秘密の場所へ
家に電話して、滞在を延長する旨を伝えてから、さらに二週間が過ぎた。
その間俺は毎日海に行って、陽子と泳いでいる。母さんとの約束通り、安全には気を配りながら。
姉貴は、今の俺の事をどう思っているだろう? そんなことを言ったら、陽子は『きっと喜んでる。だって、昔みたいに泳げるようになったんだもの』って言ってくれた。
陽子は姉貴と会ったことがないのに、まるでよく知っているみたいなことを言う。だけど、そうかもなって思ってしまうから不思議だ。
不思議と言えば、一緒にいてたまに思う。陽子は不思議なやつだって。
海を通じて心を感じるなんて、一歩間違えたら中二病っぽいことを時々言ってくる。だけどなぜか、それを笑い飛ばす気にはなれなくて。本当だったとしても、陽子なら有り得るなんて思ってしまう自分がいた。
泳ぎの練習は順調。最初は水に顔をつけるのも怖かったのに、昔はできてたはずのクロールもまるでできなくて、へこんだりもしたのに。そんな俺を、陽子はいつも励ましてくれた。
陽子と一緒にいるうちに、俺は泳ぐ楽しさを知った。思い出したんじゃなくて、知ったのだと思う。前だってちゃんと、泳ぐことは楽しいって思っていたけど、今感じている楽しさは、以前のそれとはどこか違う。それはたぶん、陽子がいるから。
一緒に泳いでいるうちに、だんだんと気づいて来ていた。俺はきっと、陽子の事が……。
だけど、俺は高校の夏休みを利用して、ここに来ているだけ。そういつまでもいられるわけじゃないんだ。
時間は有限。陽子と一緒に泳げる時間は、だんだんと少なくなっている。もうすぐ帰らなくちゃいけない事を陽子にも伝えたけれど、陽子は『仕方がないね』と、少し寂し気に笑うだけだった。もっと別れを惜しんでくれても、よかったのに。
そうして、一日一日と近づいてくる、別れの時。そして、明日にはとうとう家に帰るという日の前日、今日も朝から俺は、海で陽子と待ち合わせをしていた。
「おーい、陽子―!」
海岸にある岩に腰かけていた陽子の名前を呼ぶと、こっちに気付いて立ち上がって、笑顔で手をふってくる。お決まりのパターンだ。
『おはよう海斗』
『ああ、おはよう陽子。先に来てて、暑くなかったか?』
『平気。今日は少し涼しいから』
お互いに手話で、他愛も無い話をするという、本当にいつも同じやり取り。
今日でもうお別れと言うのが信じられないくらいだ。最後なんだから、何か伝えたい事は無いだろうか? 伝えなくちゃいけない事は無いだろうか。
だけどなかなか話を切り出せずに。もっと他に言わなきゃいけない事があるだろうと、自分にいら立ってくる。そしてそんな俺よりも先に、話をしてきたのは陽子の方だった。
『海斗、今日は来てほしい所があるの』
『来てほしい所? どこだそれ?』
『来れば分るよ。そこで……大事な話があるの』
大事な話と聞いて、つい淡い期待をしてしまう。けどすぐにそれを振り払う。そんな都合のいい事、あるわけねーもんな。
陽子はそんな俺の甘い期待なんて気づいてもいないようで、てくてく歩きながら、俺を案内して行く。
……こんな所があったのか。
連れてこられた場所は、丸くえぐれた入江が一望できる、低い崖。覗き込むと、青く澄んだ水面が揺れている。
『綺麗な所だな。ここが秘密の場所か?』
『そう。私からの卒業試験。ここから飛び込めたら、海斗は合格だよ』
『飛び込む? 陽子、最初会った時は俺が飛び込むのを止めようとしてなかったか?』
実際は飛び込もうなんて考えていなくて、陽子の勘違いだったんだけど。すると陽子は慌てたように、手をぶんぶんと振ってくる。
『あの時の海斗は、見ていて危なかったから。飛び込んだら、もう戻ってこれないような気がして。けど今の海斗なら、きっとできるよ』
『あの時の俺、そんな危なかったのか? けどまあ、確かに今ならできる気がする』
もう一度崖の下を覗く。
三年前までは、毎年のように泳いでいた海。辛いこともあったけど、今はハッキリ言える。俺は海が好きなんだって。
隣に立つ陽子に目を向けて、決意を固める。
『……行くか、陽子』
俺の言葉にこたえて、笑顔で自分の胸に手を当てる陽子。これは、了解のサイン。
俺達は頷き合って、揃って大地を蹴る。
重力に従って、水面に向かって落ちていく。もう怖いなんて思わない。陽子が隣にいるから。
滞空時間はどれくらいだっただろう? 空が、陸が、海が、ゆっくりと視界を流れて行く。そして飛び込んだ水の中。それはどこまでも青くて、俺達を優しく迎えてくれる。
水の中で、水面に向かって上がっていく泡を目で追うと、太陽がキラキラと輝いていて、俺は全身で、海を感じていた。
「——ぷはっ!」
水面から顔を出した俺は、大きく息を吸い込む。
とても晴れやかな気分。こんな風に思えるのも、全部陽子がいたから……陽子?
水面に浮かびながら辺りを見て、目を見開く。陽子が……陽子がいない!
どうしてだ? 確かに一緒に飛んだのに。着水の瞬間までは、隣にいたのに。
動揺して、キョロキョロと辺りを見る俺。すると今まで聞いたことのない澄んだ声が、どこからか聞こえてきた。
――大丈夫、私はここにいるから。
……なんだ今のは?
聞こえてきた不思議な声。いや、これは聞こえたんじゃない。直接頭の中に響いてきたみたいな、まるでテレパシーのような声。
俺は何故か確信した。これは陽子の声なんだって。
「陽子、お前なのか? どこにいるんだ!?」
――落ち着いて海斗。海斗は今、私を感じているだけ。前に言ったでしょ、海を通じて、意思を感じることができるって。
陽子を感じている? まるでオカルトのような話だけれど、不思議と納得することができた。前々から、陽子は少し不思議なやつだって思っていたから。
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