第10話
遠目から彼女を見つけた海斗は、思わず息をのんだ。
鮮やかなオレンジ色のパーカーを羽織った背中が、凛々しく美しい。昨日も、その前も、同じ印象を受けた。それなのに、今日は一層その印象が強まった。
近づきたい。昨日も近づいたのに。
触れたい。昨日も手引きで泳がせてもらったのに。
知りたい。あなたの心を。
彼女が振り返った。海斗は隠れる場所もなく、俯く。
彼女はまた前を向き、砂浜を進む。
海斗は情けなく彼女を追う。
海水浴場を離れ、岩場になり、緑の生い茂る場所に入る。
洞窟かと思った場所は、緑と岩場にに守られた空間だった。海辺だということを忘れてしまうほど水は澄み、太陽の光が降り注ぐ。
彼女は再び振り返り、微笑んだ。太陽の“陽”の字を冠した彼女は、海斗を眩しそうに見つめる。
「来てくれたんだ」
海斗は顎を引き、見つめ返す。
「今日が最後だから」
今日はあなたに会える最後の日だから。
岩礁は丸く削れていて、底が深い。天然のプールのような、奇跡的な場所だ。
秘密の場所なんだよ、と彼女は教えてくれた。
海斗は浮き輪を持たずに水に入り、水面を見据える。
波が弱い。揺られる恐怖を感じずに済む。
海斗は岩場を蹴り、体を伸ばして力を抜いた。海水浴場で泳いだ昨日とは比べものにならないほど体が軽い。技術だけ教えてもらったクロールをやってみる。できる。下手くそだが、手応えがある。
俺は泳いでいるんだ。
海水浴場より澄んだ水の中で、余計なものが剥がれ落ちる気がした。もちろん、実際に剥がれ落ちるわけがないのだが。
一度、岩場に上がる。理論だけ教えてもらった飛び込みが、今ならできそうだ。
岩の端に立ち、体を前方に押し出す。顎を引く。全身をまっすぐ伸ばす。光を受けて輝く水面の一点に視点を定める。入水の角度は30度。
水しぶきは感じなかった。
水中に、一筋の光が差し込む。
世の中には、こんなにも美しい光景があったのか。ゴーグルの中の視界が滲んだ。
拍手が聞こえた気がした。
海斗くん、と呼ばれた気がした。
陽子さん、と心の中で呼び返した。
「海斗くん!」
水から上がると、ぴしゃりと言葉を打たれた。
「一気にやり過ぎ。足を攣っちゃうよ」
「ごめん。できそうな気がして、つい」
もう、と陽子は頬を膨らませる。
「私も泳ぐ!」
水泳の県大会に出場したらしい陽子は、美しいフォームでクロールを披露する。海斗は心の中で、完膚なきまでに叩きのめされた。
それでも、この時間がずっと続いてほしいと思ってしまう。叶わないことだと、わかっているのに。
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