Apocalypsis

 気がつくと、少女は高い山の上に一人立っていた。まるで巨人の手で削り取られたような険しい断崖絶壁に囲まれた狭い山頂の周囲には草木一本生えておらず、ただ、岩と石だけが転がっており、咽び泣くような甲高い音と共に吹きすさぶ風が、乾いた土埃を巻き上げていた。

 空は一面が低く垂れこめる厚い黒雲に覆われ、眼下には赤茶けた地肌を剥き出しにした、砂漠のような荒涼とした広大な平原が、見渡す限りどこまでも続いていた。

「ここは……」

 少女がつぶやくと、吹きすさぶ風に乗って、まるで地の底から響いてくる地鳴りのような不気味な音と、大勢の人間の叫び声のような喧噪が聞こえてきた。

 見ると、平原の両端の地平線から、まるで地を這う雲のようなもうもうたる土煙を上げながら、黒い巨大な影のようなものが大地を埋め尽くしつつ、互いに平原の真ん中に向かって進んでくるのが見えた。

 土煙の中から、銃を構えた兵士の姿や野戦砲、さらには戦車までが垣間見えた。黒い巨大な影のようなもの、その正体は軍隊だった。平原の両端から現れた、何百万、あるいはそれ以上の数かもしれないほどの数え切れない数の二つの大軍が、今、広大な平原の中央部で激突しようとしていた。

 左側の大軍は赤い地に黒い鉤十字を描いた無数の旗を押し立て、そして右側の大軍は白地に赤い日の丸を描いた旗を幾千万本も風にたなびかせている。

 左側の軍団はドイツ連邦、そして右側は大日本帝国の軍勢だ。少女がそう思った時、それぞれの軍隊の先頭に立っていた兵士たちの間から、ほぼ同時に二つの叫び声が上がった。

「ファイエル!」

「撃て!」

 次の瞬間、天地を揺るがすような大喊声が二つの陣営から沸き起こり、両軍が平原のど真ん中で激突した。

血に飢えた野獣のような雄叫びを上げながら突進する兵士たちが、機関銃の乱射を浴びせられ、次々と血まみれになって倒れていく。

 その頭上を無数のミサイルや砲弾が飛び交い、爆発が起こるたびに無残に引きちぎられた兵士たちの肉体の一部が空に向かって放り投げられる。

 ドイツ軍の戦車部隊が現われ、日本軍の兵士たちを蹂躙しながら猛進したかと思うと、鈍色の雲を切り裂いて、日本軍の攻撃機の群がドイツ軍に襲いかかり、爆弾を投下して戦車部隊を粉砕する。と思うと、今度はドイツ軍の陣営から対空ミサイルが発射され、日本軍の爆撃機を次々と撃墜していった。

 大日本帝国とドイツ連邦、二つの超大国の軍隊は、平原だけでなく、街道で、塹壕で、草原で、凍土で、砂漠で、海上で、空中で、泥中で、湿原で、この世界のありとあらゆる場所で、殲滅戦、電撃戦、打撃戦、防衛戦、包囲戦、突破戦、退却戦、掃討戦、撤退戦、その他ありとあらゆる戦闘行動を繰り広げていた。

 やがて、どのくらい長い時間が経っただろうか。火力と機動力、そして機甲戦力でわずかに日本を上回るドイツ陸軍の大部隊が次第に優勢になり始めた。

 ドイツ軍の休むところを知らぬ猛攻の前に、日本軍が多くの兵の死体を残したままじりじりと後退していく。

 そのまま日本軍が総崩れになるかと思われたその時、日本軍の背後に横たわる水平線の彼方から、紅く燃える大きな太陽が漆黒の空を血と炎の色に染め上げながらゆっくりと昇ってくるのが見えた。

 その太陽を見た瞬間、少女は思わず悲鳴を上げてその場にうずくまった。それは太陽ではなく、真っ赤に燃える巨大な火の玉のような<眼>だったのだ。

 はるかな天空の高みに君臨する<眼>から、燃え盛る地獄の業火のような真紅の光が日本軍の頭上に放たれると、神の雷のような凄まじい怒りの咆哮が天と地の狭間に轟き渡った。

