恋した人魚は海を舞う

上丘逢

恋した人魚は海を舞う

 うだるような暑さの中、肌が焼け焦げるんじゃないかと思うくらい、照りつける太陽が全力で作り出した暑さの中、私は山口に向かって言った。

「デートしよう。プールで」

 山口のYシャツは汗が滲んでいて、第2ボタンまで開けた胸元からは鎖骨がのぞいてた。

「川谷…」

 はい、はい、なんですかー?

 山口の横で手をあげる。

「海」

 私の返事はなかったかのように山口が呟く。

 山口のほほを汗が滑り落ちた。拭おうともせずに、その汗は山口のYシャツに染みを作る。

 私がプールと言ったのは、無視ですか。そうですか。

 山口に文句を言っても、どこ吹く風。その風に、私の文句は飛ばされて行ってしまった。

「あついな」

 山口が、陸に上げられた魚のように、だらしなく口を開ける。

 あの口を塞いだら、山口の中の熱気を取り込めるな、という想いにかられる。我ながら、頭が沸いてる。節くれだった手も気になる。握りたいけど、無理だ。こんなに暑いのに、熱を触りにいこうとするなんて。そう、私の頭が沸いてるに違いない。

 山口は、どうやら海に行き先を決定したらしく、私のことを振り向きもせずに行ってしまう。慌てて追いかけたけれど、すんでのところでホームに取り残されるところだった。

「ちょっと、ちょっと! 置いていかないでよね!」

 私がつめ寄って文句を言っても、山口はちらりともこちらを見ない。ドアに寄りかかりながら、窓の外の景色を眺めている。

「遠いなあ」

 当たり前じゃん。ここから海まで3時間だよ! ふらっと行ける距離じゃないんだよ!

「だからプールにしようって言ったのに」

 せっかく、久々のデートだと思ったのに、台無しだ。

 でも、仕方ない。山口がマイペースなのは今に始まったことじゃない。

 横からそっと山口の顔を見上げる。こっちを向くことはないけれど、その横顔をただ純粋に好きだという気持ちだけで見続けていられる位置に来ることができた。それだけで満足だ。

「山口さあ、覚えてる?」

 電車が発車する。目の前を景色が流れていく。

 山口と初めて話したときのこと。山口は覚えてるだろうか。


 山口とは1年の時のクラスが一緒だった。高校生になりたてで、友達ができるかドキドキしてた時期をすぎて、たぶん初めてのイベントだったスポーツ大会。そのスポーツ大会がなかったら、たぶん私たちはただのクラスメイトのままだったと思う。

 うちの高校は水泳競技が盛んで、スポーツ大会も2日に渡って行うことで、水陸双方の種目ができるようになっている。ただ、水泳種目ってあんまり出たがる人がいない。その中でも一番厄介なのがメドレーリレー。背泳ぎはまだ何とかなるが、バタフライが難しい。ただ、そこは水泳競技が盛んなうちの学校。誰かしらいる。探せばいる。手を挙げないかもしれないけれど、泳げる人はわんさかいる。その中にバタフライを泳げる人もちょこっといる。じゃないと、体育の水泳期間が長いうちの高校に多分入ってこない。

 それが、山口と話すきっかけだった。

「川谷さん! お願い! メドレー出てくれない?」

 じゃんけんで負けてスポーツ大会委員になってしまった三浦ちゃん。彼女が私の目の前で両手を合わせる。かなり断りづらいが、私にも譲れないものがある。

 水泳部に所属していた私は、すでに、2種目の水泳競技に出場が決まっていた。1人3種目までだから、これで水泳競技に出てしまうと全部水の中になってしまう。個人的にはそれでも悪くないけれど、みんなでワイワイチームプレイもしてみたい。

