薄羽陽炎の生死

住原葉四

薄羽陽炎の生死





 と或る作家が蜻蛉かげろうの翅を見て美しいと説いた。けれど僕はそうは思わない。

 この世界には美しいものが五万ごまんと在る。その全てが、僕の眼には美しい物として認識せずに、唯の景色として映される。あゝ詰まらない。何て詰まらない人だろう、僕は。一緒に居る二人の方が楽しそうじゃないか。その瞳は瑩然としていた。僕はそれらの方がよっぽど美しいと感じてしまうのだ。後は絶望するその様とか、そんな物が僕は美しいと感じるのだ。

 お前はみたことあるだろうか。人が自分を壊していくその様を。

 お前はみたことあるだろうか。人が煩悩に溺れていくその様を。

 櫻の樹の下に死体が埋まっているのならば、人間の下にも死体が埋まっている。でなければ、人間があんなに美しいわけがないのだ。人は時々絶望だとか、失望している人に向かって死んだ魚の様な目をしている、と表現する。それは良い事を表現しているわけでもないのに、何故態々〝死んだ〟と表現するのだろうか。

 絶望だとか失望だとか、負の感情を持つ人間が美しいと人間は直感的に感じているに違いない。そうでなければ、わざと〝死んだ魚の〟と云う表現をするはずがない。これは決まっていることなんだ。信じて良い。

 所謂人と仲良く出来る人間は失望している人間を美しいだとは思わないだろう。彼らは逆に可哀想と思い、慰めようとしているが、実のところ、腹の中ではきっと嘲笑っているに違いない。あゝ哀れだ。あゝ可哀想だ。こんなに人間に、俺は絶対になりたくない。と、そう思っているに違いない。そういう人間こそ、足元には何も這ってなく、向い風が吹けば、直ぐに倒れてしまう。

 けれど僕が美しいと感じる人間こそが、地面に根を這っている上に美しいのだ。美しい人間こそ、闇を持っている。闇を持っている人間こそ、美しいのだ。

 「俺」が不安と憂鬱に駆られている通り、僕もその不安だとか憂鬱に駆られている。そんな美しい彼らをみていると、僕は何もない人間だと思う。では人と仲良く出来るのか、と問われれば、それは違うと否定できる。僕には人に仲良く出来る能も、美しいと思われる能も持ち合わせていない。そう考えれば、僕は薄らと見える陽炎だ。人間に視認されなければ確認できない陽炎だ。屈折の仕方によっては盲点となる存在だ。僕自身、存在するかどうか危うい人間だ。それは最早、人間ではなく美しいと思わせるための陽炎だ。引き立て役だ。過去の文豪が陽炎の死体を見て、美しいと評した様に、僕は死ななければ美しいと思えない。ひょっとすると、死んだとしても美しくないのかもしれない。いや、決して美しくない。

 薄羽かげろうは産卵を終えると死ぬ。水場にたまった彼らの死体は堪らなく美しい。檸檬忌に泉下の客となった彼がそう云っている通り、それは堪らなく美しい。

 想像してみるのだ。薄羽蜻蛉の翅が瑩然としている様を。

 想像してみるのだ。人が死に行くその様を。

 想像してみるのだ。人が死ぬために生まれるその様を。

 結局人間は死に行くために生まれ、生まれるために死ぬのだ。死が美しいのならば、生まれること自体が美しい。とすれば、この世界自体が美しいことになる。

 お前は考えてみるが良い。この世界が様々な生と死で構成されている事を。考えて納得出来るのであればこの世界は美しいのだ。夏に見える陽炎も、秋に見える紅葉も、冬に見える雪景色も、春に見える櫻でさえも美しく、あのピラミッドも、カスピ海も、太平洋も、モヘンジョダロも、兵馬俑も、大仙陵古墳も、サムイ島も、クリムトゥ山も、蘆笛岩ろてきがんも、イエローストーン国立公園も、全て美しいのだ。





 と或る作家が蜻蛉の翅を見て美しいと説いた。けれど僕はそうは思わない。

 景色よりも何より生死こそが美しいと感じてしまうからだ。

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