Summer Half Term Holidays 「The Last Time」

 アッパースクールでの最後のハーフターム休暇ホリデイは、GCSE試験期間の半ばにあり、家やステイ先に帰らずハウスに残って勉強する生徒が少なくない。寮を出る生徒も皆が皆家に帰るというわけではなく、私立のエリート校などで行われている短期集中型のリヴィジョンコースに参加する者もいる。自宅に帰る者も塾に通ったり家庭教師を雇ったり、試験対策の仕方はいろいろだ。

 Y88年生からY1111年生までいる生徒のうち、GCSE試験を受けるY11とジェネラル・サーティフィケイト・オブ・エデュケーション、アドバンスト・レベル――通称Aレベルを受ける上級生シックスフォーマーの一部だけが残っている構内はいつもよりずっと静かで、がらんとしていた。校舎はいつもどおりに出入りすることができるが、購買店タックショップと食堂はクローズされている。休暇中、食事は寮母が作ってくれたものを寮のダイニングで摂るのだが、ウィロウズ寮の場合、受験生のおよそ半数が残っていたため、時間をずらして来ないと席がないということもしょっちゅうだ。待っていられない者はプレップルームに運んで食べたりもしていたが、面倒臭がりなルカは席が空くまでついでに気分転換をしようと外に出た。テディもそれについて行っては、結局やめられていなかった煙草を吸うなどして、学校内にいながら時間に追われない稀少な時間を過ごしていた。

 モーリンの作る食事はいつもの食堂でのそれよりも、ずっと美味だった。朝食は定番のイングリッシュ・ブレックファストだけではなくワッフルやパンケーキの日もあったし、休憩を兼ねて午後のお茶にしようと寮生がコモンルームに集まりだす二時から三時頃には、お手製のクランブルケーキやヴィクトリアサンドウィッチケーキが用意されていた。甘いものが好きなテディは大喜びで、ルカもイヴリンのといい勝負だな、などと云いながら、素朴な感じのするそのケーキとコーヒーや紅茶を楽しんでいた。


 試験は五月初旬から始まり、六月下旬まで約一ヶ月半ほどかけて行われる。期間中は通常の授業はなく、スタディリーブと呼ばれる自習のための休みになる。長い試験期間のあいだ、生徒たちはぎりぎりまで必死に勉強し試験に臨むのだが、途中ハーフターム休暇があり、選択科目にもよるが毎日びっしりと試験日で埋まっているわけでもない。

 そしてたくさんの試験をすべて終えると、長い夏季休暇サマーホリデイに入る。生徒たちは試験のストレスやプレッシャーから解放されたひとときを家族とのんびり過ごしたり、旅行に出かけたりしながら、八月末頃に出る試験結果を待つ日々を送るのだ。





「いらないよな。この、試験期間の途中に一週間の休みってさ。こっちはもうさっさと終わらせてしまいたいのに」

 床を蹴ってデスクから少し離れ、ルカは椅子に坐ったままうーんと伸びをした。

「そうだね……もう、勉強も試験もうんざりだけど、でも……」

「うん?」

「なんか、人の少ない学校って楽しいよね」

「ああ、それはわかる」

「いっそ誰もいなければ、探検したりするのに」

 探検とは子供っぽいことを云うなあと、ルカはくすっと笑った。そして、真夜中に散歩に出たことを思いだし、懐かしさに目を細める。

「……こっそり、夜中に出かけるか。ちょっと気分転換にさ」

「外へ? 今夜?」

 驚いたような声でテディが云った。くるりと椅子を回転させてその顔を見つめ、うんと頷いてやるとテディは嬉しそうに微笑んだ。

「休暇中は見廻りも来ないみたいだしな。ちょっと川でも眺めに行ってくるか」

 そして、皆が寝静まった頃に出ようと約束し、服も着替えてその時を待っているあいだに――ルカは日頃の勉強疲れの所為か、うっかり眠ってしまったのだった。


 ――寝返りを打ち、なにやら足腰の辺りが窮屈だなとルカは夢現に思った。そして、身につけているのが寝間着ではなくジーンズであることに気づくと、はっとして跳ね起きた。外に散歩に出ようと云っていたのを思いだし、つけっぱなしだったテーブルランプに照らされている時計を見る。時刻はもう三時半を過ぎていた。しまったと額に手を当てながら、ルカはテディのベッドのほうを見た。

