第10話 アンハッピーエンド
朝茶子は年齢ばかりを長じさせて、それでも変わらなかった。或いはどうでもいいのかもしれない彼を殺してあげたいと、痛いくらいに思いながら、生き続けたのだ。
彼女は、かもしたら殺人鬼よりも多く人の死を望んでいたのかもしれない。
だって、朝茶子は。
「あたしは殺したいくらいに、不完全を見るのが辛かったんだ」
そう、笑顔を見せる。悲しみに白蝋よりも尚血の気なく、愛の色すら失った陶器は、ただ綺麗に歪んでにっこりとした。
強い風が吹いたところで、不動。光景ごと彼女が壊れるのを見たくなくってぴくりとも出来ない不揃いの三人は、何の言葉も返せない。
朝茶子は続ける。
「皆どうして、あたしの周りは終わっていないのかな、と思ってた。不完全で生きている、それってきっととっても辛いよね? だからあたしは、一人だけでも終わらしてあげたかったんだ」
完結し、綺麗に固まってしまった存在にとって、その他の汚く動く雑多に向ける愛はただ一つ。それが腐り落ちる前に終わらせてあげること。神と似た視点を持つ者は、どうして皆が足掻くのかと不思議に思うのだった。
欠けた陶器の破片は傷を付ける形に固定されるもの。端から壊れて鋭いまでに綺麗に裂けていた朝茶子はナイフと同じであった。だからこそ、その成就を望まずにはいられない。
損ねて、壊して、正してあげる。下手な生き物であることこそ間違いならば、完全に動かぬ者にしてしまえばいい。
人を愛しているからこそ、そんなことを彼女は思うのだった。
「それにね。真夜さん、誰かを殺したいって言ったんだ」
冷え冷えと、少女は言う。大切だった彼を話しているのにこれほどまで熱が持てないのは、それほどに終わった真夜の姿が残念だったから。
黒々としたものが、鬱々と。人より崩れてバケモノと化した内面は、刺々しさよりも哀れなアメーバ。それは癒着し諸共壊す人でなし。不信により真夜はそこまで追い詰められたのだった。
人を殺して、殺して貰う。そんな最低を口にするのですら当たり前のように、成年となっていた彼は終わっていたのだ。
「あたしは、それだけは許せなかったの。だって、約束を破るなんてずるいもの。あの人はあたしが台無しにする筈だったんだから」
それに誰かにもあの人にも、幸せになって欲しかったの。そう朝茶子は語る。
「だから、止めて、留めて、結局止めを刺しちゃった」
刺して刺して、血がねっとりと凶器を持った右手に付着する。暮れきった、その赤はまるで夜のよう。だのに、温もっているのがとんでもなく気持ちが悪い。
そこで朝茶子は人との擦れ合いがばっちいものと、思った。
陶器に付いた血の汚れはあっという間に皆によって流される。罪だって、今はそう残らなかった。
「あたしが悪いんだ」
それでも、人でなしの異形は、綺麗なばかりの血の壺は、自省する。
そうして、一筋、涙を溢した。
「あたしはあたし以外(生き物)を許すことが出来なかったんだ」
それは、少女の本音。どうしようもなく終わった、汚れない彼女の繋がらない心の言葉だった。
「そんなこと、嘘だよ」
その罪深さはカーテンレール。危険物と人との心を裂くために、容易く沈黙は落ちる筈だった。
しかし、彼女は言う。幼子でしかない塩田美雨は、大好きなお姉ちゃんが物語の主人公ではなくただの人殺しだからって、大好きであることは変わりないからと、言葉をかけるのだった。
驚きを見せる朝茶子に、美雨は心の底を絞り出す。
「嘘? あたしの言ったことは全部本当で……」
「嘘だよ、おねーちゃん。だっておねーちゃんはあの時私の手を取ったもの。一緒にいるの、許してくれてたじゃない! 私のこと見て、ずっと笑ってくれてたのにっ」
「美雨、ちゃん……」
美雨は、泣く。大好きなお姉ちゃんが、辛そうなのが苦しくって。だから、ばっちいと思われても、それでもと、朝茶子の胸元へと飛び込むのだった。愛されたくて、その身を抱く訳ではない。愛したくて、抱きしめるのだ。
それを、幼子のその不格好を悲しみながらも、陶磁器の少女は割れ物に触れるかのように優しく受け止める。それは、その外見に反した心根の誤った柔らかさのために。
朝茶子は、誰に許しを請うこともなく皆の幸せを願っていた。苦しい生を、苦手に思いつつも。だから組み合わせなかったその手のひらは空いていて、故に何時かの日に少女の手を握れたのかもしれない。
