『東京ブラック』
1
物を持たないように気をつけながら生活していても、生きるだけで増えてしまうゴミが結構ある。衝動的に買ってしまった缶ビールの空き缶であったり、煙草の吸い殻であったり、コンビニで買った菓子類の袋などがそれに該当する。極力外食で全てを賄おうとしても、どうしてもそれを遂行出来ない日というものが存在するのだ。だからそうしたゴミ類は、極力その日か、その翌日中に捨てるように気をつけている。空き缶であれば、職場までの道中にある自販機に備え付けられたゴミ箱に捨てる。煙草の吸い殻と菓子類の袋は、コンビニ袋に詰め直して捨てる。そうしてそれらは、通勤中に素知らぬ顔で、コンビニのゴミ箱や、駅構内のゴミ箱に捨ててしまえば良い。別に、決まった日に可燃ゴミを出したり、アルミ缶を捨てたりすることが嫌なわけではない。ただ、僕は指定されたごみ袋を持っていないし、少なくとも一週間以上使わずに物を取っておくことが嫌なのだ。だから仕方なく、物を持たないようにしているし、ゴミも持たないようにしている。
それでもどうしても、捨てよう捨てようと思っているのに、気付けば肥大化しているゴミ袋が出来上がる。夏の夜のことだ。なんだか寝付けない夜が続いて、深夜に暑さで目が覚めて、睡眠導入剤的な理由をこじつけて買った缶ビールの空き缶が、気付いたら十本以上シンクに逆さにして置いてあった。煙草の吸い殻と菓子類やつまみの入っていた袋をまとめたゴミ袋も、三つに膨れ上がった。どれも小さいコンビニ袋に詰まっていたから物量的にはそれほどでもなかったが、僕の負債が三つ、丸くなって煙草の吸い殻の嫌な匂いを発しながら床に並べてあるのを見ると、これがなかなか心を痛めつけてくる。お前はゴミも捨てられない人間なのかと、そのちょっと見れば可愛い小型犬が丸まっているように見えなくもない、どことなく愛嬌のあるゴミ袋三つたちが、僕を非難してくるのだ。うち捨てられたロング缶たちも、頭を下にされながらも、必死に僕に抗議してくる。これ以上増えたら、さらに処分が面倒になる。分かってはいるんだ。負債は増えれば増えるほど、返済に苦労する。
いつか捨てなければ。
まるで登校拒否をしていた時と同じ焦燥感が僕を突いてくる。ニートだった頃の僕も、同じような焦燥感を覚えていたはずだ。僕は、その当時から比べれば、いくらかまともな人間になったはずじゃないのか。遅刻したり、休んだりもするが、しかしそれは社会人として許される程度の悪行をこなしているに過ぎない。ルールの中で悪さをしているだけだ。決して後ろ指を差される心配などない。僕はまともな人間になったはずだ。
「じゃあどうして僕たちを捨ててくれないの?」
可愛らしく丸まった、パンパンに詰まったゴミ袋たちが僕にそう問いかけてくるようであった。
「僕たちを捨てないのに、また新しくコンビニで物を買うの? 必要じゃないのに、逃避のために飲食に逃げるの?」
ゴミが喋るわけもないから、僕の思い込みであることは確かだが、この際その声の出所はどうでも良いことだった。問題なのは、それがあまりにクリティカルに僕を揺らしているということだ。正論でしかない囁きは、僕の脳をガンガンに衝き動かしてくる。僕は空き缶も捨てられないような人間なのか? ゴミ袋も処分出来ない人間なのか?
