『遮断機とスイートポテト』
駅の改札を抜けて、女の子の一人が「さき、バイバイ」と言ったと思ったら、多分名前を呼ばれたであろうさきちゃんは、構内にあるスタバの前でスマートフォンを見ている女の子を見つけて、奇声を上げながら嬉しそうに小走りになった。その光景を見て、瞬時に関係性を把握したのは、僕に特別な才能があるとか、人間観察能力に長けているとかそういうのではなく、寂しさを一番に感じ取ったに過ぎなかった。
さきちゃんにさようならを言った女の子を仮にAとして、スマートフォンを見ている女の子をCとした時。Aちゃんは、さきちゃんにさようならを言って、そしてさきちゃんにもさようならを言って欲しかったんだろう。でも、さきちゃんはCちゃんを見つけてしまって、嬉しくなって、何も分からなくなって、駆け寄ろうとした。待ち合わせでもしていたのかな。僕は、丁度二人の女の子の後ろにいた。改札の順番がそうだったのだ。歩きながら聞いていた会話だから、表情も、間も、あんまり分からない。でも、その一瞬の出来事が、鮮明に、そして明確に頭の中に流れ込んできた。
僕の進行方向にあるスタバの近くの柱に寄りかかっていたCちゃんは、さきちゃんの悲鳴に似た声でふっと顔を上げた。さきちゃんはそのままいけば、きっとCちゃんに抱きついただろう。そのくらいの奇声と、動物的な行動だった。
でも、僕が追い越したAちゃんは、もう一度、少し語調を強めて、「さき、バイバイ」と、同じ言葉を繰り返した。その瞬間、野生児みたいな動きだったさきちゃんはぴったりと止まって、「うん、ばいばい。またね」「また明日」「またねー!」と言って、すぐにはCちゃんに近付かなかった。僕はそれ以降のことを知らない。その時にはもうエスカレーターに乗っていて、彼女たちを最後まで観察出来なかった。でも、きっと、AちゃんもCちゃんも、さきちゃんと仲が良いんだろうと思った。そしてさきちゃんは、それを分かっていない。さきちゃんはこれからCちゃんと遊ぶのだろうけれど、今まではAちゃんと遊んでいたのかもしれない。さきちゃんは罪な女の子だ、と、エスカレーターを降りきって、そんなことを思った。
ほんの一瞬の出来事さえ、なんだか大切なことのように思える。日常が、過ぎて行く景色にはならずに、心に溜まって行く。こんなくだらない情景を貯め込んでいったら、本当に大切なことを保存するスペースがなくなるんじゃないかって、いつも不安になる。さきちゃんなんて名前を覚える必要なんてないだろうし、彼女たちの会話を覚えて、関係性に想像を飛ばす必要だってなかったはずだ。けれどこれは自動的で、僕にはどうすることも出来ない。ホラー映画を見て恐怖するように、芸人のコントを見て笑ってしまうように、自制出来ない。僕だって出来ることなら、消し去りたい。
わざわざ一駅分電車に乗って駅前まで出て来たのは、会わなければならない人がいるからだった。成人したてくらいの頃にしていたバイトでお世話になった人に呼ばれて、酒を飲みに行く予定だった。バイトをしていた頃、というとまるで僕が夢を叶えた成功者のように聞こえるかもしれないが、全くそんなことはない。ただ、多忙な毎日や、意味もなく過ぎて行く平常に疲れて、生存レースから逸脱しただけの、箸にも棒にもかからぬ存在が、僕だ。
まあ、そうは言っても明日食う飯に困るほど貧困しているわけでもなく、かといって裕福なわけでもなく、たまに日雇いのバイトをしながら普通に暮らしている。ちゃんとバイトをしていた頃の方が金銭的には余裕があったが、今は時間的な余裕がある。将来どうするのか、このままだらだらと過ごして良いのか、というような不安もないでもないが、とは言え三十歳、焦るにはまだまだ早い、というような不思議な力も湧いてくる。湧いちゃだめだろ、と思うが、これも自制出来ない現象のひとつだ。
エスカレーターを降りると駅前のロータリーに出た。背後以外、どこを向いても飲み屋だらけだ。スーツを着たサラリーマン、学校帰りの学生、何をしたいのか分からない若者、気にせず歌うストリートミュージシャン、行き場のない老人。その中に僕もいて、僕もさながら、何をしたいのか分からない若者の一人だ。あるいは、僕自身に何もないから、他人を見ても、何をしたいのか分からないように思うのかもしれない。自分の常識を勝手に他人の常識に置き換える。悪い癖だ。あるいは僕はもう、若者じゃないのかもしれない。
待ち合わせ時間までは十分ほどだった。駅前のコンビニで落ち合おう、と言われていたけれど、僕が日常的にこの駅を利用していた頃から比べて、コンビニは一件増えていた。いつの間にセブンイレブンが参入したのだろう。横断歩道を渡ってすぐの場所にファミリーマート、反対側にローソン、そしてロータリーから地続きの場所にセブンイレブン。激戦区だった。どうせ飲み会だし、ウコンでも入れるかとばかりに、僕は一番近いセブンイレブンに向かった。駅前のコンビニの定義は、多分駅から一番近い距離にあるコンビニを指す。あの人はそういう感覚で生きているし、その感覚が近いからこそ、僕はあの人を恩人として捉えていた。
あまり無駄遣いをしない主義である僕は、たまに日雇いのバイトをして稼いだ金をすぐには使わず、数週間保たせる癖がある。これは、金に困るからとかではなく、使い道が思いつかないからだった。正確に言えば、店で缶ビールを手に取った時、今日ここで、あの労働を無為にするほどの浪費をすることが、果たして正しいのかどうかという疑問にぶち当たって、正解が分からなくなって、結局何も買わないということが多いのだ。だけど、人に誘われるとホイホイついていく癖があった。悪癖だ。性癖かもしれない。僕は根本的に寂しくて、すごく誰かに会いたいのかもしれない。誰かに会って、笑っていれば、それ以上何も考えずに済むからだ。
