家への電話

『海斗、海を怖がらないで』

『落ち着いて、手足を動かしてみて。前に泳げてたのなら、体が覚えているはずだから』

『ほら、今日は昨日より、泳げるようになってる。凄いよ海斗……』


 陽子と出会って、泳ぎを教わるようになってから、四日が過ぎた。

 陽子はコロコロと表情を変えながら、熱心に指導してくれて。言葉を喋ることができなくても、その表情だけで十分に気持ちが伝わってくるのが、なぜかとても心地よく思えた。


 けどここに来て、俺はある問題に直面していた。夏休みはまだまだ続く。だけど予定では、明後日には家に帰ることになっていたのだ。だけど、まだ帰りたくないと言う思いが、俺の中に芽生えていた。


 ある程度勘を取り戻してはいるものの、まだ満足いくくらいには泳げていない。なのにもう、帰らなくちゃいけないのか?

 不思議なもので、最初は水に顔をつけるのも怖がっていたのに、今は陽子と一緒に泳ぐのを、楽しいって思っている自分がいる。

 まだ帰りたくない。だから俺はこの日、海から戻って、婆ちゃんと一緒に夕飯を食べた後、家へ電話をかけていた。


 夕食の後片付けをしている婆ちゃんの横で、スマホを耳に当てる。

 しばらくコール音が鳴った後、ガチャリと言う音がして、母さんの声が聞こえてくる。


『もしもし、どうしたの海斗?』

「母さん……今電話大丈夫? そっちは、何か変わり無い?」

『うん? 別に何もないけど』


 意味の無い会話をしているけど、こんなことを言うために電話をした訳じゃない。躊躇う気持ちはあったけど、俺は思いきって本題を切り出す。


「なあ母さん。明後日には帰る予定だったけどさ、延長してもうしばらく、こっちにいちゃダメかな?」

『しばらくっていつまでよ? そんなの、お婆ちゃんに迷惑でしょ』

「婆ちゃんには、もう話して許可とってある。夏休みの間中、こっちにいてもいいってさ」


 ちらりと目をやると、婆ちゃんがこっちを見ながら頷いてくれる。だけど突然の申し出を、母さんは怪訝に思ったようで、電話越しに怪しむような声が聞こえてきた。


『そりゃお婆ちゃんが言うなら良いけど……突然どうしたの? 何か、残りたい理由でもあるの?』

「それは……」


 答えることを躊躇してしまう。俺は母さんに、海で泳いでいることを話していなかったから。だけど、いつまでもこうしている訳にはいかない。


「実は俺、今海で泳いでいるんだ。また前みたいに、泳げるようになりたくて……」

『海で泳いで!? あんた、何考えてるの!』


 怒気を含んだ叫びをあげられて、思わずスマホから耳を離す。

 無理もないか。三年前、海は姉貴の命を奪って、俺もその時危うく死ぬところだったんだから。


『海で茜がどうなったか、忘れたわけじゃないでしょう!』


 茜……姉貴の名前を聞いて、ズキリと胸が痛む。分かってる……分かってるよ。

 俺だって泳ぐのは怖かったし、姉貴が怒ってるんじゃないかって、不安にもなった。だけど……。


「分かってるよ! けど俺、どうしても泳ぎたいんだ。あれから泳ぐのをずっと怖がってたけど、それじゃあダメだって思うから!」


 陽子と出会って思い出したんだ。俺は泳ぐのが好きだったってことを。俺だけじゃない、姉貴だって間違いなく好きだった。夏は毎年のようにここに来て泳いだし、手話まで習ってスキューバダイビングもした。

 あの事故の事は、やっぱり悲しいよ。けどこのままじゃあ、何だか海で遊んでいた楽しかった思い出まで、嫌な記憶になってしまいしそうな気がして。だから、また泳げるようになって、前に進みたかった。


「頼むよ母さん。遊ぶだけじゃなくて、勉強もサボらないから」

『そういう事を言ってるんじゃないの! もしまた溺れたらどうするの!?』

「そうならないよう気を付けるさ!」


 心配する母さんの気持ちもわかるけど、だけどそれでも……。

 すると横で話を聞いていた婆ちゃんが、電話を代わるように言ってくる。婆ちゃんには、陽子から泳ぎを教わるようになってからすぐに、泳ぐ練習を始めたことを伝えていたけど、その時は「そうかい」と言っただけだった。

 スマホを受け取った婆ちゃんは、電話の向こうの母さんに、諭すように言う。


「ちょっと落ち着きなさい。そう興奮してたら、話し合いになんないよ」

『お婆ちゃん……お婆ちゃんからも何か言ってやってください。もし海斗にまで何かあったら……』

「うん、あんたの言うことはよくわかるよ。きっと海斗だってそれは同じさ。けどねえ、それでもこの子は、泳ぎたいって言っているんだ。やりたいように、やらせてみたらどうだい」

『そんな……』


 母さんの悲痛な声が聞こえてきたけど、婆ちゃんはさらに言葉を続ける。


「茜のことは、アタシも悲しいよ。だけどそれと同じくらい悲しいのは、海斗のことさ。あんなに泳ぐのが好きだったのに、あれ以来海が嫌いになってしまったんだものね。好きなものが嫌いになるのは、悲しいよ。けどこの子は、今それと向き合おうとしているんだ。アタシはそれを、見守ってやりたいね」

『お婆ちゃん……』

「アンタだって泳げなくなって苦しんでいる海斗を見るのは、辛いんじゃないのかい?」


 母さんは何も答えない。俺は再び婆ちゃんからスマホを受け取ると、思いの丈をぶつける。


「お願いだよ。絶対に溺れないように、気を付けるから。今こっちの子に、泳ぎを習ってるんだ。そいつ、泳ぐの得意で頼りになって、何かあったとしても、そいつがいれば安心だから……。だからさ、泳がせてくれよ……」


 電話の向こうの母さんは、相変わらず無言のまま。やっぱり、納得してもらえないか? だけどそう思った時、微かに声が聞こえてきた。


『……気をつけて泳ぐんだよ。あと、海では絶対に一人にはならないこと』


 認めて……くれた?

 少し躊躇いがちな口調だったけど、それでも泳いで良いと言ってくれた。きっと母さんは俺が思っていたよりも、ずっと姉貴のことが傷になっていたのだろうけど、わがままを聞き入れてくれたんだ。


「うん、分かってる……。気をつけて泳ぐから」

『たのんだよ。そういや、泳ぎを習ってるって言うのは、どんな人なんだい?』

「ええと……この辺に住んでる、同い年くらいのやつだよ」


 心配をかけたくない、何があったかを、全部話さなくちゃって気持ちはあったけど、それでも陽子のとこを詳しく話すのは、つい躊躇ってしまう。

 悪い母さん、思春期の男としては、女の子と仲良くしてるなんて、親に知られたくないものなんだ。


 申し訳ないとは思ったけど、結局そこは適当にはぐらかしてスマホを切ると、婆ちゃんがまるで何かを見透かしたような目で、ニヤニヤと俺を見ていた。


「婆ちゃん、俺の顔に何かついてるのか?」

「いいや。ただ、青春してるなあって思ってね」


 婆ちゃんにも詳しい事は話していないはずなのに、どうやらお見通しのようで。俺は照るのを隠しながら、「風呂に入ってくる」と言って、その場から逃げ出すのだった。

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