多分普通の大人は、こういうことをきちんとやっているんだろうな、と自分を卑下する僕と、いや、案外みんなそうなのだけれど、世間体を気にして言わないだけなのかもしれない、と自分を擁護する僕がいる。もちろん僕は一人しかいないので、全く正反対の意見が出るはずがない。そして今回の場合、どちらも僕の真意ではない。僕はゴミを捨てなくちゃいけないし、本来であれば深夜に起きているべきでもない。明日の仕事に間に合うようにきちんとたっぷり睡眠を取って、働くべきなのだ。
しかし、深夜に熱に魘されるように目を覚ました後、僕はどうしてか部屋の明かりを付けてしまって、シンクに溜まった空き缶や、床にうち捨てられたゴミ袋のわんちゃんたちに意識を持って行かれてしまったのだ。静かな夜の中に、この一部屋だけが存在していて、浮遊している。そこに汚点として残る空き缶とゴミ袋は、僕を刺激してくる。
一本ならいい。
空き缶が一本だけなら、ちょっと外に出て、アパートのすぐそばにある自販機のゴミ箱に捨てればいい。夜を打ち鳴らすように雑に響くアルミ缶の接触音で、誰かの目を覚ますんじゃないか、誰かに見つかって怒られるんじゃないか、と震えることもあるだろうが、一本だけなら大したことはない。僕が何の空き缶を捨てたのか言い当てられる人なんていないのだから。
だけど十本となると話は別で、これはなかなかに重労働だし、狂ったハイハットが刻むビートのように、がんがらどしゃっかーんと騒音をまき散らすのが目に見えている。誰もこの道を通りませんようにと祈りながら震えてまるで犯罪者みたいな気持ちで空き缶を捨てるのは億劫だ。じゃあ今夜は一本だけにして、明日も一本捨てて、そうすれば十日で終わるじゃないか。とも思うのだけれど、そういう謎のご都合主義の計算は上手く行った例しがないし、そもそもそうやって変な理屈を捏ねて自分を正当化しているから、このように十本の空き缶を抱えることになるのだ。二本くらいならすぐに捨てられるから、とか、今日は二本、明日も二本、とか。そうやって倍々ゲームになって、気付いたら十本目に突入している。
片付けないと。
終わらせないと。
僕が、僕の手で終わらせないと。
助けは来ないんだから。
一人暮らしなんだから、誰かが片付けてくれるわけじゃないんだ。大人なんだから、誰かが助けてくれるわけじゃないんだ。僕は全部、自分でやらなくちゃならない。世話を焼いてくれる人もいないし、説教してくれる人もいない。自分の弱さが招いた結果を、誰かの強さに頼ってはならない。弱い自分が起こした行為は、弱い自分が立ち向かわなければならない。
こんな些細なことでさえ。
明日でいいとか、今日じゃなくていいとか、そうやって言い訳ばかり並べているから、こんな始末になっている。見ろ、こいつらがその並べた言い訳だ。僕は誰に言っているんだか、そんなことを口に出しながら、ゴミ袋犬たちを見つめる。犬種は分からないけど、わたあめめいた犬種の犬たちのように、何重にもなってパンパンに丸まったゴミ袋たちは、可愛く鎮座している。並べられている。僕の手によって、言い訳がましく。
捨てちゃえばすぐに終わるのに。
ちょっとやる気を出して立ち上がれば良いのに。
そういう思い切りで決断するよりも前に、言い訳を考えたり、シミュレーションなんかしているから初動が遅れてしまう。警察官に職務質問されたらどうしよう? とか、酔っ払いに絡まれたらどうしよう? とか、深夜三時の路上のゴミ箱に空き缶を捨てている最中に、近所の虫の居所の悪い親父が現れて説教してきたらどうしよう? とか。
起こるはずもないのに。
何なら僕の人生の中で一度だってそんな経験したことがないのに。
何を参考にして、何に怯えているんだか。
そんな悲劇は起こらないんだから、捨てりゃいいのに。