そう、好きだから。皆々、大好きで、愛しているからこそ。彼らが背負う、その苦しみを殺したくなってしまうくらいに許せなかった。
純粋無垢な、そんな殺意。大切抱く女の子にそんなものがあると知り、この上なく苦い顔をしてから、来田雄三はため息をつく。
「はぁ。こりゃあマジ話っぽいな……正直なところ、俺の良心は犯罪者に許しなんて必要ないって言ってるけれどな。ましてや、人を殺しちまった奴になんて」
「あなたは……」
「俺は聞いちまっただけの殆ど無関係のオジサンだ。でも、だから言えることもあるんだよな」
朝茶子が思い出したかのように見つけたのは、年重の男。
渓合の町を探し回った挙げ句幼子の案内によって、出くわしたまさかの場面。殺人者の自白に、まともな男も抱く感想はあった。
こういう時、煙草がないのは辛いな、と独り言ちながら、雄三は続ける。
「許さないというのは、許して欲しいということの裏返しだ。一人ぼっちはとんがるよな。そりゃ辛え」
「う、ぅう……」
「でも、だからって人を殺すのは駄目だろ! んなのは馬鹿げたことで、一生反省することだ! それをなんだ、お前。こんなところで自己解釈に浸って自分のために泣いて。そんなことで、本当に良いとでも思ってんのか?」
「っ!」
涙目の少女を気にせず、雄三は悪意の水たまりに足を浸けて、蹴っ飛ばす。汚い言葉は飛散しそして、教えるのだ。
嫌うのではなく、叱る。その意味を。今更になって、朝茶子という止まってしまった女の子に。
怒声があたりに響く。周回遅れの言葉は、頑なな彼女の内に、痛く刺さった。
「逃げてんじゃねえよっ! 罪ってのはお前の重荷だ……それを負わずに幸せになるなんて言語道断!」
「あ、ぁあ……」
立ち聞いたばかりの無関係の人間が、何を言っているのか、そう雄三も思わなくもない。こんな哀れな無垢を傷つけて、何をしたいのだと考える冷静な自分もある。
だが、しかし。良識から見逃すことが出来ないことだってある。何せ、雄三は良二から聞いて知っている。
痛みに泣くぐちゃぐちゃの彼女へ確りと向いて、人生の先輩は言うのだ。
「名前も捨てて何処からも誰からも罪からも逃げ出したってのは、許さない。許しちゃいけないことだ。でも、朝茶子ちゃん……君は助けて欲しかったんだってな?」
「ぐす、それは……」
「なら、今までのことを忘れずに助かれよ! もっと本気で幸せに、なりなよ……俺にはさ、キミが捨て鉢になっているだけに見えるんだよ……」
雄三はまともな人間だった。普通一般平凡から努力で少し抜きん出たばかり。ただ、人を見るのが好きなだけの男だ。
そんな彼は、腐肉との恋だって普通だと考える、現実逃避の少女が見ていられない。
それはきっと、愛ではなく、哀から。人殺しだろうが知ったことか。そんなことで見捨てられるほど自分は人間を嫌っちゃいない。そう思い、誤っただけの彼女の更生を男は芯から求める。
「己を殺すな! キミはどうなりたい!」
「あたし、あたしは……」
しかし、ただ熱を求めるかのように美雨を抱いてただ震える朝茶子を見て、雄三は拙速過ぎたかと思った。
きっと想いは届いたが、だがそれがどうしたというのだ。相手は傷ついて、冷え切った。当たり前に誤った彼はそこまでしたくはなかったどうしようかと思う。
そこで、ずっと一つ前に進み出た少年を見て、雄三は口をつぐんだ。もう、余所者が出しゃばるのはこのぐらいで良いだろうと、当事者に任せることにして。
そして、朝茶子の心を切り開いてしまった当の本人であるまひるは、彼女に向かっておずおずと口を開いた。
「朝子さ……いや、朝茶子さん」
「……な、なぁに?」
「ボクは、貴女のことが好きです。変わらず、好きです」
「えぇ?」
疑問の言葉に、真っ直ぐを返答として、まひるは真剣を続ける。
朝茶子は、死後を晒している。そう、彼は思っていた。可哀想な、人殺しで終わってしまった少女。
でも、それは違った。後ろの見ず知らずの訳知り顔が、厚顔にも偉そうに教えてくれたのだ。
まだ、物語には続きがある。ただ、欠けているだけだ。それを、知った。一瞬だけ夕梨の姿が頭によぎる。だが、一重に未練を断ち切り、彼は歩みだす。