意識の外側で、ウコンを買う予定だったのに、手にはヘパリーゼを持っていた。そして既に僕はレジに並んでいる。本能的な行動が行われたようだった。今日はもしかしたら金曜日かもしれない、と、その時初めて曜日に対して意識を向けた。ウコンを買うサラリーマンが多かった。あるいは水曜日だろうか。飲み会の定番であることは確かだ。プレミアムフライデーってことはなさそうだけど、まあどうでもいい。会計の順番が回ってきて、揚げ物を勧められたけれど、何も返事をせずにヘパリーゼの代金だけを払った。最近のコンビニは——最近っていつから?——ゴミ箱が店内にあるから、僕はヘパリーゼをそのまま店内で飲み干して、空き瓶をゴミ箱に捨てた。ポイ捨てしたわけでもないし、金も払っているし、家庭ごみの持ち込みが禁止されているゴミ箱に店で買った商品のゴミ部分を捨てたのだから、何も問題はない。そのはずなのに、なんだかとても悪いことをしているような気持ちになった。多分、モラルの問題だ。どうせなら、ウコンやヘパリーゼを飲む専用の場所を設けて欲しい。それなら僕も、気持ち良く利用出来るのに。こんなこと、考えずに済むのに。
コンビニを出て、コンビニの前でスマートフォンからSNSを眺めた。ツイッターとか、インスタグラムとか、フェイスブックとか、タンブラーとか。僕は別に、どれの更新も熱心じゃない。アカウントを持っているだけで、唯一ツイッターが毎日自主的に呟くサービスだけれど、それだって一日に数回程度で、ヘビーユーザとは言いがたい。でも、いいねしたりリツイートしたりする頻度は、他に比べて多い。絵描きの知り合いが多いので、彼らの作品が多くの人の目にとまればいいと願ってリツイートすることもある。僕の個人的な趣味趣向は関係なく、力になりたいという気持ちだけだった。それってもしかしたら、とても失礼な行為かもしれない。私は好きじゃないけれど、人気者になって欲しいから宣伝します。いや、何もしないよりはマシか。僕だって、読まれもしない小説をリツイートしてくれる人の方が、読んで何のリアクションもしないヤツらより、よっぽどありがたい。こんな風に考えるってことは、多分、今の僕は結構余裕がないみたいだ。早く酒を飲みたいし、煙草が吸いたい。
気付いたのは、コンビニの前に灰皿がないことだった。横断歩道を渡った先にあるファミリーマートには、無骨な灰皿が置いてある。ただ、そこまで行くのも億劫だし、多分居酒屋は煙草が吸える。僕は時間を確認した。待ち合わせまで五分を切っていた。止めどない思想や空想は、時に現実時間を早めることがある。
恩人がやってくるなら僕が降りてきたエスカレーターだろう、と思い、駅の昇降口に視線を定めた。これは人間観察の一環なんだろうか。僕自身、別に自発的にやっていることではない。ただ暇な時、インターネットよりももっと深くて、誰にも共有されない、僕だけの現象としての現実を見ることが好きだった。インターネットに飲み込まれて育って来た僕ら世代特有の感覚かもしれない。スマートフォンを凝視しながら歩くスーツ姿の女性や、網に入ったサッカーボールを蹴る子どもたちと、その集団。駅に隣接する立ち飲み屋で笑い声を上げる、チャラそうな連中。バスを待つサラリーマン。それら全てが、別に特別じゃなくて、かといって唾棄すべき存在でもない。愛すべくもなく、ただそこにいる。僕の世界を象っているようにも見えるし、僕自身、彼らの世界を間借りしている一NPCに過ぎないのかもしれないと、不思議な感覚に陥る。
世界って何?
誰かって誰?
「伏木君! おつかれーっ!」
「あ、神宮さん、お疲れ様です」
スーツ姿の神宮さんが、笑顔で手を振りながら近づいて来る。エスカレーター付近を見ていたはずなのに、いつの間にか僕は記憶を飛ばしていた。記憶というか、視界というか。そもそも意識か。最後に見たのは誰だったっけ。何も思い出せない。感覚だけが鋭く遠くに運ばれていて、僕はここにいるのに、何の記憶もない。さきちゃんのことは、今もまだ覚えているのに。
「いやー久しぶり。悪いね、急に」
「いえ、全然いいですよ。神宮さんのお誘いとあらば、僕はどこにでも馳せ参じます」
「とりあえずどっか行こうか。あれっ、伏木君はまだ煙草吸ってる?」
「恥ずかしながら」
「じゃあ吸えるところがいいよな!」
十年前の僕がアルバイトとして働いていたのは、スポーツ用品店だった。サマースポーツからウインタースポーツまで、さらにちょっとしたアパレルまで取りそろえている大型店舗で、社員が十名ほど、あとはアルバイトが三十数名いる、結構な大所帯だった。僕は人と関わるのがそれほど得意ではなかったし、出来上がった関係性に溶け込むほど器用でもなかったから、オープニングスタッフを募集している店舗にアルバイトの応募を出して、そのままアルバイトとして入社した。他県ではそれなりに展開しているチェーン店だったが、地元には初参入という時期だった。神宮さんは他県で元々アルバイトをしていたが、新店舗が地元でオープンするという話を聞いて、自ら異動願いを出して、松木市に戻って来たという経緯がある。そして僕と出会った。いや、僕が神宮さんに出会ったんだろうか。
「なんか食べたいものある?」
「なんでも……っていうのはこういう場合失礼なんですかね」
「いやいやそんなことないでしょ。え? なんでもいいの?」
「お任せします。なければ一応、奥の手は用意してますけど」
「出してよーその奥の手。出さないと自動的に焼き鳥になるよ?」
「いいっすね、焼き鳥。煙草が吸えれば尚いいっす」
「じゃあとりあえず覗いてみるか」
当時神宮さんは二十八歳で、優れたスタッフだった。大学生の頃からアルバイトを続けて、そのまま就職せずに働き続け、行く行くは社員になれるという逸材だったと伝え聞いている。僕はと言えば、小説家になりたいという夢を抱いたまま、高校を出て就職も進学もせずにふらふらとしていた。大気中を漂う塵のような存在だった。