「んー、ごめん、私、バレーもやりたいんだよねえ」

 背筋は天使の羽のごとく。肩幅も申し分ない。バレー部の友達には太鼓判を押された。

「あああー、やっぱり、そうだよねえー。誰か、誰か泳げる人ー」

 三浦ちゃんがフラフラと去っていく。何だかとっても申し訳ない。

「何が足りてないの?」

 助太刀するくらいの軽いつもりで聞いてみたのだが、三浦ちゃんはものすごい勢いで振り返ると、そのままの勢いで私の両手をつかんだ。

「背泳ぎとバタフライ!」

 私の手をブンブン上下に振る。

「どうかー。誰かあ。私はカナヅチなのおぉー」

 それは焦りもする。確か、選手登録は今日までだ。最悪の場合、自分の名前を書くしかないと心に重石をずっしり抱えている大会委員の子は多いが、三浦さんもその口だろう。うちの高校でカナヅチとは珍しいが、それならもう死活問題だ。

「ちょ、ちょっと聞いてみる。でも、期待しないでね」

「お願いしますー」

 祈りを捧げるように私の両手を額に当てて、三浦さんはまた選手探しの旅に出て行った。

 約束した以上、最善を尽くすしかない。まずは情報収集とばかりに、スポーツ大会の作戦を練っている体育委員たちのところへ乱入する。

「おっふたりさーん」

 男女の体育委員はどうやら負けず嫌いの部類らしく、スポーツ大会委員が決めた各種目のリーダたちとああでもない、こうでもないと、戦法について議論していた。

「お! うちのマーメイド、美波さんではないですか!」

「澤田、よくそんな歯の浮くような言葉が出るね」

 女子の体育委員の澤田沙月、通称さっちゃんに、男子の体育委員の橋本くんがつっこむ。

「話しているとこ、ごめんね。まだ、メドレーの背泳ぎとバタフライが決まってないって聞いた? 誰か泳げる人知らないかな?」

 最後の質問は各種目のリーダにも言ってみる。

「そう、その2つねー。スポーツ大会選手決め、最後の難関と言われた2種目が残っているんだよね」

 頭を抱えるさっちゃんを横目に、橋本くんが手をあげる。

「背泳ぎは、最悪、俺が出ようと思ってるよ。あんまり得意じゃないから、できれば違う人にお願いしたいけど」

「橋本くん! 君は体育委員の鏡だー!!」とさっちゃんがなかなかにドラマチックに橋本くんの手を握る。

「じゃあ、あとはバタフライかあ」

 これはもう水泳部の勘で声をかけてみるしかないかもしれない。

「ねえ、山口くん知らない?」

「あいつ、今日は風がいいとか言って帰りやがったよ」

 リーダーの1人が不満気に声をあげる。

 そうか、そうか。帰ったか。

「水泳部の勘なんだけど、山口くんはバタフライ泳げると思うんだよね。勝手に帰っちゃった山口くんは、何に登録されても文句ないってことだよねー?」

 Yシャツ越しに見る山口の背中は、正直言って水泳部部員としては、かなりそそるものがあった。あの背中と二の腕は絶対速い。体育で見たときの足の筋肉のつき方は、芸術的でさえあった。