「常勝不敗の皇軍が敵に背を向けて逃げ出すとは何事だ! 弾丸がなくなったら銃剣で突撃しろ! 銃剣が折れれば腕で殴れ! 腕もなくなったら足で蹴れ! 足もやられたら口で噛みついていけ! 帝国軍人の大和魂をドイツのクラウツどもに見せてやるのだ! 我が大日本帝国は神国なるぞ! 八百万の神々が必ずやそなたらを守り給うであろう!」

 その途端、ドイツ軍の攻勢に押されて後退し続けていた日本軍の兵士たちの足がぴたりと止まったかと思うと、「大日本帝国万歳!」「皇帝陛下万歳!」と狂ったような喊声を上げながら、前に向かって突撃し始めた。中には、負傷して地面に倒れていたにもかかわらず、起き上がってよろよろと敵のいる方角に向かって歩き出す兵士までいた。

 何か目に見えない大きな力に背中を押されたように反撃を開始した日本軍と、それを迎え撃つドイツ軍。両軍が血みどろの激戦を展開していると、やがて、日本軍の背後からごうごうという遠雷のような音と共に、数千、いや、数万機はあろうかと思われる数の大型爆撃機の大群が姿を現し、ドイツ軍の頭上に大量の爆弾の雨を降らせた。

 無数の火球が連鎖するように次々と爆発し、ドイツ軍の兵士も戦車も、その他の兵器も、皆全て爆風によって吹き飛ばされ、火の海の中に呑み込まれていった。

 この絨毯爆撃によってついにドイツ軍は潰乱状態となり、総崩れとなって戦場から敗走していった。

 潰走するドイツ軍を追撃する日本軍の兵士たちの間から、うねるような軍歌の歌声が沸き起こる。


海行かば 水漬く屍


山行かば 草生す屍


大君の辺にこそ死なめ


かへりみはせじ


 兵士たちの歌う軍歌にかぶさるように、真っ赤に燃える東の空から高笑いが聞こえてきた。

「よいぞよいぞ! 我が偉大なる皇軍の兵士たちよ! もっと余を讃えよ! そして地の果てまで突き進め! ドイツ連邦の首都ベルリンを攻め落とし、このまま一気に世界を征服するのだ!」 

 天をも圧するような笑い声が戦場全体に響き渡る。やがて、哄笑が収まると、地上を睥睨していた<眼>の視線が、山の山頂にうずくまっている少女に向けられた。

「眼を背けるな! これは全世界の統一という人類の悲願を実現するための<聖戦>であり、さらに言うならば、そなたらユダヤ人のナチス・ドイツに対する<復讐>を我が大日本帝国が代わりに請け負ってやっているのだぞ!」

「復讐……」

 少女が小声でつぶやいた。

「そうだ! そなたも忘れたわけではあるまい! ナチスの悪魔どもがそなたらユダヤ人に対して行った人類史上未曽有の迫害と大虐殺を! ホロコーストの惨劇を! そして思い出せ! そなたらの二千年に渡る苦難と悲劇の歴史を! そなたらの悲しみ、怒り、そして憎しみを全て余が晴らしてやる! 無能な神に代わって、余がそなたらの悲劇の歴史に終止符を打ってやろう! さあ、そのためにそなたが持っている<力>を余に貸すのだ!」

「力……」

「そうだ。先程そなたも見たように、我が大日本帝国とナチス・ドイツの国力と武力は、空軍力や海軍力においてかろうじて我が帝国が優位を保っているという状況だ。だがそなたの持つ力が加わればこのパワー・バランスが大きく傾き、我が国が圧倒的優位に立つことができる。そなたはそれほどの力を持っておるのだ。そもそもそなたが余と同じ<ホモ・デウス>として創造されたのも、来たるべきナチス・ドイツとの大戦において、我が帝国の最大の切り札として用いるため。つまりそなたはナチスを滅ぼすための最終兵器として、<神の力>の一部を授けられたのだ」

