花見
亜済公
花見
最初に異変に気がついたのは、田島だった。花見が始まって早三時間が経過しようとしていたそのとき、彼はふと呟いたのだ。
「おかしいな。いつまで経っても飯がなくならんぞ」
課長が、田島に目をやった。
「家内が作りすぎてしまったんだ」
「それにしても多すぎやしませんか? 一体、あとどのくらいあるんです?」
課長は、さぁと首を傾げる。重箱に入ったご馳走はあちこちに積まれていて、全てを数えるのは面倒だったのだ。
「いいじゃないか、田島君」
と、酔っ払った専務が言った。
「幾らだって食べられるさ。こんなに美味しいんだからね」
課長は、照れくさそうに頭をかいた。
それから、再び宴会が再開された。同僚の福島が腹踊りを始めて、男衆は大笑いし、紅一点の倉木は一寸恥ずかしそうに他所を向いた。全く、平和そのものであった。
「お次はわたくしの一発芸!」
「イヨ、日本一!」
しばらく馬鹿騒ぎが続いて、田島はふと腕時計を見る。宴会が始まってから、五時間が経過していた。
やはり、ご馳走はなくなっていなかった。それどころか、増えているような気さえした。田島は立ち上がって、重箱を数え始めた。
「一……二……三……」
しかし、全てを数えることはできそうになかった。酔っ払った頭では、どれを数えてどれを数えていないのか、記憶しておくことすら困難だったのだ。
酒の匂いが、じっとりと周囲に漂っている。
専務が、歌を歌い始めた。手を打たなければならず、田島は結局数えるのを諦めた。
出し物がみんな済んでしまうと、やがて、誰もしゃべらなくなった。
その頃には、花見が始まって十時間が過ぎていた。誰もが満腹で、これ以上料理を口にすることは不可能だった。一杯の酒すら、飲むことはできそうになかった。それでも、課長のいる手前、残すわけにはいかなかったのだ。彼等は、必死に食べ続けた。
時々、桜の木の影で胃の中のものをみんな吐いてしまう奴がいた。誰もそれをとがめなかった。宴会は、まだまだ終わりそうにない。
「しっかり食べて、鋭気をやしなってくれ……」
課長は、申し訳なさそうにそう言った。
花見が始まって、一ヶ月が過ぎた。宴会はまだ終わらなかった。桜の花はすっかり落ちていたが、料理は一向に減らなかった。重箱の数は、目に見えて明らかに増加していた。
「頼むよ。……持ち帰ってもわたしでは食べきれない」
課長は涙ながらに懇願した。それを無視して、皆一心に料理を口に運んだ。紅一点の倉木は、体重が増えるのに耐えられないと首を吊った。桜の木の枝に、てるてる坊主のようなものがあった。
半年が過ぎても、料理はなくならなかった。地面は見渡す限り、急速にその数を増した、黒光りする重箱で覆われている。桜の木も、みな重箱の山に取り込まれてしまっていた。蝉が鳴き、蒸し暑い東京の夏が食べ物を腐らせる。そのせいで、辺りには腐臭が漂い、福島と専務は食あたりで倒れていた。
課長は、田島の肩をもみながら泣いていた。
「頼むよ。残したりしたら、妻に怒られてしまう」
いくら食べても、料理は減らなかった。重箱は増え続けて、遠く富士よりも高い重箱の山が、うっすらと見えた。重箱は、増え続けた。田島は食べ続けた。
一年が過ぎて、とうとう課長が倒れた。ストレスが原因で、心臓発作を起こしたのだった。田島が黙々と食べ続ける傍ら、課長は静かに横たわっている。
再び、花見の季節がやってきていた。田島は課長の遺体を押しのけて、重箱の山を崩し始めた。作業は三日三晩に及び、やがて巨大な桜の木が姿を現した。
全く、美しい桜だった。その花の色合いは乙女の頬であり、たくましい幹は男の腕であった。一際大きな枝に、先の丸くなった縄がぶら下がっていて、倉木の骸骨が揺れている。
田島は、それを眺めながら、一年ぶりの酒を飲んだ。それから再び料理を食べ始め、一年ぶりの眠りについた。
良い天気であった。桜の甘い香りが、田島をやわらかく包んでいた。
良い夢を見られそうだ……と、田島はほっと息をついた。
――翌日、田島は再び料理を食べ始めた。
花見 亜済公 @hiro1205
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