第9話

 襖を開けると、廊下にトレイが置かれていた。

 おはぎ2個と、湯飲みに注がれた緑茶。

 朝食は部屋で摂れ、ということらしい。誰の指金なのか、大体の見当はつく。顔も合わせたくないらしい。

 時刻は、9時になろうとしていた。

 あんなことがあったのに、深く寝入っていた。

 夢の中で、海斗は泳いでいた。手足の力を抜き、あせらず、悠々と。心地良い夢から覚めて突きつけられる現実の、なんと不条理なことか。

 海へ行くな、と家族は言うだろう。強行したところで、近所の目がある。連れ戻されるのが、おちだ。

 海斗は、おはぎを指で摘まもうとして、躊躇した。皿に添えられた箸で半分の半分に割り、口に運ぶ。甘い。こんな状況でも、おはぎがおいしい。2個ともぺろりと食べ終え、すっかり冷めてしまった緑茶で咽喉を潤した。

 トレイを廊下に出しておくのが今この家の正しいコミュニケーションだと思いながらも、お手洗いに行く前についでに、と台所に下膳に向かう。

「ちょっと、お父さん! 今日も行くの? やめてよ、親子共々馬鹿げていると思われるでしょう!」

 母親の叱責が聞こえる。居間で喧嘩しているようだった。

「家にいてもやることないじゃん。誰かがお線香を立てに来るわけじゃないし」

「家にいるということが、やることなの。なんで、この家で育ったお父さんが、そんなこともわからないの? お父さんがそんなだから、海斗が」

「昨日も言ったけど、海斗が何をした? 噂を鵜呑みにして、本当のことも知らないで」

「お父さんは知っているの?」

「知らないよ。でも、海斗の人柄は理解している。俺は海斗を信じる」

 母親が黙った。古いフローリングがきしみ、父親が台所に入ってくる。海斗はとっさにテーブルの下に隠れてしまった。

「海斗、箸を使って食べたじゃんね。どれだけ注意しても、指先でつまみ食いしていた海斗が。無頓着でドライに見える海斗が。自分でも気づいていないみたいだけど、変わりつつあるんだよ」

 父親は、冷蔵庫からスポーツドリンクのボトルを出し、テーブルの脚を一瞥して台所から出ていった。

 フローリングの軋む音は、玄関とは反対方向に向かう。

 母親は大きく溜息をつき、台所に入ってくる。海斗と目が合うと、気まずそうに逸らした。

 父親が戻ってくる。ロードバイクに乗るはずの父親が、蛍光イエローの浮き輪を抱え、ゴーグルと海パンを振り回して。

「じゃ、そういうわけだから、お父さんはくる」

 家の中が静まり返る。

 海斗は父親の持ち物を思い出し、あ、と声を出してしまった。

 何、と母親は怪訝な顔をする。

 海斗は玄関に向かい、適当なサンダルを履いて外に出た。

「俺の私物!」



 太陽がアスファルトを焼く。熱気が咽喉を焼く。

 海斗は、なりふり構わず蛍光イエローの浮き輪を追いかける。

「くそおやじ!!」

 道の先に見えるのは、浮き輪を肩に下げたままロードバイクに乗る父親の後ろ姿。最高瞬間時速10kmの海斗が、時速15kmのロードバイクに勝てるわけがない。わかっているが、追いかけないわけにゆかない。

 汗が噴き出る。息が苦しい。でも、足は止められない。

 父親の姿が見えなくなっても、海斗は走り続けた。このまま道なりに進むと、海水浴場に着く。

 時間の感覚がわからなくなるほど無心に走り、ロードバイクが見えると、糸が切れたように走れなくなった。ふらふらと歩を進め、それも適わなくなると、膝に手をついて息を整える。

 汗まみれの顔を上げると、ガードレールに向き合う父親の姿があった。浮き輪と小物をガードレールに預け、ヘルメットを脱いで静かに合掌している。まるで、事故現場に花を手向ける人だ。

「俺、死んでねえよ!」

 渇いた咽喉から声を絞り出し、唾でむせた。

 海斗のき込みが治まると、父親は高らかに声を張る。

「今までの海斗は死んだ! 今のお前は、生まれ変わった海斗だ!」

 父親はヘルメットをかぶり、ロードバイクに乗って颯爽と坂を下ってゆく。

 海斗は間抜けにも父親を見送り、姿が見えなくなるとガードレールに視線を落とした。

 蛍光イエローの浮き輪、ミネラルウォーターのペットボトル、巾着袋。お供え物のようにおかしこまりしている。

 海斗は巾着袋を拾い上げ、中身を確認する。ゴーグルと海パンが入っていた。

 今日も空は青く澄み渡り、海は相変わらずそこにある。

 海斗はミネラルウォーターを飲み干し、蛍光イエローの浮き輪を肩に下げた。

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