「…………」

「そなたらユダヤ人は我が大日本帝国のために実によく役に立ってくれた。先の大戦で帝国がアメリカに勝てたのも、ナチスの手を逃れ、帝国に亡命してきたユダヤ人の科学者たちが世界に先駆けて原子爆弾の開発に成功したからだしな。これでわかったであろう。そなたがなすべき真の使命が……。わかったのであれば余に忠誠を誓え。そしてそなたにとっても憎むべき仇であるナチス・ドイツと戦うのだ。無論、ただでとは言わん。もし、そなたが余に忠誠を誓い、ナチスを滅ぼすことができたならば、褒美としてそなたに<国>を与えてやろう」

「国……」

「そうだ。これを見るがよい……」

 見ると、東の大地を覆い隠していた茶色い土煙が次第に晴れていき、その隙間から、小高い丘の上に建つ壮麗な<都>が姿を現した。都の城壁は雪のように白い大理石で築かれ、全部で十二ある城門は全て、真珠やダイヤモンドなど様々な宝石で彩られていた。

 都の中央には、黄金で造られた巨大な神殿がまるで太陽のように燦然と輝きながらそびえ立っており、その入り口には青、白、緋色、黄色、紫の五色の絹の糸で織られた大きな幕が垂れ下がっていた。

 さらに都の周囲の大地は、まるでサファイヤとエメラルドを敷きつめたかのように光り輝くような清澄な水と緑に溢れた豊かな沃野が一面に広がっていた。

「見るがいい。これがそなたらユダヤ民族が夢にまで見た憧れの理想郷、シオンの丘の上に建つ聖都エルサレムと、蜜と乳が流れるカナアンの地だ。余がナチス・ドイツを打倒し、全世界を征服したあかつきには、これら全てをそなたにくれてやろう。そしてそなたは失われたユダヤの王国を再興し、女王としてこの楽園を統治するのだ」

「私が……女王……?」

「そうだ! 王道楽土は神から与えられるものにあらず! 人間の手によって築き上げるものだ! 現にそなたらユダヤ人は数千年もの長きに渡って神から欺かれ、裏切られ続けてきたではないか! そんな神を信ずるぐらいならば余を信ぜよ! そして余に全てを委ねるのだ! さすればそなたの夢も希望も願望も、全て余が叶えてやろう! すでに我ら人類は、神などという幻想にすがらずとも、おのれが望むもの全てを思うがままに創り出し、手に入れることができるほどの力を持っているのだからな! そなたが今眼にしているこの楽園こそその証だ!」

 <眼>が燃え上がるようにひときわ大きく強く光り輝く。強烈な真紅の光を浴びせられ、再び悲鳴を上げた少女の全身に強大な<支配>の力が襲いかかった。

「う……くっ……ああ……!」

「これだけ道理を説いてやったというのにまだ抗うか……。よかろう。ならば力ずくでねじ伏せるまでよ!」

 <眼>の放つ真紅の光がさらに強まり、少女が呻きながら地に膝を屈しようとしたその時、突如空を覆っていた黒い雲が割れ、その隙間から淡い金色の光が差し込んできた。

 その光に照らされた瞬間、<眼>が放つ真紅の光が薄らぎ、少女を押さえつけ、地に跪かせようとしていた<支配の力>も同時に弱まった。

 少女が顔を上げると、はるか西の空の彼方に黄金の光が輝き、その中心に白い長衣をまとった一人の男が両腕を大きく広げて立っているのが見えた。

 その光景を目の当たりにした<眼>が驚愕したように大きく見開かれた。

「まさかそんな……! 貴様は二千年前に死んだはずだ! よしんば<復活>などという与太話が事実であったとしても、何故今さら現れた! 二千年もの間、我ら人類を見捨て、見殺しにしてきた貴様が今さら何をしに来た! もはやこの世界に貴様の出る幕などないわ! 早々と消え失せろ!」