「ボクは、貴女といやらしい接触をしたいし、何なら子供だって作りたい。そして、一緒に……幸せにだって、なりたい」
男の子は本音を、呟く。いやらしさがそこにあろうが、どうした。接触に不理解こそ当たり前、不快こそ本来であるのならば、なればこそ優しくあろうと願うのだ。
そう、まひるは朝茶子を、愛したかった。投棄された陶器に対するものではなく、ただ美しいばかりのバカで過ちばかりの女の子に、恋したのだから。
守りたい。そう、それは翻せば。ずっと共に有りたいということではないか。
「背負うよ。朝茶子さんが悪いと言われたらその人に頭を下げるし、何だったらもう頭を上げずにずっと居たっていい」
「どう、して?」
「どうしたって関係ない。ボクは、朝茶子さんがそれくらいに、好きなんだ」
笑顔。それは、誰のためでもなく自分のため。笑ってしまうほど、彼女が人であったからこその暗い喜び。
そして、人を刺すほどの割れ鍋には、自分のように歪んだ綴じ蓋がお似合いだとまひるは思ってしまったのである。
やがて真っ当に、魔性の美に恐れ入らず、少年は前を向く。そして、綺麗なばかりが取り柄の何もなしは、狼狽えた。
少女/悪鬼は、本当に幸せになってしまっていいのかと、怯えきって、叫んだ。
「あたしは、あたしは!」
そう、歩みだすにまずは自己確認から。それから右見て左見て、進むのだ。
それを忘れていたのに、今更朝茶子は気づいた。そう、自分がどうなりたいか、少女は考えずに停止していたのだ。
ただ周囲に不理解の視線ばかりを向けて、そうして汚れずただ一人ぼっち。しかし、その前に手は伸ばされた。
抱きつく子供。叱る大人。恋する男の子。そんな人達の前で、果たして変わらずに居られるのだろうか。
「あたしが悪かったんだって、思えるようになりたい……あたしが、間違っていたんだって、悲しみたい……」
朝茶子は、そう言う。自分が醜いのだと思い、人間みたいになりたいと、そう思って。
一人ぼっちは寂しかった。ただそれだけの真理こそが、止まって終わっていた少女を動かす。
少年院で強かに殴られようともへらへらとしていた朝茶子は、酷く辛そうにして、美貌を歪ませた。
「だから、誰かその時まで見捨てずに、あたしと一緒に、いてよぉ……」
それは、本音。誰かのためと勘違いして大罪を背負った彼女は皆へと手を伸ばして。
「痛っ!」
「朝茶子さん!」
「おねーちゃん!」
飛んできた何かにより額から血を垂れ流すこととなる。
心配に近寄る子どもたち。反して投石という攻撃が飛んできた方向へ構えた大人は、見つける。
「はは、ざまあみろっ!」
今は亡き我が子のために人殺しになりたがっている女性。大家である片桐本家の目から逃れるように、場末の探偵雄三へ朝茶子捜索を願い出た張本人は、美人だったはずの顔を怒らせて、鬼となっていた。
実際鬼母であって、真夜を捨て鉢にさせた張本人であるが、そもそも鬼に道理なんて関係ない。どうでも良いものだけれど失くしたから、それを奪ったものを許さない。
そして恨みは次第に大きくなる。そんなことで、彼女は朝茶子を害するモノと化していた。
「あんたか、片桐宵(よい)さん……やっぱり、あんたは本当の親じゃなかったか」
「そうよ。あんたは私のこと母親と間違えたけど、本当の所は叔母。まあそんな人でなしと少しでも血がつながっていると思うと怖気がするけれどね!」
「っ、くぅ」
「おねーちゃん、おねーちゃん!」
血を大いに零す朝茶子は、そんなに好きではなかった人を赤の中から見上げる。
一度も自分を可愛がってくれなくて、自分の息子をすら愛さなかった見下げ果てた人間を認めた。人間原理、いや自己原理を信じるような自己中心は、思い通りにならない少女に苛立ちの視線を返す。
かもしたら朝茶子に匹敵する程の美だったかもしれない、未だ中身なしは、言うのだった。
「前々から、私はあんたのことが嫌いだった! 綺麗なだけでお高く止まって、綺麗なだけで幸せそうで」
「……止めろ」
大人の暴走を止めるのは大人だ。そうでなくても、聞いていられない身勝手な言葉に、雄三は低い声を出す。
血を流して心痛めている筈の少女に、これ以上醜いものを見せるのは酷だ。たとえ、自業自得だとしても、重すぎて。
しかし、人の心なんてどうでもいい宵は、踏みにじるのだった。嫌いで嫌いで、どうしようもないから。彼女は、鏡に映る人影を苦手としてろくに見ることも出来ないタイプだった。