「テディ?」

 そこにテディの姿はなく、ベッドには眠った痕跡さえもなかった。ルカは静かに部屋を横切り、首を傾げた。バスルームのほうも暗く、いちおう念の為にドアを開けてみるが、やはりそこにテディはいない。

「あいつ……まさかひとりで行ったのか?」

 云いだしておいてつい眠ってしまったのは自分が悪いが、起こしてくれたっていいだろうとルカは口先を尖らせ、すとんとテディのベッドに腰掛けた。自分は朝には強いが、夜更かしはそもそも苦手なのだ。テディとはまったく真逆である。それでもテディが喜ぶと思って夜の散歩に誘ったのに――まさか、置いていかれるとは……否、眠りこんでしまうとは。

 ひょっとして、起こしはしたが起きないので怒って出ていってしまったのだろうか。それとも――

 考えたくない可能性が頭を過ぎりかけたそのとき、かちゃりとドアの音がした。

 帰ってきたと思った瞬間、ルカはベッドから立ちあがり、ドアの見える位置まで出てテディの姿を認めるとほっと肩の力を抜いた。

「テディ……おまえ、ひとりで――」

 テディは後ろ手にそっとドアを閉めながら、「しーっ、声が大きいよ」と指を立てて見せた。そんなテディを見てルカは、特に変わった様子もなく、怒ってもいないようだと安心した。

「――テディごめん。俺、つい眠っちまって……ついさっき目が覚めたんだ」

 テディはルカと入れ替わるようにベッドに腰を下ろし、ふぅと息をついた。

「……どこへ行ってたんだ?」

「ん? うんちょっと……そのへん、うろうろ」

 ルカの質問にそう答えると、テディはごろんとベッドに横になった。淡く部屋を照らしているテーブルランプの光の所為かもしれなかったが、目を閉じたその顔はなんだか少し疲れているように見えた。が、無事戻ってきたテディの態度が淡々としていてほっとした所為か、ルカはこのときはそれ以上なにも云わず、寝直すことにした。


 夜中に外へ散歩に行こうという話は立ち消えになってしまい、次の日の夜は勉強を終えるといつもどおりにおやすみのキスだけして、それぞれベッドに入った。が、ルカは何故かまた三時半頃に目を覚ましてしまった。変な癖がついたかなと小さく点したランプで時計を確かめ――ふと気になって半身を起こし、テディのベッドを見やった。

 またもや、そこはもぬけの殻だった。

 いったい夜中にどこへ行ったんだろうと、さすがに顔を顰める。昨夜と同じようにその辺りをうろついているのなら、そろそろ帰ってくるかもしれない。昨夜は自分が云いだしたことをすっぽかしたという引け目があったのでなにも訊かなかったが、今日はちゃんと確かめようとルカは思った。テディが戻ってくるまで眠ってしまわないよう、ベッドの上で壁に凭れて坐る。

 だが、この日テディはなかなか戻ってはこず、ルカはいつの間にか坐ったままの姿勢で眠ってしまっていた。次に目覚めたときはもうすっかり夜が明けていて、窓を覆っているカーテンが光を透かし、そのジャカード織の模様を白く浮かびあがらせていた。また眠ってしまった、と欠伸をしながらルカはベッドから降り、カーテンをしゃっと開けた。

 ――テディはベッドで眠っていた。部屋に射しこんだ朝の陽光が眩しかったのか、うぅん、と文句を云うような声を漏らしながら枕に顔を埋めたテディを見て、ルカはやれやれと肩を竦めた。いったいどこへ行って、何時頃戻ってきたのか――今日こそあとで訊かなきゃな、と思いながら、ルカはテディのベッドに近づき、床に散乱しているソックスやジーンズを見て、溜息をついた。