 男は怒りの炎に燃える<眼>を哀しみに満ちた視線で見つめていたが、やがて静かに首を横に振った。

「そうではない。地上の王よ。私はひと時たりとも人類を見捨てたことはない。いつの世も、どんな時も、私は悲しむ者、苦しむ者、虐げられし者、病める者、そして死せる者たちの側にい続けたし、これからもい続けるだろう。確かに私はこの二千年間の間、<奇跡>のような眼に見える形で人類に救いの手を差し伸べはしなかった。私がこの世界に介入すれば、おのずからこの世の万物を律している法則や黄金律を乱すことに繋がるし、それに私が人間たちに与えた自由意志を否定することにも繋がりかねないからだ。だが王よ、汝がまことこの世界の全てを支配せんと欲するのであれば、私はあえて自らに課した戒めを破り、汝に立ち向かおう」

 そう言うと、男は地上に立ち尽くしている少女に視線を向けた。

「娘よ、恐れるな。汝のために私は今一度<奇跡>を起こそう。汝がまことに望むものを私が与えよう」

 男の言葉と共に、少女の周囲がたちまち白い霧に包まれた。霧の向こうで何かが動いている。人影のようなものが見える。誰かがこちらに向かって近づいてきている。少女は目を凝らし、次に大きく目を見張った。霧の向こうに垣間見えたもの、それは幼い頃に死んだはずの彼女の父親と母親の姿だった。

 いや、両親だけではない。彼女がまだユダヤ人ゲットーで暮らしていた頃、彼女を育ててくれたお爺さんとお婆さん、それに近所に住んでいた人たちや幼馴染の友達、さらには研究施設で出会った友達まで。

 帝国による過酷なユダヤ人隔離政策や人体実験の犠牲になって死んでいった人たちが皆、霧の向こうから現れて、少女に向かって微笑みかけていた。

「お母さん!」

 少女は思わず叫び声を上げて、母親の元に駆け寄り、その体をきつく固く抱きしめた。彼女の母親もまた両手を広げて彼女を抱き止めた。その柔らかな両腕を通じて、母の身体の温もりが、命の鼓動が彼女の全身に伝わってくる。

 少女が思っていた通り、これは決して夢や幻などではなかった。

 今、彼女の眼の前にあるもの――それはまさしくこの世で唯一、死者の中から復活し、死に打ち克った者だけがなし得る奇跡だった。

――これが私が本当に求めていたもの……。これが私にとっての真の楽園……。私の魂の故郷(ふるさと)……。

 母の腕に抱かれながら、少女は涙に濡れた瞳で天を見上げた。限りない優しさと憐れみを込めて彼女を見つめていた男が無言でうなずくと、黒雲に覆われた空を切り裂いて、光り輝く一本の槍が流星のように飛来して、少女の足元に突き立った。

 少女が驚いて再び天上を見上げると、男は彼女を見つめながら静かに口を開いた。

「娘よ、私が力を貸そう。さあ、その槍を取って、汝の手でこの世界を護るのだ……」

 周囲を見渡すと、少女の父も母も、そして全ての人たちが熱い期待を込めた視線で彼女を見つめていた。

 少女は一瞬ためらうような様子を見せたが、やがて静かに眼を閉じ、そして心の中でつぶやいた。

――わかりました、主よ。私の真の願いを叶えてくださったあなたのため、そして私の願いを叶えてくれた全ての人たちのために、今度は私がみんなの願いを叶えてみせます。

 少女は大きな決意を込めて、槍を握り締めると、大地から引き抜き、その矛先を暗黒の空に燃える太陽のごとく君臨している巨大な赤い<眼>に向けた。

 <眼>にたちまち恐怖と脅えの色が浮かぶ。

「そっ、その槍はまさか<神殺し>の……! 待て! 余はこれでも一応人間だぞ! 生身の人間に向かってそんなものを使うなど反則にも程がある! やめろ! 話せばわかる! そうだ、そなたには世界の半分をくれて……。いや、やっぱり世界征服なんかもう諦めた! 戦争も二度としないし、そのために憲法も改正すると約束しよう! わっ、我ら大日本帝国は恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して――」

――さようなら、お兄様……!

