第11話

 空腹になったら、陽子が持ってきたおにぎりを食べ、日が傾くまで泳いだ。

「陽子さんは、幽霊じゃないよね?」

 岩場で休憩する海斗が訊ねると、陽子は水の中でずっこけそうになった。

「なぜそうなるの」

「お寺に帰っていったから」

「まるで幽霊みたいじゃんね」

「だから幽霊じゃないよね、って訊いたんだよ」

「生きていますよ」

 陽子は水から上がり、だらりと垂れ下がってしまった髪を解く。

 潮騒が聞こえる。空と海の境目で、反射した光が煌めく。海斗は目を細めて海を眺める。

「祖父母から聞いた。陽子さん、結婚するんだって?」

 陽子は、聞いちゃったか、と呟いた。

「悪い女だと思ったでしょう?」

「嫌なことを忘れられる、と聞いた時点で、悩みを抱えていると思った。陽子さん、悪い女には見えないし」

 くうくう、と鳥の鳴き声が聞こえる。

「陽子さん、親から怒られなかった?」

「え、全く。なぜ?」

「なんで? 俺、滅茶苦茶怒られたのに。陽子さんに手を出したと言われて。その流れで、陽子さんが政治家の先生と結婚することを聞かされた」

「ええ? 私は何も言われなかったよ。海に来た子に泳ぎを教えている、と父に話したけど、しっかり鍛えてやりなさい、と激励されたくらい」

「何だよ、その差は」

 怒られて損した。

 海斗は空を仰いだ。アブラゼミに冷やかされる。

「チャペル? 神社?」

 教会の挙式か、神前式か。

 陽子は、神社、と答えた。

「近所のさびれた神社なのに、地元の新聞やフリーペーパーの記者も呼んで、大々的に」

「じゃあ、白無垢を着るのか」

「披露宴でドレスも着る予定」

「じゃあ、日焼けできないね」

「焼かないように気をつけるの、大変なんだよ」

「陽子さんは、着物もドレスも似合いそうだね」

「ドレスは無茶だ。胸がないし」

 陽子は淡々と答える。

 海斗は笑えなかった。どこかで擦過したわけでもないのに、こすれた痛みをわずかに感じた。

 海に来た子に泳ぎを教えている。

 確かにそうだ。それ以外の何でもない。

 それなのに。



 海斗は岩場から腰を浮かせた。

 しぶきを上げ、体が水の中に落ちる。

 すぐに腕を掴まれ、彼女に引き上げられた。

「何をし」

 ているの、と続こうとした言葉を、海斗は塞いだ。掠れるだけの口づけ。海斗がどんなに彼女を見ても、どれだけ近づきたくても、彼女の環境はそれを許さない。

 ならば、せめて、これだけは許してほしい。

「結婚しても、泳ぎに来るよね」

 海斗は、間近でまっすぐ、彼女を見つめる。

 彼女の瞳が弱々しく揺らいだ。

「夫になる人は、私の初恋の人なんだ。昔から父の知り合いで、歳は離れているけれど、優しくて良くしてもらった。水泳も本格的にやっていい、と言ってくれる」

 でも。

 彼女は息を吸う。

「義理の両親はお堅い人で、家庭に入った女が趣味に興じるなんて許さないと仰るの。だから」

 だから、これが最後。

 彼女は、声にならない声と、息を吐く。

「ありがとう、最後に一緒に泳いでくれて。あなたが私の、貴重な光だったよ」

 さよなら。彼女の唇が、きゅっと閉じられた。

 海斗はただ、水から上がって遠くなる背中を眺めることしかできなかった。



 夜のとばりは、気づかぬうちにゆっくり下りる。

 日が沈んだ海水浴場の砂浜を、海斗はひとり、のろのろと歩く。

 海の家の明かりが見えると、糸が切れるように膝から崩れた。

 堰を切ったように涙があふれ、膝を濡らす。

 海斗は腹の底から声を出して泣いた。心配した両親が迎えにくるまで、声が枯れるまで。



 この世界は不条理に満ちている。

 それゆえに、儚く、美しい。

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