第6話
太陽はずっと照っている。首筋は汗ばんでいる。
泳いでいる間は嫌なことを忘れられると陽子は言ったが、その感覚は海斗に存在しない気がしてきた。
じめっとした気持ちは、いつまで経っても乾かない。
「海斗くん」
まっすぐ見つめられ、海斗は息をのんだ。生え際からにじみ出た汗が、髪の間を縫うように垂れてゆく。滴るような緑をたたえた山から、めざといアブラゼミがはやし立てる。
「海斗くん、青い顔をしているよ? 体調悪いの?」
あ、そっちか。水を打ったように、アブラゼミが静かになった。そのタイミングを見計らったかのに、波が控えめながらもあざ笑う。雲ひとつない空から、太陽は静観する。静観しながら、じりじりと下界を焼く。
「嫌なことを思い出した」
太陽のせいだ。沈黙が耐えられない。
「陽子さんの学校は、いじめとかあった?」
「いじめ」
陽子は、綺麗な瞳をしばたかせる。無垢な眼差しからは、いじめの“い”の字も知らないように見えた。田舎の子達は仲が良いものかもしれない。
「俺がいじめられたわけではないんだけど」
太陽のせいだ。会って日の浅い人を信用して口を開いてしまうのは。
「いじめの現場を押さえようとした。スマートフォンで録画して、証拠として学校に提出しようとした」
いじめの加害者は、いつも学年2位の成績の男子。被害者は、同じクラスの学年1位の成績の男子。“学年2位”は“学年1位”を妬み、順位を落とさせようと1年次から執拗に嫌がらせを続けていた。
“学年1位”は、小柄で細くて弱々しい印象を与えがちだが、意外にもメンタルが強く、やはり頭が良い。“学年2”が何かを企むとすぐに察して回避にかかる。
そのうち、“学年2位”は仲の良い人と結託して“学年1位”を蹴落としにかかるようになった。
検定試験の日程をわざと間違えて伝えたり、定期試験の出題範囲が変更になったと嘘をついたり、落丁のある問題用紙を見つけてそれが“学年1位”の手に渡るように仕向けるなど、あらゆる手を使った。“学年1位”がカンニングをした、と噂を広めたことがあったが、前もって“学年1位”から相談を受けていた教師が噂を否定し、カンニング疑惑は払拭された。
“学年2位”は、手段を選ばなくなってきた。夏になると毎日、“学年1位”の財布と水筒を預かって水分補給をさせないようにした。
“学年1位”は制服のポケットにも小銭を忍ばせて購買で飲み物を買っていたが、それが“学年2位”達に見つかり、授業開始のチャイムが鳴るまで購入できないよう時間稼ぎに絡まれた。その現場を目撃した海斗は、現場を映像に収めていじめの証拠として学校に提出することを思いついた。
“学年1位”と仲が良かったわけではない。しかし、あまりに不条理だと思っていた。他人事でも、その不条理を断ち切りたいと思った。
海斗の目論見は、浅はかだった。“学年2位”達に見つかり、逃げようとすると絡まれ、殴られ、スマートフォンの録画を削除させられた。
1学期の期末試験が終わると、裁判と称して海斗は裁きにかけられた。
“学年1位”が原告として担ぎ上げられ、海斗が“学年2位”達を暴行し“学年1位”を恐喝した疑いで裁判が始まった。
“学年1位”は、訴えを否定。しかし無視され、裁判は強硬された。
傍聴を命じられていたクラスメイトが、数人、声を荒げた。こんなやり方はない、と。彼らは退廷を命じられ、教室から追い出された。
退廷させられたクラスメイトが職員室に向かうことを想定した“学年2位”は、ハイテンポで裁判を進める。
海斗は普段から良好な関係を築かず、わざと輪を乱す行動を取りたがる。暴力に訴えるのは時間の問題だと、普段から危惧していた。
海斗は人に無関心で心がないサイコパスであり、自由にさせてはならない。よって、刑に服するのが相応しい。
職員室から教師が駆けつけるまでの数分の間に、“裁判”は閉廷した。
海斗に言い渡されたのは、1年半の実刑判決。
1年半何をされても実刑として受け入れること。
器用な“学年2位”は、“学年1位”と海斗の両方をターゲットに定めた。
「俺は他人に無関心で心がないサイコパス。それが客観的な評価。実際、人の輪に入れずにいつの間にかはじき出されている。でも、気づかないうちに嫌だと思う自分がいる。嫌なことを忘れたい自分がいる」
海斗は空を仰いだ。
なんて真っ青な空だ。
なんて雲ひとつないんだ。
あからさまな快晴だ。
「ごめんね。陽子さんに、こんな重い話を聞かせたりして」
陽子は瞳を震わせて海斗の話を聞いていた。その瞳が蛍光イエローの浮き輪に向けられる。
「私は上手いアドバイスなんてできない。励ます言葉もすぐに見つからない。でも」
陽子は顔を上げた。
「今のあなたは、水に馴染んで力を入れずに浮いている」
形の綺麗な口元が綻ぶ。
「あなたは心のない人ではない。人の輪から外れてしまう人でもない。今こうして、私とコミュニケーションを取っているよ」
波に揺られ、体が浮く。
海斗は無言で目を見開いた。水の中で、自分の体が浮いている。
体の芯から沸いてくるものがあった。間違っても欲望ではない。熱い血液が全身に巡るような、手放したものが戻ってくるような、何とも言えない感覚。
くう、と、腹の虫が鳴いた。
「え、何? 今の、私じゃないからね!」
慌てる陽子に、海斗は謝る。
「俺。ごめん、何も食べないで来たから」
「何も食べてないの? 食べに行こうよ」
「もう少し浮いてからでもいい?」
太陽のせいだ。もう少し水の中にいたいと思うのも、自分の中で何かが変わりそうだと思うのも。
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