 少女の眼から一粒の涙の滴がこぼれると同時に、その手から槍が放たれた。槍は一直線に空を翔け、<眼>の真ん中に突き刺さった。

「うぎゃあ! 眼が! 眼がぁ! 余の<支配の魔眼>があぁぁぁ!」

 凄まじい断末魔の絶叫が世界に響き渡った。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂け、大地が大きく揺れる。黄金の神殿も、壮麗な城塞都市も、全てが砂の城のようにはかなく崩れ去り、灰燼と化す中、恒星が最後の光芒を放って燃え尽きる時のように、<支配の魔眼>もまた白い閃光と共に大爆発を起こして消え去った。


西暦二千四十二年、皇紀二千七百二年、八月十五日十一時五十八分頃、相模湾沖にある相模トラフのプレート境界において、突如長さ百三十km以上、幅七十km以上にも及ぶ広範囲で断層の崩壊が生じた。

 この大規模な断層のずれによって、マグニチュード八.五、最大震度七に達する巨大地震が発生し、関東地方南部一帯を襲った。

 この地震によって帝都中心部も多数のビルや家屋が倒壊するなど、壊滅的打撃を受けた上、大皇宮までが全壊し、皇帝をはじめ宮殿内にいたほとんどの者たちが、崩落した壁や天井に呑み込まれた。

「うっ……ぐふ……がはっ……」

 突然頭上から襲いかかってきた大量の瓦礫の山に半身を押し潰された皇帝が、呻き声と共に大量の血を吐き出した。

 かろうじて面を上げると、狭まりゆく視界の中、石やコンクリートの破片に混じって、チェスの白いクイーンの駒が一つ、床に転がっているのが見えた。

「おのれ……あと一歩というところで最強の駒を手に入れることができたものを……あんな思わぬ邪魔が入ろうとは……」

 無念の声を絞り出しながらクイーンの駒に伸ばした皇帝の手を誰かが取った。

「そなたは……金城……!? 一体何をしておる……。早く逃げぬとそなたも……。まさかそなた……」

 自らも額から血を流しながら、金城は静かにうなずいた。

「私は皇帝陛下の侍従でございます。である以上、何があろうとも陛下のお側にいるのが私の務めでございます」

「な……」

「それだけではありません。陛下は、高等文官試験に首席で合格しながら、朝鮮人という理由だけで、どの省庁にも採用されず、長年宮中の雑用係のような仕事をさせられていた私を侍従長という重職にまで取り立ててくださいました。ある大臣が人種や血筋を理由に私を更迭するよう上奏した時も、陛下は『確かに金城は朝鮮人ではあるが、他の日本人の侍従たち以上に余に忠勤を尽くしておるし、そのことは宮内省の人事査定を見ても明らかだ。にもかかわらず、ただ朝鮮人であるというだけで更迭するのは理に合わぬ』とおっしゃってその進言を退けてくださいました。その時、私は心の中で固く誓ったのです。たとえこの御方が将来どんな暴君や暗君になろうとも、自分だけは最後までこの御方に忠誠を誓い続けようと……」

「…………」

「恐れながら皇帝陛下、あなたの存在は、人類の歴史が続く限り、大日本帝国の強大な権力や軍事力、さらには人知を超えた超能力まで用いて全世界を支配しようとした、目的のためには手段を選ばぬ冷酷非情な君主として語り継がれることになるやもしれませぬ。しかし私は知っています。あなたにも決して人の情というものがなかったわけではないということを……」

 そう言うと、金城は懐から黄色いハンカチを取り出し、血と埃にまみれた皇帝の顔を優しく拭き始めた。

「そのハンカチは……」

「そうです。あなたに捨てろと命じられたあのハンカチです。でも私にはどうしても捨てられませんでした。何故ならこのハンカチには、この世でただ一人、あなたのために心から泣いてくださった方の涙が染みついているからです。さあ、あなたのたった一人の姉君が残された愛情と優しさ、そして温もりを抱いて一緒に参りましょう。不肖ながら、この金城、地獄の底までお供いたします。たとえ誰が何と言おうとも、あなたは私が全身全霊の忠誠をお捧げするに値する御方でした。偉大なる我が主君……我が皇帝よ(マイン・カイザー)……」