「だから、あんな子供を殺して嫌われるようになってすっとしたのに……どうして、人殺しがまた幸せになろうとしてんだよ、冗談じゃない!」
「止めろと言っている!」
「近づかないで!」
「っ!」
そして、宵は鞄から包丁を取り出し、それを瞬く間に剥き身にしてから人に向ける。
手出ししたらどうなるか。その柳眉の怒り具合で、刃物を持ったまま暴れるだろうことがその場の誰にも想像が付いた。
思わず手を拱く雄三。その間隙に、宵は決して言ってはならないことを口にする。そう、それは少女の生まれながらの罪。彼女の嫌いの始まり。また朝茶子という人間が大事にされ過ぎた理由でもあった。
「死ね、死んじまえ! お前なんて生まれるべきじゃなかったんだ! お前なんて姉さんの命を食って生まれてきたクズじゃないか!」
「あ、ああ……」
知っていた。だが、忘れたかったそんなことが、今更こんなに鋭くなって返ってくるなんて。
朝茶子は、震える。膝に力を失う。全身を闇が覆ったかのようなそんな心地がして、たまらない。
そう、朝茶子は母が命の代わりに生んでくれた命。そうであるのに、命を無残に毀損した、最低。クズですらない出来損ないだった。
だから、だから。死にたくなった。終わりたくなった。過去はあまりに暗く、眼前は闇。胸ばかりが張り裂けそうで。
だからこそ、ぎゅっと縋るように美雨を抱きしめた彼女を、支えるものがあった。感じるのは普通一般の、温かみ。
それは勿論まひるで、真っ先に凶器持ちの暴漢に反駁したのも彼だった。
「だからどうした! お前が幾ら嫌おうとも、彼女が幾ら罪深かろうとも、朝茶子さんが幸せになることには何の関係もない!」
「なんてこと……あんた私に逆らうの? こんなのにたぶらかされて、どうしようもない餓鬼ね!」
分からなくて、どうでもいい。そんな心地ばかりが占めているものが、宵だった。
故にどんな思いやりだって通じ合えない、繋がらない。むしろただ、意味を感じない騒音に激する宵。
果たして、朝茶子と比べてどうしようもないのはどちらだったのだろう。彼女は喚き散らしても何の意味を披露することもない。
「旦那、いやあいつだって最後まで私の言うこと聞かなかった! 私のために生きれば幸せなのに。どうして! ああ、ああ。ムカつくっ!」
そして、前にばかり感情を向いていた宵の背後はがら空きだった。だから、走り寄るその足音にも彼らの驚きにすら気づかない。そのためにやけに簡単だったと思いながら、少女は言う。
「ほい、っと。まひるが言ったのはそういうことじゃないんだが、まああんたみたいなのには分かんないか」
「な、ぐぅっ……痛い、や、止めて! 止めなさい!」
「ちょっと捻っただけでこれか。ダメな奴ってのは本当に、痛みに弱いんだなあ」
「夕梨」
彼女が醜いばかりに太いのには、理由があった。柔道に長じていたというそれだけの便利で、夕梨はいとも容易く宵を拘束する。
カラン、と出刃包丁が地をえぐり損ねて甲高い音を立てた。それを、真っ先に駆け寄った雄三が安全方向へと蹴り飛ばす。
「あ、ああ、痛い! 痛いわっ!」
「危ない危ない……っていうか、危ないからって女子高生よりも手出しが遅くなっちまうとはな……後付けさせちまったことといい、大失態だ。罪滅ぼしといっては何だが嬢ちゃん、この女は俺が預かるよ」
「そんな、私を物みたいにして……痛い!」
「動くな……あんたは?」
「ただの駄目な探偵だ。ただ、機械は得意でね。録音とかはほら、何時でも出来るくらいには色々と扱える」
『死ね、死んじまえ! お前なんて……』
「なぁっ!」
「これは……そうか。少しは頼りになりそうだ」
人の言葉を聞き取る職業に、録音機器は欠かせない。そんなことを知らない宵は、自分の発言が録られていることに驚く。
だが初対面の二人は彼女を他所に滞りない会話をしてから、騒音のもとを受け渡す。きゃ、と言った宵を雄三は問答無用で連れて行く。
大柄の隣で去りゆく華奢な背中。大事なハンカチを紅くしながらそれを見送りかねた朝茶子は声を張った。
「おばさん!」
「っ、な、何よ……」
振り返ったのは、自分が悪いと思ったわけでなく、どう仕返しをされるか恐れたがため。だから決して、宵は朝茶子を認めた訳ではなかった。
