第8話

 均一に青く染まった空に、海から湧いた入道雲が白い手を伸ばした。

 青空を乞うように。

 太陽にうように。



 生ぬるい風がアスファルトを撫でる。色褪せ割れ目のあるアスファルトに影をつくるのは、道路の端を歩くふたりだ。

「海斗くん、だいぶ慣れてきたね」

 鮮やかなオレンジ色のパーカーを羽織る陽子は、長い髪を空気に遊ばせる。

 海斗は、ちらりと陽子に目をやり、わざと黒い稜線に視線を伸ばした。

「そうかな。実感が湧かない」

 夏の太陽は傾いてもなお輝きを失わず、見る者の目はくらんでしまう。

 髪を解いた陽子を、海斗は直視できなかった。

「海よりプールの方が練習に向いていると思うけど……」

 陽子は申し訳なさそうに言葉を濁した。町営プールは工事中で利用できないのだ。

「そうだ!」

 突如、陽子の声がはじけ、海斗は自分の心臓がはねた気がした。

「明日から、練習場所を変えよう。良い場所を知っているの」

「明日から?」

 海斗は気になる部分を繰り返してしまった。

「駄目?」

「そうしたいのは、やまやまだけど」

 ふとした瞬間に視線が合ってしまった。海斗は慌てて目をそらす。

「あさって、帰る予定なんだ。両親のお盆休みがあさってまでだから」

「じゃあ、あさってが最後」

「いや、午前中に出発するから、泳げるのは明日が最後」

 海斗は、肩に下げた浮き輪を持ち直す。

「ごめん。先に言っておかなかった」

「ううん、把握しなかった私も悪かった」

 会話が途切れる。

 終わり、終わり。ツクツクボウシが木の葉の影から鋭く空気を裂く。

「今日、迎え盆だよ。早くお家に帰ってあげて」

 また明日。陽子は手を振り、坂道を駆け上がる。その先には、木々に抱かれるようにお寺のお堂がある。

 今日は盆迎え。ご先祖様をお迎えする日。

 海斗は祖父母の家へ急いだ。



「海斗! なんてことをしてくれたんだ!」

 帰宅した海斗を待っていたのは、祖母の金切り声だった。いつも温厚な祖母が取り乱すなんて、海斗は初めて見た。

 寡黙な祖父は黙ったままで、母親は冷たい目で海斗を射る。父親は疲れた顔で頭を抱えている。

「海の店の人から聞いたよ。あんた、お寺のお嬢さんに手を出したそうじゃないか。あの子は、二十歳はたちの誕生日に若い県議の先生と結婚する予定なんだよ。どうしてくれるんだ」

 海斗は祖母に言い返せず、口をつぐむしかなかった。

 いくつか合点がいく。

 お寺に向かって帰っていったこと。凛とした佇まい。品格。迎え盆と言ったこと。

 納得できないこともある。

 手を出したと思われたこと。結婚するには若すぎること。

 陽子自身はどう思っていたのか。

 海斗のことも、結婚することも、嫌なことを忘れられると海で泳いでいたことも。

「海斗、わかってくれ」

 祖父が口を開いた。

「お嬢さんは、この町の希望なんだ。水泳で県大会に行けるまでに地元の高校を引っ張っり上げてくれた。県議の先生を町長に当選させて、町に若い風を吹かせるためには、お嬢さんに先生と結婚してもらわなくちゃならないんだよ」

 不条理だ。海斗は歯を食いしばった。

「海斗は若いから、まだ理解できないかもしれない。田舎というものは、お寺を後援につけた政治家の力で存在しているんだ。そうでなければ、存在できないんだ」

 祖父が畳に手をついて頭を下げる。祖母と母親が祖父を止めようと間に入る。

「海斗、謝りなさい」

 母親の声が冷たかった。父親が間に入り、母親に何か言うが、母親は聞かない。

 飛び込みに失敗して水面に体を打ちつけたような錯覚を、海斗は起こした。


 この世界は不条理に満ちている。

 床下に潜む病原菌が隙間から浮上して人々をどん底に突き落とす瞬間を狙うように、世は常に人の足を掬う瞬間を狙っている。

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