「う……ぐ……」

 嗚咽を噛み殺すような声と共に皇帝の眼から一粒の涙がこぼれ、頬を伝った。だが、その両眼に再び狂気のような妄執の光が宿ると、皇帝は最後の力を振り絞るように絶叫した。

「認めぬ! 愛だの情だの――そんなもの、余は断じて認めんぞぉ! あの牢獄のような『御文庫』の中で十二年もの歳月を過ごしながら、余は自らにそう誓ったのだ! 人の心と引き換えに、必ずやこの世界を――!」

 その時、大きな余震が起き、今まで辛うじて倒壊せずに残っていた宮殿の大屋根が崩れ、瓦礫の豪雨と化して皇帝と金城、二人の真上に降り注いだ。


 少女が目を覚ますと、真っ先に神の顔が見えた。

「ここは……」

「『ユリシーズ』の発令所だ。突然大日本帝国の皇帝が現われたかと思うと、お前を連れてそのまま消え去り、その後、お前だけが戻ってきたんだ。一体何があったんだ……。皇帝はお前に何をした?」

 困惑しきった様子で尋ねる神に少女は答えた。

「皇帝は……死んだわ」

「何だと」

「皇帝はもうこの世にはいない。ずっと私が感じていた<気配>をもう感じないもの。だから安心して。みんなもう戦わなくていいの。私、みんなを守ったんだよ……」

「そうか……。よくやった。よくやってくれた。お前は俺たち全員を守ってくれたんだ。本当にありがとう……」

 神は少女を抱きしめていた腕に力を込めると、背後を振り返って副長の李に命じた。

「李、お前も聞いただろう。俺たちの戦いはもう終わった。クルー全員に退艦命令を出してくれ」

「了解しました。しかし艦長は……」

「俺は<セイレーン>を連れて後から行く。急げ。この艦はもう長くはもたん」

「待って」

 少女が弱々しくつぶやいた。

「私のことはいい。だからジン、あなたもみんなと一緒に逃げて……」

「なっ……馬鹿な! 何を言っているんだ!」

「皇帝との戦いで自分の持っている力を全部使い果たしちゃった……。あなたにはずっと黙っていたけど、私、実は能力(ちから)を使うたびに自分の命が削られていってしまう、そういう体になっているの……。私が無制限に力を使うことを恐れた皇帝の命によって、そういう風に改造されてしまったの……」

「そんな……」

「でもいいの。私、後悔していないから……。あなたと一緒に今までずっと戦ってきて、正直辛いこと、苦しいこと、悲しいことばかりだったけど、でも最後に私、願いを叶えることができたわ。お父さんやお母さんたちが行きたがっていたシオンの丘にはとうとう行くことができなかったけど、でも代わりに自分の楽園を見つけることができたから……。最後にようやく幸せを見つけることができたの……」

「……すまん。俺のせいで……」

 少女を抱きしめながら、いつしか神は哭いていた。

「ねえ、ジン。最後に一つだけお願いがあるの。聞いてくれるかな……」

「何だ、言ってみろ。お前の願いならば何でもしてやる。お前が望むなら俺の命をくれてやってもいいぐらいだ」

「名前を呼んで……。私の名を……。<セイレーン>ではなく、私のお父さんとお母さんが私につけてくれた本当の名前を……」

 神は涙を流しながらうなずくと、少女の名を呼ぶために口を開こうとした。が、次の瞬間、炉心融解した原子炉内に充満していた水素が高熱によって引火、爆発し、『ユリシーズ』の船体を粉微塵に吹き飛ばした。