「そういえば、山口は中学、水泳部じゃなかったっけ?」

「あー、そうだったかも。狭いプールより広い海がいい、って言って水泳部には入んなかったんだっけ、確か」

 みんなの話を総合するに、少なくとも泳げるわけだ。

「じゃあ、体育委員権限で、バタフライは山口にしよう!  背泳ぎは仕方ないから俺がやりまーす」

 橋本くんが高らかに宣言する。そのあと三浦ちゃんを探しに行くと、まだ半泣きになりながら選手を求めてさまよっていて、報告後には神だ仏だと拝まれた。

 次の日、納得のいかない山口に捕まったのは、まあ、あたり前と言えばあたり前で。

「えー、バタフライ泳げると思ったんだけど、違った?」

「お前が言い出しっぺって聞いたぞ」と不満気に言ってきた山口をすくい上げるように見る。

「違わないとこが悔しいんだよなー」

 隣に立っていた橋本くんがニヤニヤしている。山口はぷいっと横を向いてしまった。

「狭いけどプールで泳ぐのも楽しいよ」

「楽しくねえよ」

「あーめんどくせえ」と投げやりに言う山口に、イラっとする。泳いだら、絶対楽しいのに。

「じゃあ、勝負しようよ」

「はあ?」

「私が勝ったら、バタフライ泳いで。私が負けたら、山口くんの代わりに私が泳ぐよ」

「それ、面白い! 乗った!  みんなー、山口と川谷さんが水泳勝負するって」

 山口が何か言う前に、橋本くんが声をあげ、教室中に宣伝してしまう。

「えー、何それ、面白そう!」

「いつやるの?」

 みんなも口々に勝負に乗ってくる。

「お前らなー」という山口の声はキレイに無視されている。これは、やらないと言うと散々イジられるパターンだ。

「どうする?」

 額に手を当てている山口をもう一度覗き込む。

「うっせーな。やるよ。勝てばいいんだろ? 負けても泣くなよ」

「じゃあ、明日の体育の休憩時間でどう?」

 今の時期から、うちの高校では体育で水泳をやっている。水泳だと着替えもあるから2時間続きだ。休憩時間もたっぷりある。

「自由形の50m」

「わかった」

 山口は、すでに余裕の表情だった。

 橋本くんが街宣ならぬ教宣から戻ってくる。

「下馬評では、山口が圧倒的に優勢だね」

「お前、勝手に広めるなよなー」

「ごめーん」と悪びれもせずに、橋本くんが謝る。

 山口は大きくため息をついて、自分の席へと戻って行った。クラスの子たちに早速囲まれている。

「川谷さん、大丈夫? 負けたらバレーできないよ?」

 三浦ちゃんが心配そうに駆け寄ってきてくれた。

「いいの、いいの。バレーは補欠もいるしね」

 山口は、もうこの話に興味はないとばかりに、クラスメイトたちを追い払うと、自分の席で顔を伏せて寝始めていた。


 うちの高校のプールは屋内にあって、そこらのプール教室に引けを取らないくらいの設備になっている。50mをターンなしで泳げるし、温水にもなるしで、春から秋くらいまでは泳ぎ続けられるのがとても有難い。