神宮さんに連れられるまま、僕は横断歩道を渡り、ファミリーマートを通り過ぎ、飲み屋街へと誘われた。スーツ姿の中年や、触れれば殴り返されそうな若者をすり抜けて、一軒の居酒屋の暖簾をくぐった。焼き鳥屋『とりごころ』と言う名の店は、カウンター席しかない店だった。運良く、二人分の席が空いていて、僕たちは店の隅の席に通された。
「いやー、疲れた」
「お疲れ様です」
「花金だよ花金。本当にさー、サラリーマンって、疲れるよ。うん」
神宮さんはおしぼりで豪快に顔を拭って、楽しそうに言った。疲れるとは言いながら、結構有意義な人生を過ごしていることが伺えた。僕も社会人になっていたら、こんな風に、自然に笑えたんだろうか。
「とりあえずビールでいい?」
「あ、僕はもうビールで全然。むしろビールって感じですね」
「あとなんか……ああ、とりあえず串の盛り合わせでいいか。すいませーん!」
神宮さんが全ての注文をしている間、僕はスマートフォンをしまうポケットの位置とか、椅子の座り心地とか、今日はどういうキャラクターで接するかとか、そんなことばかり考えていた。もっと、酒を飲むことに集中出来れば良いのに。久しぶりに会った神宮さんに集中出来れば良いのに。僕はそのどれか一つすら達成出来ずに、貼ってあるポスターや、並んでいる酒瓶の銘柄なんかに意識を食われていく。さきちゃんとCちゃんは、どこに行ったんだろう。Aちゃんは、さきちゃんにラインしたんだろうか。
「あー。休みだ」
「お疲れ様です。ていうかすみません、注文とか全部させちゃって」
「いいのいいの。もう上下関係とかないから」
「どう考えても神宮さんは僕の上司ですよ」
「当時はバイトだもん、関係ないって」
神宮さんは当時、僕の教育担当だった。僕のというか、僕たちの、か。二十歳前後、高校生もいたと思うが、同じコーナーを担当する、五人くらいのオープニングスタッフをまとめていたのは、神宮さんだった。社員でもないのに、神宮さんは僕たちを優しく、時に厳しく教育して、店がオープンするまでに、一流のスタッフに育て上げた。僕が担当していたのは、主にスポーツシューズを販売するコーナーだった。スポーツシューズと言っても、バスケットシューズやバレーシューズ、スパイクなんかではない。ナイキやアディダスやニューバランスが出している、カジュアル向けの靴だった。平日は暇だが、土日なんかは結構客が入る場所だ。というか、スポーツ用品店に来て用がある場所なんか、たかが知れている。スポーツプレイヤーは毎週道具を変えたりしないし、ウェアを買ったりしない。でも、これという目当てのない客は、新入荷の靴があれば、とりあえず見る。本屋で雑誌コーナーを見るのと、それは似ていた。更新がめまぐるしくて、服よりも目立つ。そう言えば昔、偉そうなおじさんが接客中の僕に対して、人間は足下を見れば分かる、というようなことを説教していたことを急に思い出した。そう、当時は鬱陶しさしか感じなかったが、実はあのおじさんの言っていたことは、正しかったんじゃないだろうか。どうしてこんなことを、こんな場所で急に思い出すんだろう。どうしてこんなことを忘れられないんだろう。さきちゃんと同じように、あのおじさんのことを、僕は一生忘れられないんだろうか。
威勢のいい定員の声と共に、生ビールが運ばれてくる。流石にまずいと思って、何を? 僕は身を乗り出してビールジョッキを受け取り、神宮さんに手渡した。
「じゃあ、お疲れ様です」
「お疲れ様。乾杯!」
「乾杯です」
鈍くぶつかるジョッキの音は、爽快感を露わにはしなかったけれど、日常との境界線を引いてくれた。美味そうにビールを煽る神宮さんは、紛れもなく社会人で、紛れもなくサラリーマンで、紛う事なき、大人だった。僕がなりたくなかった、なりたくてもなれなかった大人だった。僕は意識の外側でジョッキを傾けていて、味わうこともなく、ビールを飲んでいた。
「あー! 美味い!」
「豪快っすね」
「大人になるとさ、ビールの美味さが分かるよな。実際、バイトの時は、酒あんまり好きじゃなかったんだよな、俺」
「僕もそうっすね」
「煙草吸わないの?」
「あ、いいですか?」
「遠慮してんの? いいよいいよ。吸っちゃいなって」
胸ポケットから煙草を取り出して、火を付けた。本当の意味での極楽だった。実際、神宮さんと飲みに来ると、僕がいくら言っても金を受け取ってくれない。ありがたいし、そう思う僕とは別の僕は、それを勘定に入れて行動している。つまりは今日はタダ酒だった。タダで酒が飲める。神宮さんは良い人だ。金払いが良い。これ以上の喜びはなかった。唯一惜しむらくは、神宮さんは小説に対して一切共感を示さないところだけれど、たまにはこういう関係があってもいいと、そう感じることもある。
「煙草、懐かしいわ」
「昔は吸ってましたもんね、神宮さん」
「同じ銘柄のね」
「そりゃそうですよ。神宮さんの影響ですから、マルボロは」
「えっ、そうだったっけ?」
「前にも言いましたよ。前に飲んだの二年前でしたっけ? その時。だいぶ酔ってた時ですけど」
「いやー、覚えてないわ」
「そもそも僕、神宮さんにもらった煙草が初の煙草でしたから。あれ吸って、そのままなんとなく。神宮さん、よくやめましたよね。禁煙とかしたんすか?」
「したした。奥さんと付き合い始めの頃だったかなあ。なんとなくやめて、なんとなく吸わなくなって、平気になったよ」
「僕も早くそうなりたいです」
「まあいいんじゃない、まだ若いし」
若くない。もう三十歳だった。社会人ならまだしも、フリーターならまだしも、作家ならまだしも、僕は何でもない。何でもないのに、ただ生きていて、若者を気取っている。もう、どうしようもないのに。どうにかなっちゃってる。冷静に考えてみろよ。定職にも就いてない、自分の夢さえ確かじゃない、なんとなく暮らしていて、なんとかなるって思いながら、莫大な不安を抱えてる。なんともならないよ。誰かが養ってくれるわけでもないし、周りにいる低レベルな人間とばかり話を合わせてるから気持ちが良いだけで、普通はおかしい場所にいる。どう考えても、もう長続きしない。
普通って何だっけ?