「第七水雷戦隊からの報告です。大きな爆発音と共に敵潜水艦がソナーより消失。恐らく何らかの事故により爆破、沈没したものと推測されるとのことです」

 近衛からの報告を聞いた後も、薫子は固く唇を結んだまま、無言で敵の位置を示す赤い光点が消えた三次元モニターを見つめ続けた。

「敵艦の沈没を確認するよう命令を出しますか、閣下」

 薫子は長い髪を揺らして、静かに首を横に振った。

「いえ、その必要はないわ……。状況から考えて何かのトリックとは思えないし、それに爆発が皇帝陛下の手によるものならば、確実に沈んだのでしょう。あの陛下が一度狙った獲物を仕留めそこなうことなんてことは万に一つもあり得ないでしょうから……。それより我が艦隊の被害状況の調査と生存者及び負傷者の救出、治療を優先して」

「御意」

 近衛が敬礼してその場を去ろうとした時、一人の士官が血相を変えて駆け寄ってきて、近衛に一枚のメモを渡した。そのメモを見た近衛の表情もたちまち一変した。

「大変です。本日正午頃、関東地方南部一帯で巨大地震が発生、帝都も潰滅的被害を受け、多数の死傷者が出ている模様とのことです」

「何ですって!? 帝都が壊滅って、陛下は――皇帝陛下の御消息は? 御無事であらせられるのか!」

 驚愕の声を上げる薫子に、近衛は沈痛な声で応じた。

「それが……報告によると、地震によって大皇宮も全壊、現在近衛師団と消防隊が懸命の救出活動を行っているそうですが、状況から判断するに、皇帝陛下の御消息はほぼ絶望的とのことです……」

「…………」

 薫子は思わず大きく息を吸い込むと、溢れ出そうになる感情を堪えるように、静かに瞑目し、ぎゅっと固く唇を噛んだ。

 そんな彼女の耳に突然、士官たちの歓喜と歓呼の叫びが飛び込んできた。

「やったあ! あの皇帝が死んだぞ! 万歳!」

「とうとうくたばりやがったか! あの妖怪小僧め!」

「こんな時に喜んじゃいけないんだろうけど、でもそれでも嬉しくてたまらねえ! 一生分の溜飲が下がったような思いだ!」

「待て。まだ喜ぶのはまだ早いぞ。何せまだ確実に死んだという情報は入ってないんだからな」

「誰か近衛師団と消防隊に指示を出せよ! 救出活動なんかしなくていいから、皇帝の死体は皇宮の瓦礫の中にそのまま埋めっ放しにしとけってな!」

「うるさい! 黙れ!」

 突如薫子の大きな叫び声が響き渡り、歓喜の声に沸き返っていた『大和』の艦橋は一瞬にしてしんと静まり返った。

「たとえどんな人間だろうと皇帝陛下は貴官らの君主だぞ! 君主が崩御なされたのがそんなにも嬉しいのか貴様らは! この逆臣ども!」

 士官たちを一喝すると、薫子は肩で大きく息をして、そのまま真紅のマントを翻し、皆に背を向けた。

「閣下……」

 近衛が気遣うように、薫子の細かく震える肩に声をかけた。

「わかってるわよ。あなたたちが皇帝の死を喜ぶ気持ちぐらい。だってあの子は人から憎まれても仕方のないようなことを散々やって来たんだから。でも、よりにもよってこの私の前でそんな露骨に喜ぶことはないじゃない。それに、たとえ人から鬼や悪魔のように思われようと、産まれた時から超能力者に改造されて、おまけに大日本帝国の皇帝とか世界征服とか、そんな大きすぎる役目を背負わされて、それでもあの子はあの子なりに自分に課せられた役目を果たそうと頑張ってきたと思うの。それなのに死んでからまで人から憎まれたり嫌われたり、挙句の果てには皇宮の瓦礫の下に死体を埋めっ放しにしとけとか……。ひどいわ……。あまりにもひどすぎる……」

 近衛は、全身を震わせて号泣する薫子の背中を痛ましそうな視線でじっと見つめていたが、やがて士官たちの方に向き直った。

「司令長官閣下のおっしゃる通りだ。皆、皇帝陛下に対し思うところは数多くあるだろうが、陛下が未だ若年であるにもかかわらず、我々の持つ小さな善悪の尺度では計り知れないほどの野望と覇気に満ちた巨大な存在だったことは紛れもない事実だ。陛下の業績に対する評価は後世の歴史家に委ね、今はただ偉大なる覇者たらんと志した御方の死を悼もうではないか」

