Shine on You 健康ランドボーイ

凡野悟

第1話

 いつの間にかベッドで寝ていた私は、目を覚ますとキャスターのついた固く冷たい台に横たわっていた。それは誰かに押されて建物の中を移動しているようである。意識が覚醒してくると、まだまだ声変わりしそうにない男児の高い声が耳に入ってくる。私の隣に置かれた大きな金属のバケツからねっとりとキレのないスパイスの香りが漏れている。どうやら寝相が悪すぎていつの間にか給食を運搬するカートに乗り込んでしまったようだ。やれやれこうなってしまっては急に飛び出るわけには行かない。廊下を駆け回る、1ヶ月ぶりのカレーに喜ぶ小学生たちの歓喜の声とすれ違った。


 カートが進路を変え教室に入っていく。子どもたちが配膳台にバケツやバットを並べ始めたら、カートに横たわってる私は発見されずにはいられない。覚悟を決めて、一か八かカートを飛び降りるてみたが、皆まるで私が見えていないかのように、給食衣が入った袋を振り回したり、ガタガタと机を並べ替えるのをやめる様子はない。声の大きい少年に追いかけられた少年が私にぶつかったが、その小さな体は止まることなく私の体をすり抜けていった。どうやらこの学校に私の実体は存在しないようだ。

 黒板の前に二人の生徒が立って給食生産者と調理師に感謝しましょうと号令をかける。必要以上に大きな声を出した少年少女の「いただきます」が教室の壁を四方八方に反射した。長らく忘れていた幼い喧騒の隅っこに立ち尽くして、自分もこの場所に通っていたことを思い出した。記憶よりも低い机と汚れた壁や天井に、何より突然のことだったので状況がつかめていなかったが、紛れもなくここは母校だった。かつて通った学び舎にこんな形で訪れることになるとは、現実は全く持って予想できないものだ。誰にも存在を知覚されないことをいいことに教室を歩き回る。黒板の上にかけられた時計の横には、長針と短針の読み方を指南するポスターが貼り付けられていた。書かれた文のひらがな含有量に懐かしさがこみ上げる。小さな椅子と机をくっつけ、夢中でご飯を口に運ぶ子供。ゆっくりと食べたらいいのに忙しなく手を動かして、吐き出してしまうんではないかというペースでカレーを咀嚼する。一刻も早く食べ終わって、同級生と話したいことでもあるのだろうか。そんなに早く食べても帰れるわけではないぞ、担任の教師がクラスの雰囲気をなだめる。教室の後ろには毛筆で書かれた『光』がクラスの人数分並べられていた。どれも似たような崩れ方をした幼い字だった。

 私がいてもいなくて学校生活は止まらない。食事を終えた彼らは我先にと食器を片付けて、校庭に走って行った。ぎこちない走り方で揺れる背中を追いかけず、立ちつくす。遠ざかる楽しげな声を聞いていると、自分が幼いときもこの景色を見ていたことを思い出した。朝から押さえつけられた好奇心と衝動でパンパンになった同級生たちが、チャイムを合図に走り出しては教員に怒られるその姿。僕は机に座ってそれを見ていた。生まれたときから動くことが面倒で、屋内でできる遊びばかりしていた私は入学してからも校庭で友人たちとボールを投げ合ったり蹴り合ったり、追いかけ合ったりすることはなかった。自由な時間はだいたい教室の机か図書室でおとなしくしていた。そんな内向的な学校生活のせいで通信簿には対人関係だのコミニュケーションだのと毎回書かれていた。自分と向き合うことすら満足にできない人間が他人とコミュニケーションをとろうとしてもどうにもならないと、両親はいつも新しい本を与えてくれた。まずは己を見つめなさいと。今思うと放任とも捉えられるし、当時の私は己が人生を見つめ考えるには若すぎたと思うが、とても居心地の良い家庭だった。

 昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り響く。棒のように立っているだけで、30分はあっという間に過ぎていった。子供たちが名残惜しそうにしつつも全速力で教室に戻ってくる。熱を帯びた児童がなだれ込み室温が上昇する。蹴られたボールがどちらに飛んでいくか見守るときの緊張、昨日はできなかった逆上がりができたとき高揚感が、声を出して走り回る熱狂が小さな体から抜けきらないまま5時間目が始まる。