串の盛り合わせが運ばれて来て、神宮さんはすぐに一本手に取った。食いしん坊なわけじゃなく、目上だから、僕に気を遣ってくれたんだ。神宮さんはそういう人だった。気が回るし、人が良い。優しくて、厳しい。尊敬に値する。多分、神宮さんみたいな人が上司だったら、それが確約された未来があったら、僕は夢を諦めて、社会人になったかもしれない。なれたかもしれない。なろうと思えたかもしれない。そういう可能性を受け入れたかもしれない。
「いやあ、悪いことしてんなあ」
「妻子持ちが金曜の夜に居酒屋ですもんね」
「本当、その通り。俺は自由なんだ、今日からさ」
今日から?
「最高じゃないですか。僕はそれに輪を掛けて自由ですから、今夜はとことん付き合いますよ。最悪、二十四時間営業のファミレスで朝まで飲み明かしましょう。デキャンタのワインがありますから、安いし酔えますよ。悪い酒ですから、あれは」
「いいねえ、そうしようかなあ。いや、マジでそうするか? 今日、遅くなるって言ってあるしなあ。ていうか、伏木君に会うってちゃんと言ってきたから、多分大丈夫」
「あ、名前出したんすか?」
「あれ、まずかった?」
「いや、全然、全然。まずくないんですけど、逆によく許しが出たなと思って、僕の名前で。僕、だいぶ評判悪かったと思いますけど、あの店で」
「そうかあ? 奥さん、伏木君によろしくって言ってたぞ?」
神宮さんの奥さんは、僕と同じく、スポーツショップのオープニングスタッフとして働いていた、当時高校生の女性だった。二十八歳の神宮さんと、十七歳の女子高生。歳の差はかなりあった。もちろん、その年齢の状態で交際関係にあったわけではないけれど、お互い意識はしていたんだろうか。僕の名前が出るってことは、きっと、そういうことなんだろうか。
神宮さんから聞いている史実では、神宮さんと奥さんである千冬さんと真剣に付き合い始めたのは、千冬さんが十九歳の頃だと聞いている。高校二年生の時にオープニングスタッフとして働き始めた千冬さんは、大学受験を終えたあとも、地元大学に進学したということもあって、その店で働き続けていた。今にして思えば、結構居心地の良い店だった。当然、神宮さんも働き続けていた。当時、神宮さんは二十九歳。ギリギリ、僕もその場にいた。二十二歳だった。他のオープニングスタッフも何人か残っていたけれど、別のコーナーの担当になっていたから、シューズコーナーでは、顔見知りはその二人しかいなかった。
僕は当時はあまり酒を飲まなかった。煙草も多分、まだ吸っていなかった気がする。いや、そもそも、最初に煙草を吸ったのは、丁度その頃だったと記憶している。神宮さんは多分、今日の口ぶりからして覚えていないんだろうが、「禁煙しようと思ってるんだけど、この箱もらってくれないか?」と、休憩時間に神宮さんから言われて、十本くらい残っているマルボロのソフトとライターを渡されて、喫煙所で吸ったのが始まりだった。ということはその頃既に、千冬さんと付き合っていたか、付き合いを考えている時期だったんだろう。程なくして、というか、僕が自分の人生に平穏を感じ始めた頃、このままアルバイトを続けていても暮らして行けて、人間としての活動を全う出来てしまって、きっとずるずると生き続けて、作家になれずに死んで行くんだろうなと思い、アルバイトを辞めることになった頃——その送別会の場で、神宮さんから、千冬さんと付き合っていることを告げられたのだった。
その後の経過はあまりよく知らないけれど、アルバイトを辞めて、家賃二万五千円のアパートで相変わらずぼんやり暮らしている僕の元に、突然神宮さんから結婚の連絡が入った。当時の僕は二十三歳も半ばという頃だったと記憶している。小説賞に応募していた時期で、出版社からの連絡だと信じて取った電話が神宮さんからの連絡だったのだ。神宮さんは嬉しそうに結婚の報告と、式を挙げるから是非僕に来て欲しいということを話していた。その連絡を聞きながら、礼服はどうしようとか、ご祝儀はいくら包むんだろうとか、結局落選したのかな、受賞者には紙面での発表の前に連絡が行くと言うし、紙面の発表は明日だし、僕は結局落ちたのかな、とか、色々と考えていた気がする。そんなこともまだ記憶している。残り少ない脳の容量が、まだ消えない。消したくても、消し方が分からない。
神宮さんはいつの間にかアルバイトを辞めていて、スポーツショップの店員も辞めていた。地元の贈答品管理会社に就職していて、千冬さんもアルバイトを辞めていた。計算してみると、当時、千冬さんは二十歳くらいだっただろう。大学生なら二年か三年だから、中途半端だ。もしかしたら学じゃなくて、短大だったんだろうか。別にどっちでもいいから、わざわざ尋ねたことはない。数年後、また神宮さんから連絡が来て、子どもが生まれたから是非見てくれと言われて、会いに行った。僕は子どもの扱いに長けていなかったから、なんとなく抱かせてもらって、なんとなく道化を演じて、なんとなく帰っただけだ。千冬さんに会ったのもそれが最後だったと思う。あの店で初めて出会った、若々しくて、なんにでもなれそうだった少女は、いつの間にか女で、妻で、母で、どうにもならない存在になっていたことを、よく覚えている。
「そういえば千冬さん、元気にしてますか」
「ああ、元気だぞう。元気っていうか、怖いなあ。俺、あんまり気が強くないから、尻に敷かれっぱなしって感じだ。小遣いも少ないし、まあ、仕方ないけどな」
「お子さん」もう名前を忘れた。「いくつになったんでしたっけ」
「もう来年小学校に入るな」
「はー……僕も歳を取るわけですね」
「伏木は……いくつだっけ? 俺、人の年齢覚えらんねえんだよな。当時二十歳だったのは覚えてるんだけど」
「計算すればすぐじゃないっすか。八歳差ですよ。神宮さんが三十八歳だから、僕は三十歳です」
「老けたなあ!」
「もう人生の佳境ですよ」
「今は何やってんの? あれ、これ聞いていいやつ?」
「あー、まあ、何もしてないですね。相変わらず、作家志望です。箸にも棒にも掛からないってやつですね。ぶっちゃけ応募もしてません。何者でもないです、僕は」
「そうかあ。いや、俺は応援するぞ、伏木君! いいんだよ、男は、夢を追ってさ。俺みたいに、一時の欲求に溺れて家庭を持ったりしなきゃ、それでいいんだよ。たまにゃ寝転がったりしてもいい。ハーロック船長も同じようなことを言ってたよ」
それでいいの?