よしやろう。今すぐやろう。ゴミ袋代わりに三角に折りたたんであるコンビニ袋を広げて、空き缶を全部潰してコンビニ袋に突っ込んでいく。縦に長いロング缶を潰したところで大して意味なんてないのだけれど、それでもなんとか十本分詰め終わる。シンクが綺麗になる。やれば出来る! やる気にさえなれば何とかなるのだ。簡単なことなんだ。だけれどこのあと外に出る気力がどうしても湧かない。でも今日やらないと、きっと明日も負債を抱えることになる。仕事に行って、疲れてしまって、自分を甘やかして酒を飲み、煙草を吸い、気絶するように寝て、負債を残したまま家を出ることになる。負債だらけの人生だ。資産がなくてもいい。利益が出なくてもいい。ただ、負債だけは抱えない人生がいい。
付きが悪いライターで煙草に火を付ける。残り本数は三本だったので、箱の中には二本だけ残る。明日の朝起きて吸うとして、寝る前に吸うとして、綺麗に終わる。終わるけど、どうせ終わるなら、新しい煙草を買いに行けば良いんじゃないか。眠れないから、酒も買えばいいんじゃないか。そういう理由を付けて、自分をコンビニへ誘おうと試みる。今この瞬間から生まれ変わろうと決心しても、結局僕は成し遂げられない。負債を処分しながら、新しい負債を抱え込もうとしている。でもまあ、仕方ない。その辺は妥協するしかない。まるで借りた金を返すために別の闇金から金を借りるような行為だけれど、大丈夫だ。まだ、僕は、そこまで堕ちていない。全部一旦綺麗にしよう。で、一からスタートしよう。飲み終わったら寝る前に空き缶を捨てよう。明日の朝、出社するときにゴミを捨てよう。そうしよう。
煙草を吸い終えたあと、僕は思いきって空き缶の入ったコンビニ袋を抱え、部屋を出ることにした。
誰かと会ったら気まずいな、とか。
そういうことを考えながら外に出るけれど、誰とも出くわすことはない。深夜三時。僕は特別な人間なんかじゃないから、この時間帯に活動している人間はもっと大勢いるはずだ。けれど、存外、誰にも会わずに僕は自販機まで辿り着くことが出来る。自販機が鳴らす稼働音と、電柱から降り注ぐ街灯の光が僕を夜の中で目立たせようとしているみたいで憂鬱になる。
自販機横のゴミ箱は、無法地帯だった。僕は今からここに、家庭ゴミを捨てようとしている。にも関わらず、不思議なものだが、可燃ゴミやコンビニ弁当のゴミを周りに捨てている輩に対し、非常なまでの怒りを覚える。ここは空き缶用のゴミ箱だってーの! と怒りたくなるが、お門違いも甚だしい。でも不愉快だから仕方がない。五十歩百歩だが、分別くらいはきちんとして欲しい。というか、他人の気持ちを考えて欲しい。これを清掃する人の気持ちになって欲しい。僕が捨てるのは空き缶だが、可燃ゴミは捨てちゃダメだろう。清掃員の手間が増えるんだから。迷惑掛けるなよ。僕もかもしんないけど。同じなんだろうけど。
そんな風に自分を棚に上げながら空き缶を十本分静かに捨てて、水気を含んで既にゴミそのものになってしまったコンビニ袋を丸めてポケットに詰める。仄かな罪悪感と、個人的な解放感に包まれながら、部屋に戻る。やりきったはずなのに、清々しい気持ちにはならない。正しい行いではなかったからだ。正攻法ではないから、僕はもやもやしてしまう。スッキリとはしない。でも、負債は取り除いた。楽に呼吸をするために、他人に迷惑を掛けている。でも許して欲しい。そうしなければ苦しいのだ。かと言って、正しく生きることも難しい。
部屋に戻って、大人しく待っている袋犬たちを見つめる。ああ、ベッドに横になったら終わりだ。この勢いで行かなくちゃ。スマートフォンをポケットに入れて、両手に二匹、一匹を小脇に抱える。
さようならだ。
2
新宿通りは果てしなく長いので、途中途中に都会のエアポケットのような場所が点在している。
僕が住んでいるアパートからほど近い通りに面したコンビニは、最近では珍しくゴミ箱が外に設置されている。僕は可燃ゴミは大体ここに捨てている。家庭ゴミの持ち込みはお断りされているにも関わらず、捨てている。というか実際のところ、僕はこのコンビニで酒やらつまみやら煙草やらを買っているので、ここに捨てるのは許されて然るべきだと思うのだけれど、きっと誰もこの意見には賛成しないのだろう。一度家に持ち帰った時点で、家庭ゴミになってしまうのだろう。変な話だ。