 そう言い終えると、近衛は背後を振り返り、薫子に意見を具申した。

「司令長官閣下、『神龍』は轟沈しましたが、それと入れ替わるように帝国本土で大地震が発生し、帝都を含む関東地方一帯に甚大な被害が出ている今、我が艦隊も当海域における作戦活動を終了して、急ぎ本土に帰還し、被災者の救援活動に当たるべきだと思料いたします」

 近衛の言葉に、薫子は泣くのをやめ、気丈な顔を見せた。

「そうね。本土で大震災が起こって、しかも皇帝陛下が消息不明な今、私が頑張らなくっちゃ。これから随分忙しくなりそうね」

「そうです。それに閣下には被災者の救援活動以外にもなさらなければならない大事なことがおありです」

「大事なこと?」

「まことに畏れ多きことながら、もし仮に皇帝陛下が震災によって御隠れになられたことが明らかとなった場合、当然、次の皇位継承者を選定しなければなりません。傍流の宮家の中から次期皇帝に相応しい方をお選びになるか、それとも帝国第一皇女たる貴女が女帝として即位なされるか……」

「私が女帝? まさか……。そもそも皇室典範には皇帝に即位できるのは男子のみって書かれていたはずよ」

「そんなもの、貴族院に諮って改正すればよいだけです。それに、私見を申し上げさせていただくならば、貴女が女帝に即位なさって、そして今のような専制君主制ではなく、憲法や議会制度などを改革して、民主主義に基づく緩やかな立憲君主制を敷く。それが今の帝国にとってベストな選択だと私は思いますけどね」

「ベストな選択って勝手に決めないでよ! 第一私が女帝とか、そんなの向いてるわけないじゃない!」

 薫子の抗議に対し、近衛は真顔で答えた。

「いえ、私はそうは思いません。貴女ならきっと立派な名君になれるはずです」

「名君って……一体何を根拠にそんなことが言えるのよ?」

「根拠ですか。では今からそれをお見せしましょう……。うん、えっへん、参謀総長よりここにいる者たち全員に告ぐ! 皇女殿下が女帝になられれば、きっと名君におなりあそばすに違いないと思う者は遠慮なく挙手せよ!」

「はい」

「はい」

「はい」

「はーい!」

 たちまち艦橋にいたスタッフ全員が手を挙げた。

「ちょっと待ちなさいよ! 名君とかそんなの多数決で決めるようなもんじゃないでしょう! ふざけんな!」

「いえ、多数決で決めるものです」

 またも真顔で近衛が答えた。

「そもそも名君かどうかなどということは、君主自身が決めることではなく臣下や人民が決めるものなのです。それがいわゆる『民主主義』というものですから……」

「みっ、民主主義って……」

 薫子は脱力したように壁にもたれてしばらく呆然としていたが、やがてうーんという唸り声と共に顔を真っ赤にして叫んだ。

「わかったわよ! あんたたちがそこまで言うんだったらなるわよ! 女帝になればいいんでしょう、女帝になれば! その代わり私が即位したら、あんたたちも全員私に協力しなさいよ! わかったわね!」

 近衛をはじめとする全員が一斉に敬礼し、そして声を揃えて唱和した。

「もちろんです! 我が皇帝よ(マイン・カイザー)!」


 西暦二千四十二年、皇紀二千七百二年、八月十五日、大日本帝国第百二十七代皇帝が崩御。帝国第一皇女桜宮薫子内親王が新帝として即位。同日、新帝の布告により、大日本帝国は議会制民主主義を基盤とする立憲君主制に移行することを全世界に宣言すると同時に、世界各地における全ての軍事行動を停止した。

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血海のオデッセイア――遥かなる戦火の彼方へ―― アルベルトゥス・マグヌス @tf1972

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