本当に?
誰か保証してくれる?
「まあ……今は結構、時代の移り目というか、改革期というか。そういう、僕がやってる小説とか、漫画とか、イラストとかの話ですけどね。インターネットが普及して久しいじゃないっすか。色んな稼ぎ方があるみたいで、本出して印税で、みたいなのはもう終わりかもしれないっすね」
「あー、そういうもんなのか。いや、ごめんね、俺はそういう界隈全然分からないんだけど、そういう時代なのかもしれんな。俺も漫画に金払ってないしなあ」
「読まないんすか、漫画。結構、漫画読んでるイメージありましたけど」
「なんか、色んなアプリあるだろ? 毎日曜日毎に更新されるやつ。あれ、四つくらい入れてるよ、スマホに。だから割と暇潰しには事欠かないな」
「現代っすねー!」
「最先端だよな!」
「まあ確かにああいうアプリで読めるなら、わざわざ紙で買う必要ないかもしれないですよね。ちなみに僕も入れてます」
「現代だなあ!」
「最先端っすよね」
反吐が出る。
いや、僕がどうこう言う筋合いはない。僕は漫画家でもなければ、小説家でもないんだから。あの手のアプリで、誰がどのようにして金を稼いでいるか、その仕組みさえも分からない。アプリがどうやって利益を出しているのか、それすらも分からない。作者にはいくら入っているのか、それで食えているのか、商売として成り立っているのか。これが正常なのは、時代のせいなんだろうか。それとも僕らは、もう終わった時代に生きているんだろうか。
「でも、ごめんね、ちょっと折り言った話がしたいんだけど……今、伏木君、どう? 楽しい?」
「何がっすか?」
「人生」
人生って何?
生きるって。
暮らすって。
人って何なんだろう。
「人生っすか」
「そう、人生」
「……あ、神宮さん、なんか頼みます?」
「ん、ああ、俺はビールでいいよ」
「じゃ、頼みますね。すいませーん!」
生中のお代わりを二つ頼んで、つくねに口を付ける。分かりやすい誤魔化し方だたけれど、僕は、神宮さんの問いかけに、すぐには答えられなかった。人生ってそもそも、楽しい、楽しくないで尺度を測るものなんだろうか。測れるものなんだろうか。別に、生きていればいいんじゃない。って、多分、平凡な僕は思う。そうして、辛くなるんだけど。毎日飯が食えて、住む家があって、娯楽があって、それでいいんじゃないかって。何者にもならなくても、それでいいんじゃないかって、思ってしまう。
すぐに運ばれて来たジョッキを受け取って、ささやかに、二度目の乾杯をした。冗談みたいに笑いながら、ノリのみで打ち交わす杯。分かってるよ、神宮さん。答えを待ってるんですよね。なんて言おうか。僕はどうしてか、この質問に対して、すごく迷った。
「……人生はー……それなりに、楽しいって言うか、自由っすね」
「自由かあ」
「僕はその、神宮さんみたいに家庭を持ってるわけじゃないですし、仕事もしてませんし。たまに日雇いのバイトしてるんですけど、毎日は無理だなと思って。すみません、自分語りになるんですけど」
「いいよいいよ。語ってよ」
「金銭的とか、生活的に裕福ではないんですよね、全然。もう、五袋入りで二百円の袋麺を一日一食で食べたり、たまに贅沢するにも見切り品食べたりっていう生活で。だから今日は超ごちそうなんですけど、まあでも結構生きて行けるな、みたいなのはあって。ちょっと無理すれば贅沢も出来るし、無理しなければ働かなくて良いし。電気さえあれば小説も書けるし、書きたくなければ娯楽はそれこそ、無料漫画アプリでも動画でもソシャゲでもいいんですけど、たくさんあって。だから、それなりに充実してると思います。楽しいかどうかは分からないですけど、僕はこれでいいかなって感じ、ありますね。不自由なよりは、ずっと」
「……だよなあ」
その「だよなあ」があまりに重苦しかったから、僕は二の句を継げなかった。間違えたか? いや、間違いって何? レバーの串に手を伸ばした。そういや小さい頃、レバーって嫌いだったな。いつから食べられるようになったんだろう。
「神宮さんはどうすか」
「俺? 俺はー……幸せだよ」本当に?「若い嫁さんと可愛い子どもがいて」それで?「仕事も順調だし」何を持ってして?「まあ、辛いことばっかりだけど、プラマイゼロなんじゃねえかな。多分、伏木君と同じだと思うよ。プラマイゼロ。最終的にはさ」
「それって——」
ゼロなら、無理しない方が得じゃない?