 中年の教師が前に立つとすっと静かになる。よほど腕の立つ教師なのだろうか。5分も立たずにクラスは落ち着きを取り戻し、みな真剣に板書を見ていた。授業はスムーズに進み、あっという間に終業のチャイムが鳴る。教室の後ろに並んだロッカーから各自のランドセルを取り出す。私が通っていた頃よりカラフルで個性的なそれらは、色のかぶりも少ないようだった。教師に挨拶をして児童が下校していく。大きな笑い声と高い足音が響くなか、一人ぽつんとたった少年の、黄金に輝くランドセルから目を離せなくなる。傾いた太陽と蛍光灯が混ざった光を反射する小さな背中の小さな鞄をぼうっと見つめていた。

 


 気がつくと私は誰もいない近所の公園のベンチに寝転んでいた。どれくらい寝ていたのだろう。公園の中には私の通学路があって、ここでどんぐりを探して遅刻をすることもあった。十年前にはあった遊具はなくなっていた。真っ赤に染まった広い園内には私が横たわっているベンチが申し訳程度にぽつんと転がっているだけである。防災無線放送のスピーカーから『夕焼け小焼け』が流れ始めた。5時だ。公園でこのサイレンを聞くのは何年ぶりだろう。ゆっくり郷愁に浸るにはスピーカーが近すぎて、耳がぽぅっとしてくる。下校中の楽しそうな足音が遠くから近づいてきて、甲高い声を運んでくる。無線放送の無機質な音にビリビリ震える鼓膜をノックする。マジックテープで留める運動靴を履いた小学生たちが公園を駆け抜け、誰が言い出したわけでもなく始まった徒競走で家路について行く。みな負けるないように走り続けながら、夕方のテレビ番組の話をしている。夕食を食べながら見るのだろうか。

 私はすっかり重く錆びついた体を起こし、なんて元気なんだろうとつぶやき俯いた。私の体から逃げ出した無邪気さ、健康、綺麗な愚かさを思う。身についたものといえば愛想笑いと言い訳するための詭弁のバリエーション、そして黒ずんだ肺くらいである。

 足元では蟻がダンゴムシの死体をせっせと運んでいる。こんな小さな生き物ですら集団のために働いているというのに、自己嫌悪に陥りかけたその時、一人の小学生が私の前に立ち止まった。蟻よりは大きい、大人より小さい影が私の前で東に向かってまっすぐ伸びている。

 「いまお兄さんは子供はいいなあって、無邪気だなあとか思ったわけ?今の俺は駄目なやつだとか勝手に自己嫌悪して、小学生のなかに無垢とか愚直さを見出すために、ジロジロ見つめていたわけ?それって気持ち悪いよ。今の僕たちはお兄さんより綺麗な存在ではないし、昔のお兄さんも同じように汚かったよ。もちろん今のお兄さんのほうがもっともっと見てられないけどね。

 遊具のない公園を見て、今の子供は可愛そうとか勝手に同情した?そういうのをいらないお世話だって言うんだよ。よくわかってるでしょ?お兄さんも小さい頃散々、口うるさい担任や自分の評価のためだけに心優しいふるまいをしたい人たちから居心地の悪い同情の的にされてきたはずなのにさ。どうして十年ちょっと先に生まれただけなのに、僕らより古い価値観しか身につけられなかったのにそんな上から僕たちを見てるのかな。僕はとても胸糞が悪いよ。お兄さんの目、嫌いだな。」

 少年は感情を感じない平坦な声でまくしたててきた。夕焼けを背にした不気味な少年は続ける。

 「僕らはかわいそうじゃないし、僕らは尊くて綺麗で透明な存在でもない。これから大人になるだけの生き物だから。大人はみんなすぐに、小さい頃に抱えていたモヤモヤもイライラも忘れて、あの頃はただ鼻水垂らして走り回ってたとか言うよね。そんなわけないじゃん。僕らだって悩むし、将来について考えもするよ。どうしようもなく不安になって眠れなくなったりしたじゃん。忘れたの?」

 私が恐怖を感じて立ち上がると少年は、私の反時計回りに回って私の正面からそれる。夕焼けに染められた少年は表情筋を動かさないでこちらをまっすぐ見ている。ランドセルが黄金に輝いている。夕焼けを背にした私の影は、糸のほつれたスニーカーから黒く染まりつつある東の空に向かって伸びていく。少年は言いたいことを土石流のようにぶちまけ、来た道を走って消えていった。追いかけても何一つ言い返せそうになかった私は、諦めて、ここに滑り台があったんだけど今はどこに行ってしまったのかしらと考えながら自宅を目指した。

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