けれども、朝茶子は彼女の視線に険が失せていたことを喜んで、こんなことを言うのだ。
「あたし、死ぬよ!」
「はぁ?」
それはまるで自殺宣言。それを、あまりに朝茶子は楽しそうに言った。
衝撃にひび割れ欠けている彼女は、だがしかし活き活きとして続けるのだ。
「何時か、あたしが悪かったんだって死んであげる! ただ、それは今じゃないんだ。ごめんね!」
「はぁ……」
本気の謝罪に返ってくるのは、溜息。似ているが二人は違う。どうしようもないと宵は思う。
元より交わることは出来ず、故に意見は交換できない。だが、それでも向こうは向こうなりにこちらの意見を汲んだ。ならば、とようやく彼女は認めるのだった。
「なら仕方ないわね」
昼空の下に、夜顔が咲く。不釣り合いにも、それは朝顔と並んで映えた。
はじめて、朝茶子の前で笑んだ彼女はやっぱり、群を抜いて美しく。だからこそ誰にも勿体ない代物として染まれず、何にもなれなかったのかもしれなかった。
そして朝茶子と対する無垢とはもうこれっきりな程に離れてゆく。どうしてだかそのことを深く深くも悲しんで。
「ごめんなさい」
ぽろり、と少女は涙を流した。それは、輝きとなって、やがて少年の手元で露と消えるのである。
額には、傷が出来た。美しさを損ねるそれは、醜くかさぶたとなってしばらくそこに鎮座するだろう。
だが、今宵においてそんな無聊は無意味と帰する。暗がりは、割れを隠してその身の白のみを浮かび上がらせるばかり。
美しき痩身は、何よりも綺麗なままに、夜風になびかれながらそこにあった。
保護者と保護者が深く会話している合間に抜け出した朝茶子は、予感に胸踊らせながら、渓合に来てはじめての土地に舞い戻る。
無闇を切り裂くライトの群れが通り過ぎるのに感慨抱くことなく、彼女は夜の海岸へと歩を進めた。そしてどすんとその場に腰を降ろしてみる。またまた、偶々によって角張った石塊を避けられたことなんて、知る由もなく。
完成には未だ少し。その前で傷物になった磁器はただそのことをすら良しとして、男の子の登場を待つのである。
はじめて愛して欲しいと思った人。見初めた、愛という名の普通。それが駆けつけてくれることを、乙女は願うのだった。
やがて、願いは叶う。瞬きの星々に抱かれながら、二人は凹凸に溢れた海の側にて再会する。
「こんばんは、まひる君」
「はぁ、はぁ……こんばんは、朝茶子さん。美雨ちゃんに言われてここに来たけど……どうしてお父さんの迎えを嫌ってこんなところに……」
「それはね」
「わ」
衣擦れの音。立ち上がった朝茶子は衣服を脱ぎ捨てる。白いワンピースは足元に縮まり、全身は殆どが晒された。
そして、胸元のそれもまた、顕になる。左胸を裂くかのように引かれた、傷痕。一度彼とともに死のうとしていた彼女の行為の名残が、そこにあったのだった。
天蓋の美しさを惜しくも地に貶した朝茶子は、訊く。
「あたしは、傷物。それでも良いか、あなたに聞いてみたかったの」
「うん、平気だよ。それでいいんだ。ボクは、朝茶子さんがなんであっても関係ない」
「そう?」
首を傾げる、全裸の美女。それにいやらしさどころか、下も脱ぐ必要あるのかな、という間抜けの心配をしている自分に、まひるは少し心配を覚える。
だが、それでも間違いなく思えたことを、彼は話してあげるのだった。
「だって、ただ一緒に幸せになりたいだけだから」
「そっか」
一歩二歩。砂の上に足跡がどんどんと続いていく。その様子を、朝茶子は逃げずに認めた。やがて抱き留められて、彼女の逃避はここに終わるのだろう。
恋は終わるもの。愛は残さず消え去るが然り。だが、それでも願うならば。一時でも幸せであれと、そう想うのは間違いないだのだろう。
そして少年は、少女が少女でなくなりやがて塵と消えてしまうまでの幸せを、望む。それだって、当たり前のことだった。
至極美しき、白骨屍体。かちかちと、おばけの少女は言う。
愛されるために生きたい、と。
だから少女は汚くも、生きることになった。
それだけの、アンハッピーエンド。
片桐朝茶子は容姿端麗純粋無垢な人殺しである 茶蕎麦 @tyasoba
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