なんてことを、僕は思ってしまう。
平坦で、地続きで、起伏のない人生なら、僕はそれを選んでしまうだろう。成功も失敗もしない人生。それって生きてる意味あるのかって問われたら、多分すぐには答えられないけど、答えは自分の中にあって、正しいって思っている。傷付かないから、傷付けないで済むし、笑えないけれど、泣かなくて済む。生命活動が最終的にプラマイゼロになってしまうなら、大半の人は、束の間の喜びを享受するのかもしれない。でも、僕はそれをプラマイゼロと感じられないから、平穏無事に暮らしたい。マイナスがなくても、プラスもない方が良い。十のマイナスと、十のプラスは、僕の中ではゼロにならない。ただそこに、十ずつの幸せと不幸せを転がしてしまうだけだ。
Aちゃんは悲しんでるのかな。
Cちゃんは喜んでるのかな。
さきちゃんは、幸せになった?
僕だけが勝手に想い続けてる。
一瞬の出来事を、永遠に憶えている。
「それって綺麗だと思います」
「綺麗ってか!」神宮さんは笑ってくれた。「綺麗って言われると、なんか変な感じだなあ。俺、綺麗?」
「いや、神宮さんはおっさんです」
「この野郎!」
「おっさんですけど、そういう生き様は、羨ましいですよ。僕にないものだから、すごく、憧れます。僕は普通の生活が出来ないから、すごく……いいな、と思うんです」
「本気で言ってんのかあ?」
「本気っすよ。いや、どうだろう……」
本気ってなんなんだろう。
誰かを喜ばせたくて、誰かを持ち上げたくて、僕は僕を殺すことがしょっちゅうある。毎日のように、多分、殺してる。誰かと会いたくて、誰かの機嫌を取るようなことを多分ずっとしてる。そこに僕っているんだろうか。僕が、誰のことも考えずに成し遂げたことって、ひとつでもあるんだろうか。流れに身を任せて、こうあるべきだと信じて、神宮さんに敬語を使って、否定をしないように気をつけて——でもそれは僕の決断で、誰に強制されたわけでもない。何かを失ったわけでも、奪われたわけでもない。僕が選んで、僕が決めた。
なのにどうしてこんなに切ないの?
「それは、多分、嫉妬みたいな」
「嫉妬ぉ? 俺、そんなに幸せそう?」
「わかんないっす。僕は神宮さんじゃないから、神宮さんの辛さとかは全然わかんないっすけど、いいな、とは思うんですよ。多分、苦しみとか辛さって、表面化しないじゃないですか」
思い出みたいに。
美しいところだけが滲み出る。
「だから、嫉妬するし、憧れるし、羨むんすよ。ほら、成功者を妬むのとかと、多分、似てます。氷山の一角しか見ないから、いいなあ、みたいな」
「ああ、そういう……ことなのかな。うん、やっぱ伏木君を誘って正解だったわ。伏木君はさ、いいよね」
「いいんすか、僕」
「ちゃんと言葉にしてくれるから」
何があったの?
すごく心配になってしまうけれど、そんな感情も一時のものだろう。そんな言葉、他人から聞いたこと、一度もなかった。だから多分、これを僕はずっと憶えているんだろう。靴を見れば人間が分かると言ったおっさんのことや、アルバイトを共にしただけの千冬さんのことや、時折連絡をくれる神宮さんのことや、さきちゃんのことや、Aちゃんのことや、Cちゃんのことを、僕はずっと憶えていて、きっとずっと忘れられないんだろう。人生の、数多の場面のうち、どこかしらで、マフラーの染みみたいにずっと残って、巻き方次第で、ふっと思い出すんだろう。どうして汚れたのか、その失敗や、その失敗の中で芽生えた感情さえ、ずっと覚えている。
「なんか頼もうよ」と、神宮さんが言った。「もっと肉々しいの食べたいな」
「僕もそう思いました」
「だよなあ? 伏木君、タレと塩どっち派?」
「まだお子様なんでタレっすね」
「俺もぉ」
この会話は多分すぐ忘れるんだろう。そういうのはすぐに判断がつく。どういう記憶が忘れられなくて、どういう記憶がこびりつくのかを、もう経験で判断出来る。神宮さんの下の名前の漢字や、タレと塩どっち派かなのかとか、千冬さんの旧姓や、子どもの名前や、聞いたはずの住所や、教えてもらったはずの職場の名前も、きっと全部思い出せないで、僕は死んでいく。
でも、今日こうやって神宮さんに誘われてきた店の名前の『とりごころ』や、僕が見つけたさきちゃんやAちゃんやCちゃんや、コンビニでウコンじゃなくてヘパリーゼを買ったこと、網に入ったままのサッカーボールを蹴る子どもたち、スマートフォンを持ったまま歩くOLの鞄の色。大事なことやどうでもいいこと、それら含めて、きっと忘れられない。視覚的だから? そういうわけでもないと思う。基準が何かも分からない。そしてふっと思い出す。どうして思い出すのか、その基準すら曖昧だ。どうして記憶してしまうのか、その意味すら分からない。僕があと何年生きるのか、何年分の記憶容量を残しているのかも分からないのに、どうでもいいことばかりずっと記憶して、その度に辛くなって、消したくなって、消せないでいる。
「伏木君は、終電何時?」
「あー、何時だったっけな……まあでも、自分はいいですよ。一駅なんで、最悪歩いても帰れますから。むしろ神宮さんが大丈夫ですか」
「うん、まあ、俺は……今日はね! いいんだよ、今日はいいんだ、俺は」
「何駅でしたっけ」
「いや、本当に大丈夫。最悪タクシーで帰るし。今日はねえ、飲みたい気分なの、俺は」
「マジっすか」
「マジマジ。とりあえずカシワとモモと砂肝行くけどいい?」
「あ、全然大丈夫です。煙草いいっすか?」
「いいよー、どんどん吸ってよお」
僕は煙草に火を付ける。神宮さんは注文をする。この景色は、じゃあ、大事じゃないんだろうか。大切じゃないんだろうか。数年後、憶えていられるんだろうか。きっと掛け替えのない時間だ。きっと取り返せない。なのにどうしてこんなに、簡単に過ぎて行ってしまうんだろう。