このコンビニは、深夜になると日本人店員がいなくなる。朝も大抵レジは外国人だが、それでも日本人の店員が目を光らせている。一方、深夜になると、店内はほぼ無人となる。サボっているのか裏方作業をしているのか、店に入っても店員の姿が見えない。レジに並ぶと、ようやくバックヤードから浅黒い肌の割腹の良い男がやってきて、無言で仕事をしてくれる。僕はそのドライな環境が好きだったし、何よりゴミが捨てやすいので気に入っている。都会の中の荒れ果てた僻地のようなコンビニは、僕の肌に馴染むのだ。
三匹の袋犬たちを連れてコンビニの前に来る。途中、前方と後方を何度も確認し、人目がない状態であることを、自分の頭に叩き込んだ。多分、見られていたところで、誰にも文句は言われない。僕だって、誰かが家庭ゴミをコンビニで捨てていても、文句は言わない。面倒な人間は放置される世の中だ。悪さをしても、救いを求めても、誰からも何の声も掛からない。だったらさっさと捨ててしまえば良いのに、妙なところで自分が可愛くて、悪い人間だと思われたくないのだ。だったら正攻法で生きれば良いのに、それが出来たら苦労しない。
持ち運んでいるうちにゴミ袋がただのゴミの詰まった袋で犬ではないことを理解した僕は、今からまさにコンビニに入ります、僕はコンビニに寄ることがメインなんですよ、と誰にともなく主張するように、ゴミをゴミ箱に詰め込んだ。パンパンになったゴミ袋はなかなか大人しく消えてくれなかったが、押し込むことでなんとか視界から消えた。解放感と仄暗さが同時に押し寄せる。負債は消えたが、人間ポイントが下がっていく気分だった。それでも、負債に塗れた人生よりはいくらかマシだ。
店内に入ると、間の抜けたチャイムだけが響く。夏の夜特有の、急激な温度差を感じた。無駄に明るい店内放送では、知らないアイドルがパーソナリティを務めているらしい、局地的なラジオ番組の公開生放送の宣伝をしていた。安いロング缶の発泡酒を手に取り、レジに並ぶ。と、すぐに浅黒い肌の割腹の良い男がやってくる。
「四十八番」
無言で煙草を手に取りバーコードを読む。支払いは電子マネーで済ませた。レシートは受け取らず、酒と煙草だけが入ったなんとも禁忌的なコンビニ袋を持って外に出る。生温い夜が心地良い。蒸し暑かった世界が一変して、温かみのある世界になっていた。すぐに煙草を吸いたい気分だったがライターを持っていないことに気付いた。しかしたったの十分だ。コンビニ袋を正規的に外付けのゴミ箱に捨て、ついでにフィルムと銀紙を剥がして捨てる。胸ポケットに煙草を入れて、発泡酒を空けた。よく冷えた液体が、ぷしゅっと音を立てて夜に混ざる。すぐに生温く染まってしまうような気がして慌てて口を付けた。なんとなくイメージされる、枝分かれして体中を伸びている血管の一つ一つに、アルコールが流れ込んでいくような感覚だった。五臓六腑に染み渡るというか、血液中にアルコールが入り込んだような気分だ。
負債を全て片付け、後ろめたいながらも達成感に包まれた僕は、煙草を吸うという名目で帰路を辿ることにした。
ちっ。
五秒に一台の感覚で走り抜けていく乗用車とトラック。控えめに盛り上がる集団。識別前に視界から消えていく自転車。歩道から見える景色の全部が、僕を見てはいない。僕の悪さも、僕の良さも、僕が良く見せようとしているだけの悪行も、全部見ていない。
そうした瞬間、たった数秒感だけだが、僕は一体感に包まれる。この世界と僕が接続されるような感覚だ。急に感覚が鋭くなって、連帯感というか、なんだか自分が大きく感じる。器の話ではなくて、物理的に。いや、感覚的にか。この町が僕の味方であるような錯覚をほんの一瞬だけ感じるのだ。
