビーもいるし、それに……ジェレミーだっているだろ。いや、そんなことはどうでもいい……死ぬとか、そんなこと口にするなよ」

 ぼそぼそと独り言のように云いながら、ルカは頭の中であのメロディが鳴っているのを感じた。――〝 This Will Beディス ウィル ビー Our Yearアワ イヤー 〟……ルカにとってこれは、恋の呪いの曲だ。

「ねえルカ、お願いだ。俺を見棄てないで……俺から、俺がなんとか生きている意味を、奪ってしまわないで」

 父親を知らずに育ち、母親を亡くし、祖父に遠ざけられたテディ――その手を離したら、本当にテディは、暗闇に呑み込まれてしまうかもしれない。

 砂漠の花を枯らすのは自分なのか。他の誰かが現れるまでは、離れられないということなのだろうか。ルカは自分に問いかけた――これは、同情だろうか。それとも義務感のようなものなのだろうか。そうかもしれない。そうであってもかまわないのだろうとルカは思う。それだけでさえなければ――まだ、テディのことを愛しているのなら。

 ――指に熱さを感じ、缶の蓋に短くなった煙草を押しつけて揉み消すと、ルカは云った。

「……このあいだも云ったけど、今度こそもう、これが最後だ。次はもう、絶対にない。絶対だ」

 テディも煙草を消し、涙に濡れた目を大きく見開いてルカを見る。

「ゆるして……くれるの? もう、終わりとかって云わない? ずっと一緒にいられる?」

「だって、しょうがないだろう。おまえが俺と離れられないって云うんだから。……ただし、薬は二度とやるな。それ、今すぐトイレに流してこい。全部だぞ」

 そう云ってルカは缶の底に入っていた錠剤を指さした。

「……わかったよ、棄ててくる」

 手の甲で涙をようやく拭うと、テディはルカの云うとおり錠剤を持ってバスルームへと急いだ。その後ろ姿を見やり――ルカはふと、初めて会ったときのテディを思いだしていた。バスルームへ入っていったテディと重ねて、大きなラゲッジを引き摺って立っていた二年前のテディをそこに思い浮かべる――お互いに成長しているから普段は気づかないが、ずいぶんと背が伸びたなと思った。確かにあの頃、テディには誰もいなかったのだろう。彼は自分をみつけ、自分は彼に惹かれた。出逢ってしまったのだ。こればかりはどうしようもない。

 憐れなテディ。ルカしかいないと云いながら、自分になにも与えてはくれないからっぽなテディ――いつか、彼を本当に幸せにすることができたなら、注ぎ込んだ愛情の四分の一でも返してくれるようになるのだろうか。

 ルカはチョコレートに手を伸ばして、また一粒口に放りこみ――甘すぎるそれに、顔を顰めた。





 数日後――。

「おや、ヴァレンタインはまた欠席かね。ブランデンブルク、彼はどうした?」

「さあ、二時限目まではいましたけど……わかりませんね」

 ウィンストンの質問にそう答え、ルカはぽかりと空いた隣の席を見やった。

 うん、確かにもう二度とやらないって云ったことのなかに、授業を抜けだすってのは入ってなかったな――と、ルカは苦笑した。もう、捜しに行こうとは思わなかった。テディはいつだって泣いて謝ってくるが、結局人の云うことなんか聞きやしないのだ。いちいちそれに付き合って、精神的にも体力的にも疲弊するのはもう懲り懲りだ、とルカは思った。どこでなにをしているのかはもちろん心配だし、また懲りずにあの男といるのならば――

 今度こそ絶対に次はない、と云った。あとはもう、テディ次第なのだ。

 まあ、なるようにしかならないよな、とルカは、窓の外の澄みきった水色の空を眺めた。

 一時はテディとの関係を終わりにしようと本気で考えたことが、ルカのなかに覚悟のようなものを芽生えさせたのかもしれない。

 外にはもう、初夏がすぐそこまで来ていた。

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