「やめるなら今のうちだぞ」

 ゴーグルをかけながら、山口がプールサイドに立つ。

 うん。良い筋肉。

 どうも胸筋ばかりに目が行ってしまいそうになるのを、ぐいと視線を意識して上に向けて山口に笑いかける。

「負けても泣かないから大丈夫ですよーだ」

 周りでは、クラスメイトたちがやんややんやと騒いでいる。

「さあ、待ちにまった、決闘の日。ご紹介しましょう。本日の対戦者は、1ーBのマーメイド、川谷美波! そして、海の王者、山口碧!」

 さっちゃんが、手をマイクの形にして、みんなの前で司会の真似事をする。さすが盛り上げ上手だ。

「あおい君ていうの?」

 謎の奇声や指笛を背に、山口の隣に立つ。

「悪いかよ」

「ううん、どんな漢字?」

 思っていたより、可愛い名前だけど、それは黙っておく。

「王に白い石の碧」

「良いね。海の色だ」

 緑がかった透き通った青。晴れた空の下で見る海の色。

 山口がこっちを見たのがわかった。私はゴーグルをはめる。

「みんなー! 応援しててねー!!」

 プールのスタート台に立ち、後ろの面々に手を振る。

「がんばれー!」 

「女の底力見せたれー!」

 と口々に女子のみんなが応援してくれる。

 男子も負けずに山口にはっぱをかける。

「山口ー、負けるなー!」

「行け、男の意地!」

「……しょうもねえな」

 かすかに山口の口角が上がったのがわかった。ゴーグルで目元が隠れてしまっているのが残念だ。

 スタートの合図を担当する橋本くんが手をピストルの形にする。

「いちについて」

 両手をスタート台につけて、腰を持ち上げる。

「よーい」

 グッと水面を睨んだ。

「ゴー!」

 蹴る。この瞬間、いつも人魚を思い出す。

 手の先が水を捕まえる。

 ああ、水だ。

 視界がブルーライトに照らされたように青に染まる。

 薬臭い匂いはご愛嬌。

 足の先まで水に受け止めてもらうように、しなやかに潜ったら、浮上して、体全てで水面上を走る。そう、走っているのと一緒だ。

 全ての力で前に出る。水を優しく力強く手で押し出す。足で弾力のある水を丁寧にかき分けるように叩く。

 誰の声も聞こえない。

 天井と水面を交互に見ながら、いつしか水だけを感じる瞬間がくる。

 水が、さざめく。

 水が、私を撫でる。

 水が、泳げと囁く。

 さらに加速した時、水が驚くのがわかった。

 ――山口くん

 なんて、荒々しい泳ぎ方をするのか。

 全ての水をちぎっては投げ、押し出しては引きつけ、それらを繰り返して自分を前に出せと水面を叩き、力強く水をかいているのがわかる。

 震えた。

 圧倒的な存在感と、水を支配するその姿に、確かに王者だと肌で感じ取った。

 壁に手が触れる。

 最後は、山口を追い続けた泳ぎだった。サメに憧れるイルカのように、強い者におののきながらも惹かれずにはいられない、そんな泳ぎをしたのはいつぶりだったろうか。

「俺の、勝ちだな」

 プールの壁に手をついたまま、山口が不敵に笑う。

 私は肩で息をしているのに、山口はまだ余裕がありそうだった。

「……ごい」

「え?」

「すごいよ! 山口くん!」

 コースを仕切るロープに手をかけて飛び跳ねる。

 すごいよ、すごい! あんなに早く泳げるなんて!

「勝者は、山口碧! 圧倒的な速さを見せつけてくれました。しかし、我らが人魚姫、川谷美波さんのしなやかな泳ぎも私たちの目を楽しませてくれたのではないでしょうか!」

 歓声が上がる。ノリの良いクラスだ。

「あーあ、山口は女の子相手に手加減も知らないんだなー」

 プールのヘリの上から橋本くんが声をかけてくる。

「んなこと言ったって、こいつはえーんだもん」

 プールから上がって、タオルを受け取る。

「それでは、表彰式に移りたいと思います。山口碧、タイム24.15, 川谷美波、タイム25.83。女子と男子の身体的な差を考慮して、高校生新記録での男女の差からマイナス2秒とし、川谷美波はタイム23.83となります」

 山口が横で「おいおいおい」と突っ込んでいるが、さっちゃんは全く聞こえないふりで、話を進める。

「よって、優勝は、川谷美波選手です!」

「いえーい!」

 片手をあげて、みんなにアピールする。拍手が鳴り響いた。

「インチキだろ!」

「男と女が競うんだから、ハンデがあって当たり前だろ。バタフライ、よろしくな」

 橋本くんが、ポンポンと山口の肩を叩いた。

 ふふん、と自慢気に山口を見る。これが、試合に負けて勝負に勝つっていうことよ!

「まじかよー」

 座り込む山口がどことなく可愛い。

「でも、楽しかったでしょ?」

 そう言うと、山口がちらりと私の顔を見上げた。

 タオルの隙間から覗く視線と水に濡れてオールバックになった前髪が色っぽくて、ドキっとする。

「仕方ねえ、泳いでやるか」

 立ち上がると、山口が大きく伸びをした。

「プールも悪くなかった」

「えー?」

「悪くなかった!」

 聞き直した私に山口が声を張り上げる。

「もう一回言って」

「お前、調子に乗るなよ!」

 タオルを投げつけられる。思わず、笑ってしまった。

 うん、良い。すごく、良いね。


 山口はバタフライで大活躍した。ついでに言うと、私はバレーで大コケしたけど、スポーツ大会は総合2位。楽しかった。みんなと協力して、みんなと笑って、みんなに応援してもらって。