「……まったく、脱ぎ散らかしたままで――」

 せめて椅子にでも掛けておけばいいのに、とルカはジーンズを拾いあげ――なにかが下に落ちたのに気づき、なんだろうと足許を見た。

 くしゃくしゃに丸まった紙切れ? と一瞬思ったそれは、二〇ポンド札だった。

 財布も持たず、直接ポケットに入れていたのだろうか。それにしてもこんなにくしゃくしゃにして――と怪訝に思いながらルカは手にしていたジーンズのポケットを探った。入っていたところに戻そうと思ったのだ。だが――

「なんだよ、これ……」

 ポケットの中にはまだ、無雑作に突っこまれたらしい束ねて丸められた紙幣が入っていた。眉をひそめ、ルカはその中身を全部取りだし、テーブルの上に置いた。二〇ポンド札、一〇ポンド札、五ポンド札――滅多に見ることのない五〇ポンド札まであった。ポケットの奥にびっしりと押し込まれていたそれらは、きちんと伸ばして数えてみると三百ポンド以上にもなった。

 寮母のモーリンから渡してもらう小遣いは週に十五ポンド程度、お菓子やジュースはともかく、煙草を買っていればすぐになくなる額である。

「テディ……おい、テディ。起きろ……!」

 これだけのまとまった金額を持っているはずも、必要もなく、どう考えてもまともな金ではないことは明らかだった。ルカは険しい表情でテディの肩を揺さぶり、起こそうとした。ブランケットを引っ剥がし、仰向けにさせて何度も揺さぶり、それでも身じろぎもしないテディの頬を軽く叩く。ようやくテディが眩しそうに薄目を開け、「……もう少し寝かせて……」と寝返りを打とうとすると、ルカは「起きろ! おまえ、この金はなんだ!?」と握りしめた札束を突きつけた。

 テディは一瞬目を見開き、ゆっくりと起きあがると――くしゃっと髪を掻きあげ、だるそうに息をついた。

「もらった」

「誰に! どこで!」

「だから……相手にだよ。ソーホーまで出て、適当な相手みつけて遊んだら、くれたんだ」

 ――一瞬、テディがなにを云っているのかわからなかった。

「……相手って……? なにを云ってるんだテディ、遊ぶって――おまえ、それって……」

 テディは無表情に、ルカを見つめている。

「え……いや、嘘、だろ……? おまえ、俺をからかって――」

「だって……ルカのせいだよ。ルカ、いつも勉強が済んだらさっさと寝ちゃうじゃないか。キスだけして、義務は果たしたみたいな顔してさ」

「は……?」

 テディは子供のようにむくれて、ルカを睨んだ。

「俺……なんか寂しかったよ。こんなにずっと一緒にいるのに、ルカはちっとも俺に触れてくれない……。そりゃ、今は試験前だっていうのはわかってるけど、でも……ルカは俺のこと、欲しくならないんだなって――」

「いや、待てよ。おまえ、俺はちゃんとおまえのことを考えて……ほら、夜中に散歩に行こうって云ってたじゃないか。そりゃ、つい眠っちまって行けなかったのは悪かったけど――」

「うん、嬉しかった。でも、結局ぬか喜びになっちゃったし。だからひとりで出かけたんだ……。で、街で男をひっかけて、ちょっと遊んできたんだ。金は、こっちはなにも云わないのに向こうから訊いてくるんだよ、いくらだ? って」

「な――」

 眼の前が真っ暗になり、頭の中は真っ白になった気がした。くらくらと目眩を感じ、ルカは頭を掻きむしりながら首を横に振った。喉の奥になにかが詰まったように息が苦しく、溺れる者がもがくように顎を上げて深く大きく、息を吸い込む。