注文を終えた神宮さんがちょっとトイレ、と行って席を立った。僕は煙を吸い込んでいたから、深く頭を下げてそれに応じた。トイレに向かう神宮さんを目で追って、吸った煙を吐き出した。思考が緩くなっていて、とても気持ちが良かった。どうしてか、何も起きないでください、と願った。多分、プラスマイナスゼロに出来ないからだ。僕は、プラスをプラスで保持しておきたい。マイナスを感じたくない。神宮さんみたいに、幸せと不幸せを、自分の都合で相殺出来ないのだ。その喜びを、その悲しみを、同列に扱えない。悲しみが一つあれば、喜びの一つは、消え去ってしまう。百の幸せよりも、悲しみのない人生を望んでしまう。辛くてもいい。息苦しくてもいい。どうか誰も傷付かないでと、願ってしまう。
さきちゃんはAちゃんとラインしただろうか。
Aちゃんは悲しまなかっただろうか。
Cちゃんは追求しなかっただろうか。
さきちゃんは、決断を迫られなかっただろうか。
分かってる。決断のない人生なんてなくて、誰もが悲しみを背負う。何かを選べば、何かを捨てるのだ。不自由なく、拒否権なく、何かを選べる権利なんて僕たちにはない。砂肝を食べれば、カシワを食べれば、モモを食べれば、皮も軟骨もフライも捨てる。ビールを飲めば日本酒を捨てる。タレを選べば塩を捨てる。分かっているはずだ。なのにどうして、こんなに切なくなるんだろう。僕は創作の時間を捨てて、神宮さんと過ごしている。自分で選んだはずなのに、どうしてこんなに惜しくなるんだろう。
どうせ何も書かないのに。
店員の大きな声も、喧噪に塗れて響かない。僕は串が六本乗った皿を受け取って、また煙草を吸った。プラシーボなのかどうなのか、煙草を吸うと思考速度が鈍る。酒を飲むと思考速度が鈍る。リアルを忘れられれば、思考速度は鈍る。
「あ、いいのに先に食べてて」
「いやそういうわけには行かないっすよ。奢ってもらうのに」
「出た! 奢ってもらう前提の言い方!」
「冗談ですよ。ちゃんと持って来ましたから、お金。これでもちゃんと蓄えてるんですから」
「偉いなあ」
でも多分神宮さんは奢ってくれるし、僕も金を出す気がない。万が一に備えて持っているけれど、多分使わないはずだ。出すそぶりは見せるけれど、ポーズだけ。決まり切ってる。でもそうすることで、関係が上手く行くことも知っているし、多分どこかで覚えたんだろう。それを覚えた瞬間は忘れているのに。
何を基準に覚えているんだろう。
バイト中、エスカレーターを下ってトイレに急いだ光景。
可愛い同級生に苛立ち紛れに注意された光景。
ルールも忘れた新しいゲームを作って友達と遊んだ光景。
真夜中に山道をドライブして、突然ライトを消した光景。
大切でもない誰かのために歌った光景。
大切な誰かのために歌った光景。
初めて出会った女の子に腕を絡まれた感触。
その女の子が死んでしまったと、言葉だけで聞いた瞬間の映像。
電話しながら見た裏庭の草木。
一度だけしか行ったことのない飲食店で、テレビに映っていた映像。
なんで憶えているんだろう。
大切なことじゃないのに。
大切なことはすぐ忘れてしまうのに。
「伏木君が言ってたファミレスって、伏木君の最寄り駅?」
「そうっす。松木南の近くっすね。二次会、行きます? あれなら、雑魚寝でよければ僕んち泊まって下さいよ」
「布団ある?」
「一応来客用のが一式」
「最悪それかなあ。奥さんも、伏木君って言えば何も言わないと思うし。今日はさあ、でろんでろんに酔いたい気分なんだ」
「ていうか僕ってそんなに信用ありました?」
「えー、好かれてただろー? 千冬ちゃんに。仲良かったじゃん」
「そうでしたっけ」
大切なことはすぐ忘れてしまうのに。
◇
神宮さんの葬儀の帰り、僕は友人である大津に電話をした。飲みたい気分だったし、誰かに会いたかった。大津は、すぐに僕の家に来ると言って、電話を切った。
神宮さんと酒を飲んでから、一週間後のことだった。千冬さんから連絡を受けて、僕はすぐに自分が何か失敗したのだと思った。怒られると思った。でも、千冬さんは感情のない声で、「伏木さんには何の責任もないけれど」と切り出して、僕と別れてすぐの明朝に、神宮さんが始発電車に轢かれて亡くなったことを聞かされた。僕はその時、丁度起きた頃だったから、朦朧としていて、何がなんだか分からなかった。
聞いてもいないのに、千冬さんは僕に色々話して聞かせた。神宮さんは精神的に疲れていて、仕事が上手く行っていなくて、家に帰る時間も遅くなり、酒浸りの生活をしていたということ。小さい子どもを抱えた夫婦生活は上手く行っておらず、かといって悩みを話せる友人もいないようで、神宮さんは色々、一人で抱え込んでいたこと。バイト経験しかない中途採用の中年は、給料もあまり良くなかったこと。千冬さん自身、そんな神宮さんを良く思っていなかったこと。まるで懺悔のように、共通の知り合いというだけで、僕に色々なことを聞かせてくれた。多分、そんなことを言える相手がいなかったのだろう。誰とも交わらない、ねじれの位置にいる僕のような存在でもなければ、何も言うことが出来なかったのだろう。僕はそれを、たまに相づちを打ちながら、聞いていた。そうなんだ、そうか、辛かったね、大変だったね、そうか、そうなんだ、うん……多分、一時間以上電話していた。
死因を聞いて、突発的な衝動や、あるいは事故かとも思ったけれど、遺書は残されていたらしい。神宮さんの部屋の机の上に、丁寧に置かれていたと聞いた。その中に、分量にしたら一割くらい、僕のことも書かれていたようだ。名前こそ出ていなかったらしいけれど、千冬さんにはすぐに僕のことだと分かったようだ。