 その中に山口を引き入れることができて、とても満足した。

「楽しかったねー、あの頃」

 山口は窓の外を見たまま、答えない。

 瞳は暗く、海の底を写しているようで、不安になる。

「そうそう、告白も突然だったよね!」

 気を取り直して、違う話題を振る。


 スポーツ大会のあと、相当しつこく、2ヶ月に渡って山口を水泳部に勧誘したけれど、箸にも棒にもかからない有様だった。

「お前、しつこいんだよ。俺は、海がいいの」

「プールも楽しいって言ってたじゃん」

「ちげーよ。悪くないって言ったんだ、俺は」

 あー、無理か。こうも毎日毎日断られると、さすがにヘコむ。

「あー、山口がまた川谷さんいじめてるー」

「いじめてねーよ!」

「私はただ、一緒に泳ぎたいだけなのにー」

 泣きまねをする私の肩をポンポンとさっちゃんが叩く。

「一度だけで見捨てるなんて、男の風上にもおけないな」

「まぎらわしい言い方すんな!」

「それならさ、海で泳げば?」

 そう言ったのは、橋本くんで。

「その手があった!」

「俺は行かねーからな!」

 橋本くんとさっちゃんが口八丁で簀巻きのように山口を言いくるめてしまったのは、それから5分もしないうちだった。

 あれよあれよと言う間に山口と連絡先まで交換して、交換したときのメッセージを当日まで何度も見返していた。見返すたびに胸の奥がむぎゅっとして、間違えて通話ボタン押してくれないかな、なんて期待した。

「それで、なんでお前らもいるんだよ?」

 海に来たのはそれから2週間後のことだった。まだ少し肌寒いけれど、それが気にならないくらいの快晴だ。

 海の表面が太陽の光を反射させて、キラキラと光っている。

「えー、山口、2人きりがよかったわけー? いやらしいー」

 いてっ、と橋本くんから声があがる。山口が無言で殴りつけたらしい。

「いいじゃん、いいじゃん。泳ごうよ!」

 海は久々だ。何しろ、家からだと3時間半もかかる。行けない距離じゃないけど、部活がある身だと難しい。

 水着に着替えた橋本くんとさっちゃんがビニールボールで遊んでいるのを傍に、私と山口は海へ繰り出す。

「さあ、泳ぐか」

 男の子の上半身ハダカの姿なんて、嫌というほど見慣れているはずなのに、山口を直視できない。スポーツ大会の時とは違う自分の鼓動の動きにドギマギしてしまう。

 それでも、見たい欲求には逆らえなくて、ちらりと横目で見る。

 私よりも20センチは高いだろう身長に、ほかの男子よりも一回りは広い肩幅。それなのにキュッとしまった腰回り。腹筋は割れていて、胸筋にいたっては横目でもちょっと見れない。

「早く来いよ。泳ぐんだろ?」

 同じところで立ち止まっている私を山口が振り返る。

「待っててくれたの?」

 思わず聞いてしまう。

 ちげーよ、と言われるだろうか。

「お前と泳ぐの嫌いじゃないからな」

「え?」

「行くぞ」

 山口の表情は見えない。

「ねー、もう一回言ってー」

「二度と言わねー!」

 どうしようか、山口の手を握ってしまおうか。戯れているフリをして、抱きついてしまおうか。

「早く泳ぐぞ!」

 海にずかずかと入って行く山口がどなるように言う。

 それから休み休み2時間は泳いだだろうか。時折、みんなで砂浜でバレーをやって、山口には「ド下手」と言われた。

 ウキのところまで遠泳したり、カニを探したり、山口と水泳勝負したり、砂に山口を埋めたり、たくさん遊んだ。たくさん笑って、たくさん笑いあったあとは、もっと、と思ってしまった。