「おまえ、それ……なんてことを……正気なのか、本当にそんなことを――」

 しかもそれが本当だとすれば、持っていた金額からして相手はひとりやふたりではないだろう。売春――セックスをして対価を得る。そんなことを何故する必要があったのか、何故そんなことを、自分の恋人は平気な顔で口にしているのか――

「なに考えてんだよ!! おまえ、よくもそんなことを平気で――おまえにはプライドがないのか!?」

「プライド?」

 テディは困ったように首を傾げた。

「だから、じゃなくて金をもらったからいいじゃない。それに、値段をつけたほうがそれ以上の酷いことはされないんだ。まあ、相手もちゃんと選んでるけど――」

「いやそういうことじゃなくてさ! なんで、おまえは……おまえはそんなことをどうして……! もう……無理だ、もうおまえなんかとは一緒にいられない、理解できない!!」

 まるで悲鳴のようなルカの言葉を聞くと、テディは驚いたように目を瞠り、ベッドを出てルカに近づいた。

「ルカ……怒ってるの? 俺が他の男とセックスするの、そんなにいやなことなの? どうして?」

 テディの癖――不思議そうに小首を傾げる、愛らしい子供のような仕種。その仕種を見て、ルカは脱力したように背後にあったチェアに腰を落とした。

「……どうかしてる。おまえはおかしいよ……そんなの、決まってるじゃないか。俺はおまえを、こんなに愛してるんだぞ……なのに、なんで……何度云えば、なにをすればそれがわかるんだよ――もう勘弁してくれ……。無理だよ、もう今度こそ……終わりだよ、テディ――」

 両手で顔を覆い、涙声で呪文のようにルカが呟くと――ふわりと、腕の中に包み込まれる感触がした。

 テディがルカを抱きしめ、あやすように髪を撫でている。

「ごめん、ルカ――わかったよ。俺が悪かった。ルカがそんなに嫌がるなら、もう二度としないよ、約束する。安心して……俺が愛してるのはルカだけだよ、信じて……」

 ルカは顔を伏せたまま、子供がいやいやをするように首を横に振った。

「……信じられるわけないだろう……、おまえの顔ももう見たくないよ、無理だよ……。もう離れよう、部屋も、今すぐ誰かと替わってもらってくれ。今すぐだ……! 穢らわしい、穢らわしい……っ!」

 指で髪を梳くように撫でていた手が、動きを止めた。

「俺、汚くなんかないよ……? ちゃんとシャワー浴びたし、何度も丁寧に洗ったもの……何度も……。ねえルカ、ちゃんと俺を見てよ……。俺、ルカのことほんとに愛してるよ。もう二度とルカの嫌がることはしないよ、誓うよ。だから……ルカ、俺のこと、見棄てないで。ずっと傍にいて」

 ――こんな台詞を聞くのはもう何度めだろう。

 テディはどこかおかしい。普通ではない。なにかが足りていないのか、どこかが壊れているのか――父親を知らずに育った所為だろうか、それとも、母親と死に別れたからなのか。ひょっとしたら、それ以外になにか原因があるのかもしれない。だがいずれにせよ、ルカの頭の片隅ではもうずっと警鐘が鳴ったままだった。もう想いは断ち切って、テディとは離れたほうがいい。本当はもうとっくに気づいていたのだ。もっと早く離れるべきだった――が、今からでもまだ遅くはない。テディとはもう別れるべきだ、終わりにするんだ――

「ねえルカ、もう大丈夫だよ、もう心配ないよ……今度こそ、ルカを悩ませるようなことはないから……! ルカさえいてくれれば俺は大丈夫だから……、ねえ愛してるよ、なにか云ってよルカ――」

 包み込むように自分を抱く腕の中からルカはおもむろに顔を上げ、真っ赤に泣き濡れた目でテディを見つめた。不安げに揺れる灰色の瞳はルカだけを映している。そして、縋るように袖を掴むテディから、ルカは目を逸らすことができない。

 やがて、ルカは云った。

「もう、今度こそ、今度こそ本当に、これが最後だからな……!」

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