第2話

 目覚まし時計が鳴る前に目が覚めた。何やら外が騒々しい。時間を確認するために、ベッドに横になったまま、目覚まし時計に目をやる。針は二時を指している。いつも起きる時間よりもまだずっと早い。こんな時間に一体何の騒ぎなのだろう。トメはまだ半分眠っているように重い体を、なんとかベッドから引っ張り出した。汗で服がべたついて、体に張り付く。眠る前にシャワーを浴びて着替えておけばよかったと後悔する。昨夜唯一体から外した腕時計を手にとって見てみる。針はやはり二時を指していた。窓から外を見ると、まだ空は暗く、月も出ていない。やはり、時刻は午後二時で間違いないようだ。しかし、トメの目の前に広がる光景は時刻など関係なく、いつもとは全く異なる、非日常的な村の姿だった。燃えている。村の中心部に建てられた時計台。その周辺がオレンジ色に輝きながら、黒い煙を上げていた。悲鳴をあげ、村中を走って逃げる村人たちの姿、そしてそんな村人たちを追い回し、建物を破壊し、火を放つ鎧を着た大勢の兵隊たちの姿も見える。「月族だ」トメがそう気がつくと同時に、部屋の扉が乱暴に開いた。「月族が攻めてきたわ!逃げるのよ!早く!」そう怒鳴る母がそこには立っていた。

 月族と闇族は、人間が二つの種族に分かれて間もない頃から、ずっと争い続けてきた。かつて同じ場所で二つの種が生活していた頃は、差別や小さな争いが絶えず、それぞれ別々に領土を持って離れて暮らしてきた。しかし今度はその領土の奪い合いが起こり、今度は二つの人類による戦争が始まった。戦争で多くの犠牲者が出て、ここ数十年は大きな戦闘は起こっていなかったが、国境付近では小競り合いが続いていた。どういうわけか、これまでこの村が攻め込まれることはなかったが、それはただ幸運だっただけだとトメは知っていた。月族の領土は畑にできる土地が少なく、食糧難に陥っていること、そして、この村が月族の領土との境界線からほど近いことも。トメは母の言葉に頷いて腕時計をつけると、すぐに母とともに家を飛び出した。

 トメの家は村の中心部から少し離れた場所に建っている。「森へ行こう。あそこに行けば、きっと助かるよ」今なら村を出て、フォビンの森まで走ればなんとか助かるかもしれない。あそこには、月族たちも近づきたくはないだろう。トメは母の手を引いて走った。いや、走り出そうとした。そのとき、風を切る音が耳をかすめて、ズドンという音とともに地面が揺れた。トメたちの目の前に砲弾が放たれたのだ。それに驚き、走り出そうとしていた足が止まる。振り向くと三人の月族の兵士たちが迫ってきていた。「行こう!」母の手を握っていた手をはなし、今度は母を強引に抱き上げた。闇族の身体能力は月族の比ではない。それに、向こうは鎧をつけ、武器を持っている。母を担ぎながらでも、トメの脚力ならまだ十分逃げ切れる。月が沈んで行く。村を出ればフォビンの森まではすぐだ。母を抱えながら、トメは全力で走った。月族の兵士たちとの距離がどんどん離れていく。後ろからまた砲弾や銃を撃つ音が聞こえたが、左右に蛇行しながら走る。一発、少し後ろに砲弾が落ちたようだが、他はうまくかわせているようだ。いける。逃げ切れる。そう思った。いや、確信していた。しかし、村の出口のすぐ目の前、そこに月族の兵士たちが銃剣を構えて立ち塞がっていた。どうやら、村は囲まれてしまっていたらしい。挟まれた。「動くな」兵士の一人がそう声をあげた。「動くなって?大人しく従ったって、どうせ殺されるか、奴隷にされるかじゃないか」黙って言うことを聞いて奴隷になるなどまっぴらだった。「追いかけてくる兵士たちとはまだ距離があるわ。あの家の手前の路地に入れば、まだなんとか逃げ切れるかもしれない。」母はそう言って、村の一番はずれに建っている建物へ目線を送った。トメは頷き、陰に入って闇に紛れながら走ろうと足の向きを変えた。二歩か三歩か、そのくらいは目指した路地に向かって進んだだろうか。たったそれだけの距離進んだだけだった。たったそれっぽっち。それだけ進んだところで、この数分の間に何度も聞いた、あの空気を切り裂く音が近づいてきて、そして、トメたちのすぐ横で爆発した。自分の身体が宙を飛び建物の壁に激突した。爆発の勢いで抱えていた母が腕から放り出され、路地の真ん中の地面に打ち付けられるのを見た。すぐに助けようと身体を起こすが、母の身体を何発もの鉛の弾が通り抜けて行った。「逃げて…」トメの方に頭を向けた母は、そう言ってから力なく頭を垂れ、動かなくなった。