ちっちっ。
信号待ちをするのも、僕が良く見せようとする悪行の一つだ。誰も周りにいなければ、赤信号でも渡るのに、視界に人がいるときだけ、僕は信号待ちをする。世界に僕一人だけだったら、きっと待たない。まあ僕一人だけなら車も走っていないのだから待つ必要もないのだけれども、そういう話ではなく、道徳的な問題として、僕は周りに目がある時にだけ、信号を待つ。新宿通りを横断するための歩道。中央分離帯。
ちっ。
そこに人がいたから、僕は信号を待っていた。
さっきはいなかったはずなのに、今、そこには遠目では女性に見える人間が、座り込んでいた。中央分離帯の盛り上がった部分に腰を下ろして、何やら喋っている。右手が耳元にある。左手は口元に。
ちっちっ。
雑音の正体が、ガス欠のライターが立てる着火音だと分かったところで、信号が青になった。
「怖いよね?」
誰かに対して理解を得ようとする口調だった。
「だからさあ、言ったの。そうやって自分を正当化してると、どんどん自分を甘やかしちゃって、取り返しがつかなくなるよって」
ちっちっ。
器用にも口に煙草を咥えたまま、女性は喋り続けている。僕の嫌いな人種だった。中央分離帯のような場所で座り込むことも、路上喫煙禁止区域である新宿区で煙草を吸おうとすることも、気にせず喋り続けることも。全てが嫌だったが、そういう輩に限って、見た感じだけはしっかりしている。短パンにTシャツに眼鏡の僕と比べれば、少なくとも外見はまともそうだ。金髪のショートカットに、黒い革ジャン。パンツはよく分からないが、パンクファッション的な趣がある。
ちっ。
「だけどさあ、全然聞く耳持たないっていうか、ガキなんだよね結局。他人がせっかく注意してやってるのに、そういうのうざいって思いがち? 今時風潮的に、他人に注意するとかないよねっていう感じなんだろうね。逆ギレされたからさ、置いて来た」
横断歩道を渡りきっても、静かな夜に女の喋り越えは響いている。聞く気がなくても聞こえてくる。
なんだか無性に煙草が吸いたくなってきた。
けど僕はライターを持っていないし、あの女のライターも使い物にならない。
「つーか悪いって分かってんなら注意される前に治せって感じじゃない?」
「こわ」
僕は思わず声に出して呟きながら、アパートまでの緩やかな坂道を下っていく。車通りは一切なくなって、あまりにも静かな住居近辺を歩く。毎日通勤時に通る道だが、朝と夜では趣が違う。見通しが良いように見える場所は、暗闇で埋め尽くされていて怖ろしい。自転車が急に出て来るかもしれない見通しの悪い角は、今は何が潜んでいるのか分からない。一つ目の鬼だったり、毛むくじゃらの生き物だったり、あるいはさっきの女が突然出て来るのかもしれない。
ちっ。
幻聴かと思ったが、もう振り返ることは出来ないスイッチが入っていた。ああ、もうダメだ。一瞬、ちょっとだけ怖い方向に思考を向けたせいで、もう背後がなくなっていた。
まっくろ。
後ろを振り返ればすぐに解決する問題にも関わらず、僕はもう振り返る勇気を失っていた。急に来るのだ。自分が描いた思考なのに、どういうわけか急にホラーっぽい感覚が芽生えてしまって怖くなる。自然と足早になって、アパートを目指していた。酒を飲めば感覚が鈍って大丈夫になるんじゃないかという期待があり、尚且つ冷静な人間であり、恐怖に負けそうになどなっていないのだ、という態度を、誰もいないのに、誰かに見せようと、なるべくいつも通りの動き方を心がける。
そういや神社が近い。
鳥居がある。
足音は一つ分しかない。
ぴったり同じ速度で後ろから誰かが付いてきていたらどうしよう。
歩調を変える勇気もない。
歩調を変えて、万が一足音がズレたら、僕は終わってしまうし、後ろにいるだだれかにも気付かれる。気付かれないようにしていれば多分悪さはしないはずだ。僕が気付いたということが相手に気付かれなければ大丈夫なのだ。後ろはもう見られないし、視界も移せない。真っ直ぐ前だけ見てるしかない。酒を飲むが、全く酔えない。