私が選んだ最後の友人には、一切の非はないので、責めないで欲しい。
そうとだけ書かれていたと、千冬さんは言っていた。
僕は友人なんかじゃない。
神谷さんは友達なんかじゃない。
僕にとって、恩人だった。
僕はもう、恩を返せなかった。勝手に呼び出して、勝手に楽しんで、勝手に死んでしまった。怒りなんだろうか。それとも悲しみだろうか。呆れだろうか、それとも僕は何も感じなかったんだろうか。神宮さんの結婚式に着ていった礼服に、父から借りた黒いネクタイを締めて、葬儀に並び、すぐに葬儀場を後にした。千冬さんとも、名前も思い出せない神宮さんの子どもにも、何も言わずに。
僕は礼服を着たまま、部屋に寝転がっていた。家賃二万五千円の、四畳半のアパート。冷蔵庫もないし、クーラーもない。畳の上にシートを貼っただけの、偽物のフローリングは、僕を冷やしもしなければ、暖めもしなかった。
「闇夜」
鍵も掛けずに暮らしている僕の部屋は、誰でもすぐに入れる。ただ、表札も掛けていないから、知っている人間しか僕がここにいることは分からないはずだ。大津は僕の部屋に入るとすぐに僕の偽名を呼んで、そして寝転んでいる僕の手首を持った。
「生きてるな?」
「急性アルコール中毒なんかじゃないよ」
「自殺のために一張羅を着たのかと思った」
「まさか。死ぬ時は家を引き払ってから死ぬよ」
体を起こして、胸ポケットから煙草を取り出した。火を付けて、立ち上がり、換気扇を回す。
「どうしたんだよ、まだ夕方なのに」
「僕が深夜にだけ君を呼ぶと思ったら大間違いってことだよ」
「深夜にしか鬱にならないだろ」
「今日はそういうんじゃないんだ」
「喪服か? それ」
「そう」
僕の部屋には椅子がないので、大津は床にそのままあぐらをかいた。僕は立ったまま、換気扇の下で煙草を吸っている。
「恩人が自殺したんだ。今日は葬儀に行ってきた」
「…………そうか」
「恩人って何だろうね」
「恩を受けた人のことだろ」
「斑月には恩人っている?」
「いや……どうだろうな。世話になった人はたくさんいるけど、恩人って言えるような人はいないかもしれない」
「普通そうだよね」
「闇夜はどうしてその人のことを恩人だと思ったんだ?」
「どうしてって……」
どうしてだろう。
恩人って何?
恩って何?
本当かどうか分からないけど、多分、人生を救ってくれた人だ。
僕はすぐに心が折れるし、すぐに挫折する。一つのことを長く続けた試しがない。でも、こんな僕にも、一人や二人、人生を救ってくれた人がいる。まあ、救う気があったのかなんて分からないし、それが本気だったのかどうかも定かじゃない。そもそも、気まぐれで救おうとしてくれた手を、僕が気まぐれで受け取っただけかもしれない。偶然に偶然が重なって、結果的に僕が助けられた。それだけ。
「神宮さんは僕を怒らなかった」
「なんだそりゃあ」
「斑月と一緒だよ」
「怒らない人は恩人なのか」
「僕みたいな人間にとってはね」
「安いもんだな」
「いいんだよ、それで。分かってるよ、そんなの違うって。でも、そういう人が必要なんだよ、僕には。我慢強い人とか、耐えてくれる人が。そのうち気付くんだ。僕はこの人のために自分の人生を割こうってさ。そういう人が、一人減った」
「限界だったんじゃないのか、その人。お前の相手とかじゃなくて、人生がさ」
「多分、誰に対しても我慢強かったんだろうな。僕にだけじゃなくて、色んなことを我慢出来る人だったんだろうね。別に寂しくないよ。悲しくもない。驕ってたつもりもないし。ただ……切ないね、これは」
大津もその一人だ。僕の言うことにいちゃもんを付けたり、反論したりはするけれど、僕を否定しない。突き放さない。嫌ったりしない。そういう人が、どれほどいるだろう。人生の中で。ポーズでも、嘘でも、偽りでもいい。ただ、僕の目の前で、それを貫いてくれる人が、一体どれほどいるだろう。氷山の一角だけを優しく見せてくれる人が、一体どれだけ。
僕はそんな人たちに、何が出来るんだろうか。
「斑月は死なないでくれよ」
「死ぬわけないだろ。いや、死ぬかもな。明日食う飯にも困ってる」
「金、少しなら貸すよ」
「多分お前よりは持ってる」
「だろうね。僕の蓄えは香典で飛んだよ」
「また日雇いだな」
「うん。小説も書かなきゃ」
「書く気、出るのか?」
「出さなきゃね……」
僕の意識とは裏腹に、煙草はすぐに根元まで燃え尽きた。新しい煙草を取り出すと、箱は空っぽになった。最後の一本だ。
神宮さんはいつ、本当の意味で禁煙に成功したんだろう。その時の気持ちは、覚えているんだろうか。僕に渡した煙草が、最後だったんだろうか。誰かのために、我慢したんだろうか。きっとそうだろうな。我慢強い人だったから。
それで結局、死ぬだけなのか?
色んな人を、置き去りにして。
「斑月、今夜暇?」
「それなりにな」
「飲まない? 外でも、家でもいいけど。ちょっと、誰かと一緒にいたいんだけど」
「他にいないのかよ」
「死んじゃったよ」
「やめろ、そういうのは」
「ごめん。斑月がいいんだ」
「金、ないんだろ。店は高いし、スーパー行くか。ストロングゼロ買おう」
「うん。酒代くらいは残ってるから、割り勘で大丈夫。この前の金返したっけ?」
「んー…………確か。三千円だよな」
「ああ、じゃあ返した」
「飲んでもいいけど、最悪泊まってくぞ」
「いいよ。僕の布団で寝てくれ」
「あれ、いつものは?」
「今日は僕が使う」
「なんでだよ」
「斑月はあの布団で寝ちゃダメなんだよ」
「なんだそりゃあ」
「そういうもんなんだよ」
別に愛していたわけじゃない。
でも、すごく好きだった。
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