 もっと、一緒にいたい。

「あー、泳いだー」

 山口が砂浜に手足を投げ出す。

「楽しかったねー」

 私も足を砂浜に伸ばして座る。

「ねえ、また一緒にきていい?」

 腕で目を覆っている山口に聞いてみる。

 山口は答えない。

「また、一緒に泳ぎたいなー」

 ひとり言のように言ってみる。

「……るよ」

「え?」

 山口が体を起こす。顔が赤いのは気のせいだろうか。

「お前、聞こえてんだろ!」

「今のはほんとに聞こえなかった!」

「もう一回言って?」と拝みたおすと、山口がため息をついて、空を見上げた。

「ずっと一緒に泳いでやるよ」

「え?」

 今度は違う意味で聞き返してしまう。

「――! お前、わざと言ってるだろ!」

「違う、違う! だって!」

「愛の告白みたいだったもんねー」

 後ろを振り返ると橋本くんとさっちゃんが2人でニヤニヤしていた。

 そうだよね! やっぱり、そう思うよね!

「――ばっ!」

「よろしくお願いします!」

 山口にかぶせるように、頭を下げる。

 山口は、今度こそ間違いなく顔を真っ赤にさせながら、髪をくしゃくしゃにさせて、あーもう、と声を出している。

「泳ぐぞ」

 逃げるように立ち上がって、海へと歩いていく。

「待ってよ!」

 山口が仏頂面で振り返る。波打つ海と白い雲が漂う青い空を背負った山口に思わず笑みがこぼれる。

 うん、良い。すごく、良いね。


 電車の窓から、海が見える。

 太陽の強い光を思い切り跳ね返して、時折寄せる波が跳びはねるようにその光の合間を縫う。

「山口ー、今日は泳ぐのやめにしたら?」

 山口は思いつめたように、口をひき結んでいる。私の声は届かない。

 駅を出て、まっすぐ大通りへ向かう。通りを超えて、急斜のある坂を下りると、目の前に海が広がる。

「久々だね」

 山口の隣で感慨深く海を眺める。

 山口と何度もこの海で泳いだ。最近は山口と来れてなかったな、と思い返す。

 海を前に着替えにも行かず、制服のまま山口が砂浜に座る。私もその横に立って、空に手を伸ばした。

「気持ちいいねー」

 照りつける太陽を海が和らげて、水が辺りの気温を低めてくれる。そのおかげか、この暑さにもかかわらず、海で遊ぶ子どもたちは多い。時折、歓声が聞こえ、目の前の海では思いおもいに泳ぐ子どもたちで賑わっている。