むしろ誰かが反対側から歩いて来てくれれば良いのにと思う。その人の視線で、僕の後ろに誰もいないことが分かるのに。でも前からは誰も来ない。引き返すことも出来ない。でも多分、アパートに帰れば背後にある気配は消滅ちっちっちっちっ。
ちっ。
勘弁しろよと唱えながら歩いているが、それはライター着火音ではなくて、どっかの家のベランダにぶら下がっている何か紐状のものが風に煽られて柵に当たっているらしい音だった。でもそういう感じだろうと思っただけで、正体を見たわけではない。音のする方にあるちょっと高級そうなマンションのベランダにさっきのパンクファッションがいたら終わりだからだ。そこから僕を見下ろして、スマートフォンを耳に当てて、ライターをちっちっしていたらどうすることも出来ない。
具体的にどう終わるかは知らない。
ただ、多分もう終わるんだろうなと思っている。
でも、ちょっと冷静に立ち返って考えてみると、死んだところでさほど後悔もない気がする。クソを煮染めたような人生から抜け出してまともな生活を送ってみてはいるけれども、まともとは言いがたい人生かもしれないけれども、それでもまあ普通に働いて、たまに夜遅くにコンビニまで徘徊しているだけの人生が、尊いかというと微妙だし、掛け替えがないかと言えばそんなことはないし。
死んでも別にいいやと、少し気楽に思う。
そう思うと、足音はひとり分しか聞こえないし、背後にあった気気配もなくなっていく。丁字路を左にずれるとすぐにアパートがある。右側には多分何もない。深夜三時以降は、僕が通らなかった道には何もないことになっている。闇があって、魑魅魍魎たちが、生身の人間が通りかかるのを待っているような感じがするから怖いのだ。嬉しそうな顔で電柱から飛び出してきて、ものすごい力で僕の腕を掴んで、殴ったり蹴ったりとかそういう儀式を済ませることもせずに、力任せに引き寄せて、腕の先を完全に噛み千切りそうな気がして怖いのだ。
階段を上がる足音がうるさくて、でも普段通りの歩き方じゃないとパンクファッションに気付かれそうな気がして、半日前と同じ感じで歩く。造りはボロいくせに鍵だけは何故かナンバーロックになっているアパート。ボタンを押す度に鳴る無機質な電子音であれに気付かれちゃうんじゃないかと思って怖くなる。ドアを空ける。煙草の匂いと生活臭。体を入れる。靴を脱ぐ前にドアを閉める。鍵も閉める。誰も追ってこないし、部屋にも誰もいないし、ドアをノックする音もない。
「こわ」
僕はまた声に出して言って、靴を脱いで、飲みかけの発泡酒を持ったままベッドに寝転がった。安心感が半端ではない。天井に染みはないし、ベッドの下に殺人鬼は潜んでいないという確かな実感があった。何故か僕の生活圏内は安全だという、途方もない自信だけがあった。ここにいる限りは安全である。どうしてかは分からないけれど、多分、怖さを持ち込んでいないからだろう。
体を起こして、残り二本のうちの一本を咥える。手探りでライターを探して、とりあえず落ち着こうと思った。煙草の煙は霊を遠ざけるという話を聞いたことがある。真相は知らないし多分そんな効力はないんだろうけれど、きっと昔、お化けが妖怪とか物の怪とか言われていた時代の名残なんじゃないだろうか。ちっちっちっ。
ライターを振る。
ちっ。
火花だけが散る。
ビックのライターは中が見えないので、オイルが切れたかどうかが分からない。ちっちっ。何度か試してみるけれど、火が付く様子はない。どうやらさっき吸ったのが最後の灯火だったらしい。かと言って、ライターの予備はない。でももう買いに行くのは無理だ。ドアを明けた瞬間に、多分妄想の中にある恐怖に取り憑かれてしまう。頭ごとばくんと食われるのがオチだ。
仕方なく、というか割と頻繁にやることだけれど、ガスコンロで火を付けることにした。ちっちっちっちっ。火力が段違いなので、煙草の先端だけではなく、高範囲が黒く焦げる。それでも火は付いたし、煙草は吸える。
