トラウマを乗り越えて

 陽子と出会った次の日、俺は約束の十時より三十分も早く、約束の浜辺にやって来ていた。別によほど泳ぎたいわけでも、あの陽子って子に早く会いたいってわけでもねーぞ。やることがないから、早目に来ちまっただけだ。


 既に海パン姿になっていて、まだ来ていない陽子を待つ間に、準備運動を済ませておく。それにしても陽子の奴、よくここを知っていたよな。ここは婆ちゃんから教えてもらった、知る人ぞ知る穴場で、昔姉貴と一緒に泳いでいた時も、俺達以外ほとんど人なんて見かけなかったって言うのに……。


 ――チョン。


「うわっ!」


 不意に背中にくすぐったさを感じて思わず振り返ると、そこには昨日と同じ水着姿の陽子が、俺の反応を見て向こうも驚いたように、硬直していた。どうやらさっきの感触は、陽子が背中をつついてきたもののようだ。


「ビックリさせるなよ。来たのならまず声を……」


 声をかけてくれ。そう言おうとして、ハタと口を閉じる。

 そうだ、陽子は喋る事が出来ないんだった。だから俺が気付いていない時は、さっきみたいに触れないと、来たって伝えられないんだ。

 陽子はシュンとしながら、頭を下げてくる。


『……ごめんなさい』

『いや、今のは俺が悪かった。それより、泳ぎ教えてくれるんだろ。早くやろうぜ』

『うん……。まずは、海に入ってみよう』


 言われるがまま、海に向かって歩き出す。

 いくらなんでも、海に入るくらいは平気なはず。風呂に入るのと同じだもんな。

 昔は、毎日のように泳いでいた。スキューバダイビングだってしてた。だから少しの間離れていたからって、またすぐに昔みたいに泳げるようになるさ。そう思って、海に入ったけれど……。


 ――――ッ!?


 足に冷たさを感じたと同時に、全身に緊張が走る。胸のあたりまで海水に浸かった頃には、言い用の無い息苦しさがあった。

 嘘だろ? まだ水に顔も付けていないのに、何でこんなに苦しいんだよ?


 思い出されるのは、三年前のあの夏の日。あの日俺と姉貴は、いつものように海で遊んでいた。泳ぐのが大好きで、海で泳ぐ毎日が楽しくて……あんな事になるだなんて、思ってもいなかった。

 泳ぎなれていたはずなのに、なぜかあの日に限って、姉弟そろって沖に流されて。俺は助かったけど、姉貴は……。


 ヤバい、視界が揺らいできた。動悸が激しくなってきて、息苦しい。俺はいったい、どうしちまったんだ? 

 もしかして、姉貴が怒っているのか? 俺だけが助かって。暢気に姉貴の命を奪った海で泳いだりなんかしてるから。違うんだ。俺は、俺は……。


 苦しさで今にも、意識が飛びそうになる。だけどそんな時、ふと何かが体を包み込んだ。

 温かくて、優しい何か。慌てて後ろを見ると、陽子が俺を包み込むように、背中から手を回していた。


「陽子!?」


 なんだこの状況? 正気に戻って慌てて離れると、陽子はゆっくりと手を、自分の左胸に当てて、そのまま右胸根と移動させる。これは……大丈夫って言いたいのか?


『海は、怖い所じゃないから。海斗なら、きっとまた泳げるようになるよ』


 なんだよ、分かったようなこと言って。俺の事何にも知らないくせに。……だけど不思議と、嫌な気持ちはしなかった。

 陽子になら、俺の抱えている物をさらけ出したって良い。そんな気がした……。


「俺さ、三年前にこの海で溺れたんだ。泳ぎ、得意なはずだったのに。その時姉貴も一緒に溺れて、俺は助かったんだけど、姉貴はそのまま……。海に入って思ったんだ。俺、この海に嫌われてる気がするって。もしかしてそれって、俺だけが助かった事を、姉貴が恨んでるから、そう感じるのかもしれないな」


 気がつけば手話を使う事も忘れて、腹の奥に溜まっていた思いを吐露していく。また泳げるようになりたいなんて言っても、せっかく陽子が泳ぎを教えてくれるって言ってるのに、結局、俺は怖いんだ。

 だけど陽子はそんな俺を見ながら、優しく笑いかける。


『それは違うよ。三年も前の想いなんて、もう残ってるはずが無いもの。想いはだんだんと、薄れていくものなんだから。恨んでいるだなんて、海斗の勘違い。海からは悪い意思なんて、何も感じないよ』


 ん? 手話を読み間違えたか? 海からは意志を感じないって言ったように思えたけど。


『私は普通じゃないから。海を通じて、意志を感じることができるの。優しい心も、辛い心も。海斗から感じるのは、後悔と自責。海斗は昔あった事で、自分を責め続けてる。だから泳げない。だけど大丈夫、自分を許して、楽しく泳いでいたころをちゃんと思い出して。そしたらまた泳げるように、海が好きになるから』

「陽子、お前いったい……」


 まるで本当に、心の中を見透かされたような気持ちだ。陽子は、いったい何なんだ? 

 気になった。だけど、聞いちゃいけない気がして。そんな混乱する俺の手を陽子は握り、笑ってくる。


『泳ごう海斗。まずは、水に顔を付けるところから』


 まるで太陽のような笑顔で、何事も無かったみたいにそんなことをうながしてくる陽子。まだ海が怖いと言う気持ちはあったけど、それでも陽子と一緒なら……。

 そう、二人ならきっと、また泳げるようになれる。そんな不思議な予感があった。

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