 砂浜は焼けるほどに熱いだろうに、山口はそれすら気にならないみたいだ。ただ、じっと座って顔を腕に埋めている。

 その横で私は語りかけ続ける。

「ねえ、山口は私が彼女で楽しかった?」

 あの告白から1年。

「泳いでばっかりだったね」

 デートというとだいたい海で、手をつないでウィンドウショッピングとか、映画を見た後にご飯とかは、ほとんどなかったように思う。

 それでも。

「私は、楽しかったなあ」

 山口と遠くまで泳いだこと。

 山口と砂浜で一緒に寝転んだこと。

 山口と夜の海を散歩したこと。

 ナンパされて、なぜか私が怒られたこと。

 ケンカして、結局謝るのは山口なこと。

 キスしたこと。

 抱きしめてくれたこと。

 私を、大事にしてくれたこと。

「幸せだったなあ」

 両手には収まりきらないほどの幸せと愛しさを山口はくれた。だから、後悔することはない。

 ただ、もし叶うのなら。

 山口は顔を伏せたままだ。

 あたりが暗くなってくると、山口が突然立ち上がった。

 子どもたちは夕飯なのか、みな帰ってしまって、砂浜には私たちだけがいる。

「川谷……」

 山口が私の名前を呼びながら、制服のまま海へと入っていく。

「そっちに私はいないよ」

 私の声は山口に届かない。

「川谷、川谷、川谷…」

 山口が海の中をかき回す。私を探している。

「…んで、なんでだよ」

 山口、ごめん。

「なんで、お前は」

 ごめんね。

「俺は、まだ、お前に」

 波に煽られながら、山口がさらに深いところへ進む。

「山口、ごめんね。ありがとう」

 私の体は海の彼方。もう見つからないだろう。あの子どもは助かったと聞いた。

 山口は、それを新幹線の中で知ったらしい。それから毎日必死で私の体を探してくれた。もう、十分だ。

「でもね、ここまで帰ってこれたよ」

 山口の隣まで。

 叶うのなら、もう一度だけ。

 山口の頭が波間から途切れとぎれに見える。

「山口?」

 少しずつ見える範囲が狭くなっていく。

 山口、波、山口、波、山口、波、波、波……。

 嘘。

「山口!」

 山口に聞こえるはずはないのに、叫ばずにはいられない。

 そんなの、望んでない。

 山口、私、そんなこと、望んでないよ!

 叶うのならば。

 叶うのならば、もう一度、山口と泳ぎたかった。

 でも、そんなのもういい。

 叶うのならば。

 叶うのならば。神さま。

 山口を助けて。私に山口を助けさせて!

 目を閉じて、息を吸い込んだ。

 お願い! 海の中へ!

 ――!

 体が弾力に包まれる。

 ぶくぶくと泡が見える。あお。青。碧。

 水。水の中にいる。

 何かに包まれて、水の中、息をしている!

 足をしならせ、腕で水をかき分ける。泳げる。泳げている。

 山口。山口はどこ?

 月の光があたりを照らす。水の抵抗をどこにも感じずに、水の中の風になったかのように、私は海の中を舞う。

「山口!」

 海のもっと上の方で、浮いている人影を見つける。全速力で砂浜に引き上げた。

「山口、山口!」

 なんて、バカなのか。

 私は大きく息を吸い込むと、山口の口に吹き込む。何度も、何度も。

 生きて。泳いで。私は、隣にいなくてもいい。

「――っは!」

 山口がせきこむ。

 はあはあ、といつのまにか自分も肩で息をしていたことに気がついた。

「……人魚?」

 山口がうっすら目を開けて、また閉じる。

「人魚になったのか?」

 そうか、山口にはそう見えるんだ。

 額にひとつ、口付けを落とした。

 もう山口の息も安定している。大丈夫だ。

 髪をなでる。名残おしいけれど、もう行かなくちゃいけないのがわかる。体が水を求めている。

 山口からやっとの思いで、自分の体を引き離すと、腕を掴まれた。

「……くな」

「え?」

「いくなよ!」

 山口が私の体を抱きしめる。抱きしめ返したはずなのに、両手は空を切った。

 体が少しずつ海に引き戻されている。

「何度でも言ってやるよ。行くなよ。行くなよ、美波」

 山口の頭を優しくなでる。感触は、もうない。触れなくなっている。

 それは、無理なんだ。

 もう一度、額にキスをおとす。自分が薄くなっていくのがわかる。

 山口が顔をあげた。

 ありがとう。ありがとう、山口。

 とても素敵な恋を私にくれて。

 最後に名前を呼んでくれて。

 今度は、唇にキスを落とした。

 最後のキス。

 どうか、幸せに。

 どうか、いつまでも、泳いでいて。

 海からずっと見守ってるから。

 体が、水に引き戻される。

 山口が私に手を伸ばす。

「好きだ!」

 え? と聞き返すと、山口が泣き笑いするのが最後に見えた。

 うん、良い。すごく、良いね。

 何度でも言うよ。山口。

 幸せに。幸せになってね。

 山口も、山口の奥さんも子どもも孫もその先も、ずっとずっと見守ってるよ。

 覚えていて。

 私は、幸せでした。

 あなたに恋をして、あなたを好きになって、私は――。


 とても幸せでした。


 海の中、人魚は舞う。

 幸せな、それは小さな恋の舞。

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