肺に煙が流れ込む。
熱気を逃がす目的と、空気を循環させるために、窓を開けた。部屋の中よりは涼しい風が入り込んでくる。煙草を吸うと、アルコールの回りが少し良くなる。この勢いで眠れそうだ。電気は付けたままだったが、どうでもいいことだ。スマートフォンに通知は一件もない。アラームだけセットして、充電器に繋ぎ、テーブルの上に置いた。
負債の片付いた室内には、新しくこれから空き缶になる、まだ中身の入った発泡酒のロング缶と、未来ある二十本入りのラッキーストライク。そして終わって行く一本入りのラッキーストライク。終わったビックのライター。復活するスマートフォン。眼鏡を外して、部屋の電気がついたままで、煙草を吸いながらで、目を閉じた。まだ寝ない。少なくとも煙草を吸い終えて、酒を飲み干すまでは寝ない。でも、目を閉じていると、すごく落ち着くんだ。
窓の外から、話し声が聞こえてくる。ふいに、日常に戻った気配がした。深夜の道を、誰かと通話しながら歩く人間が、最近多い。イヤホン型のマイク越しに喋っている連中が多いから、最初は危ないヤツなのかと思っていたが、案外慣れると普通になる。むしろ、本当に危ないヤツだとしても、マイク越しに誰かと話しているだけなのかもしれない、と思えるから、昔ほど他人に怯えなくて済むようになった。一人で歩きながらポケットに手を突っ込んで喋ってる輩も、きっと誰かと繋がっているのだろうと思い込めば、怖くなくなる。
遠くの話し声がだんだん近づいて来て、僕の暮らすアパートの前にちっ差し掛かってくる。甲高いというほどでもないが無音というわけでもない、恐らくゴム底のブーツが立てる足足音が多分さっき僕が曲がった丁字路を左に折れた。
「怖いよね?」
あ、窓を閉めたら終わるな、と思う。
「だからさあ、言ったの。そうやって自分を正当化してると、どんどん自分を甘やかしちゃって、取り返しがつかなくなるよって」
明かりはついていて、煙草は続いていて、僕がここにいることは分かりきっていることだ。だから息を潜めるようなことはしなかった。なんでもないんだと思うことにした。何も考えてはならない。
「だけどさあ、全然聞く耳持たないっていうか、ガキなんだよね結局。他人がせっかく注意してやってるのに、そういうのうざいって思いがち? 今時風潮的に、他人に注意するとかないよねっていう感じなんだろうね。逆ギレされたからさ、置いて来た」
ちっ。
多分ライターの音だ。
多分、パンクファッションだ。
バケモノではないと思う。
「つーか悪いって分かってんなら注意される前に治せって感じじゃない?」
リズミカルな、初期登録の着信音が鳴る。深夜に不似合いな、特徴的な着信音。iPhoneユーザの大半はこの着信音に設定しているはずだ。現実感が戻って来るが、その着信音は、僕のものではない。
「もしもしー?」
パンクファッションの声がする。
ちっ、ちっ。
「あーうん、今帰ってるとこ」
ぼっ。
カッ、カッ。
ふーっ。
カッ、カッ。
「でも割と歩けるくない?」
吸い終わりそうになった煙草を手に持って、最後の一本を口に咥え、火種を移す。灰皿に吸い殻を押しつけて、深く息を吐く。
「あーうん、吸ってる。でも夜中だし大丈夫でしょ」
遠ざかっていっているはずの声は、しかし夜の静寂に響き渡り、未だに僕の鼓膜を揺らしていく。
「平気平気。見られてても誰も注意してこないし」
急いで発泡酒を空けて、テーブルの上に置き、もう寝なきゃいけないと思い立って、窓に手を掛ける。
「まあでも、見られてはいるよね。注意しないだけで、何も言わないけど。全部見てるから」
窓を閉める。
「全部見てたからね」
それは多分、僕の幻聴だ。
短編小説置き場 福岡辰弥 @oieueo
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