 何が起こったのか、まるで理解できない。時が止まってしまったかのように呆然とする。一瞬で様々なことを考えた。今何が起きたのか、これからどうすればいいのか、そもそもなぜこんなことになっているのか。トメは父親を知らない。物心ついたときから、トメはずっと母と二人だった。生活は貧しかったし、父親がいないことに悩んだこともあった。それでも、トメは母と二人での、この村での暮らしが大好きだった。自分を育てるため、母は毎日一生懸命働いてくれた。村人たちはみんな親切で、友達にも恵まれた。誰も父親がいない自分をからかわなかったし、母も仕事で忙しいはずなのに、トメに寂しい思いをさせないように努めてくれた。色々な思い出や、たくさんの人の顔が浮かんでくる。あんなに幸せに生きてきたのに。毎日楽しくやってきていたのに。今、村は破壊され、村人もきっと何人も殺されただろう。トメは混乱しておかしくなりそうだった。戸惑い、悲しみ、そして、何より怒っていた。トメのなかで何かが切れる音がした。プツンという音がして、次の瞬間、トメは絶叫していた。ビリビリと空気が振動する。体が熱い。絶叫が止むと、トメは理性を失っていた。


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 なんだ、こいつは。一体なんなんだ。さっきまでとはまるで様子が違う。確かに、こいつは他の闇族の者たちよりもさらに身体能力が高いようだとは思った。桁違いだった。人一人を担ぎながら、ぐねぐねと蛇行しながら、ものすごいスピードで走っているこの少年に驚きはした。しかし、今は驚きなどという言葉では足りないくらいだ。少年が抱えていた女性、母親だろうか。彼女に銃弾を浴びせた直後、絶叫した少年。そして、その少年の姿形が変化していくのを目の当たりにした。目は血走り、筋肉が大きくなっていく。肌は赤みを帯び、汗が霧になって蒸発しているのが見える。他の兵士たちも目を丸くし、動けないでいるようだ。兵士になってもう十五年になる。闇族との戦闘も何度か経験した。屈強な男たちと何度も命がけで戦ってきたし、怒りに身を任せて剣を振るってきた者も何人も見てきた。しかし、こんなやつは初めてだった。なんなんだ、こいつは。兵士の直感か、動物としての本能か、危険だ、殺される、そう思った。しかし、次の瞬間、目が合ってしまった。その目は殺意に満ちていた。恐怖で体が動かない。がくがくと足が震えている。その足をなんとか動かそうと視線を落とし、拳で腿を叩く。叩いていると、陰が自分を覆った。恐る恐る、ゆっくりと顔を上げる。そこには少年が立っていた。いや、さっきまで少年だった何かが。ありえないことだった。10メートル以上はまだ距離をとっていたのに、どうして、今もう自分の目の前に、こいつは立っているんだ。「化け物…」震えた声で、そう呟いた。逃げなくちゃ。早く。こいつから離れなくちゃ。そう思うのに、体の自由がまるで効かない。怯え、震えていると、化け物が拳を振り上げていた。目をつぶり、歯を食いしばる間もなく、その拳は自分の顔面に叩き込まれていた。体が宙を舞う。そして、首から地面に着地した。意識が遠のいていく。悲鳴と様々なにぶい嫌な音が聞こえる。首から下、体の感覚はもう全くない。かろうじて動く目を音の方へやると、少年を取り囲んでいた仲間は全員自分と同じか、よりひどい状態で地面に転がっていた。さっきまで少年だった化け物が、再び咆哮する。かすかに残っていた意識が、深い闇に落ちていくのがわかった。視界もどんどん暗くなる。もう何も見えない。何も聞こえない。

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月と闇 黒野響輔 @kuroyakyosuke

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