海が太陽のきらり

無月弟(無月蒼)

三年ぶりの海で

 真夏の太陽が照りつける中、俺は崖の上から海を見下ろしていた。

 最後にここに来たのは三年前……中学二年生の頃か。だというのにここから見える海は、あの時と何も変わらない。

 変わってしまったのは俺の方。前はここから海めがけてダイブして、気持ちよく泳いでいたって言うのに、今はそれができないでいる。俺は怖いんだ。大切な人を奪った、この海が。


 あの日以来、俺は泳ぐ事が出来なくなってしまっている。ここに来ればもしかしたら、気持ちよく泳ぐことができていたあの頃の事を思い出して、前に進めるかって思ったけど……どうやらそう上手くはいかないみたいだ。

 眼下に広がる海を見ながら、やるせない気持ちになってため息をついていると……。


「――うわっ!?」


 不意に後ろから腕を引っ張られて、体勢を崩した俺は尻餅をついた。

 いってー。人が感傷に浸っているって言うのに、何なんだよいったい。心の中で悪態をつきながら、尻餅をついたままの体勢で振り返ると、腕を引っ張ったであろうそいつの姿が目に飛び込んできた。けど……。


「……なんだお前?」


 そこにいたのは俺と同じ歳くらいの女の子。真っ白な肌をしていてサラサラとした黒髪の、ショートカットの子で、空色の水着を着ている。そして彼女は何故か、慌てたように手をバタバタと動かしているけど……いや、待てよ。この手の動きは……。


 もしかして手話? そうだ、手話だ。分からない人も多いかもしれないけど、昔手話を習っていた俺は、彼女の手の動きを見て、何が言いたいかを読み取ることができる。声を発さなくても動きで意思を伝えることができる、それが手話なのだ。


 俺は昔泳げた頃、スキューバダイビングをやっていて、水中でも意思疎通ができるように手話も習っていた。しかもダイビング用のヤツではなく、耳が不自由な人とでもコミュニケーションがとれるような本格的なものを。

 だからコイツが言わんとしていることは分かったんだけど……。


「ええと、なになに……自殺……ダメ? って、何が自殺だ! 別に飛び込もうとしていたわけじゃねーよ!」


 瞬間、彼女はビクッと身を震わせる。やべ、怖がらせちまったか? つーかコイツ……。

 俺は立ち上がって、彼女と向き合う。もしかしたら傍から見れば、華奢でひ弱そうな女の子に、俺が絡んでいるように見えるかもしれないな。なるべく刺激させないよう、小さめな声で語りかける。


「ええと、悪い、大声出して。お前、手話使ってるけど、俺の声は聞こえてるのか?」

 ――コクコク。


 首を縦に振ってきた。


「じゃあ、喋れはするか?」

 ――ブンブン。


 今度は首を横にふる。

 なるほどね。手話を使う人の中には、耳が不自由な人もいるけど、この子の場合耳はちゃんと聞こえていても、声は出せないという事らしい。


「俺も手話使えるんだけど、口で喋るのと手話で話すの、どっちがいい?」


 すると彼女は少し考えるように上を見た後、胸の前で両手の人差し指を立てて左右交互に上下に動かす。そしてその後、今度は顔の前に拳を持ってきて、前に出す。これは、どっちでも良いって意味か。

 手話を使うのは久しぶりだけど、案外覚えているものだ。それじゃあ、俺も手話にするか。向こうが手話で話しているなら、こっちも同じ手話で返した方がやり易い。で、ここからがようやく本題だ。


『さっきも言ったけど、俺は別に自殺なんて考えてねーから。ただ海を見ていただけだよ』

『そうだったの? ごめんなさい』

『別に謝んなくていいよ。勘違いだったけど、助けようとしてくれたんだろ。お前、この辺に住んでるのか?』

『近くに住んでる。アナタは?』

『俺は夏休みの間、近くにあるばあちゃん家に遊びに来てるだけ』

『そう……この辺は何もないけど、海に泳ぎに来たの?』


 前のめりになって尋ねてくる彼女だったけど、俺はすぐに答えることはできずに、手の動きが止まってしまう。

 泳ぎに、かあ。そうだな、泳げたらって、俺も思う。だけどダメなんだ。さっき崖の上から海を見て思った。やっぱり俺は、もう泳ぐ事が出来ないんだって。

 すると黙ってしまった俺を見て、彼女は右手を横にしてた後、ジャンケンのチョキの形を作って、人差し指と中指をパタパタと上下させながら、『泳ぐ』を意味する動きを作ってくる。


『もしかして、泳げないの?』

『そんな事ねーよ。泳げたよ、昔は……。さっきお前は止めてたけど、前はあの崖から、海の中に飛び込んでたんだぜ。あ、もちろん自殺じゃねーからな。つーかこれくらいの高さなら、上手く着水すれば何てことねーよ』


 この崖はそんな高くないから。昔は毎日のようにここから海へと入っていたんだ。そう、昔はな。

 すると彼女は、なぜか切なそうな顔をしながら尋ねてくる。


『昔は……今は違うの?』

『ああ、ちょっとな。だからもう、飛び込むなんてバカな真似しねーから、安心しろ。助けようとしてくれて、ありがとうな。一応礼を言っておく。じゃあな』


 彼女の横をすり抜けて、去ろうとする俺。だけどその瞬間、さっきと同じようにいきなり腕を引っ張られた。


「わっ、今度は何なんだよ!?」


 手話では無く、思わず声が出る。振り返ると彼女が腕を引っ張っていて、じっと俺を見ていた。そしてぱっと腕を放したかと思うと、忙しなく手を動かしていく。


『泳ぎ、私が教えようか? 昔は泳げたのなら、また泳げるようになりたいんでしょ』

「は? そんな事……」


 無い……わけじゃない。また泳げるようになったら。それはずっと、思っていたこと。今日ここに来たのだって、過去を乗り越えて泳げるようになりたかったからなのだから。けど、だからと言って今会ったばかりの子に、泳ぎを教わるだなんて……。


『気持ちは嬉しいけどさ、別にいいよ。無理してやることでもないし』

『私が教える』

『だから、別にいいって』

『教える!』

『…………』


 熱のこもった目で、じっと見つめられる。いったいコイツはどうして、こんなにも泳ぎを教えたがるのだろう? 根負けした俺は、しぶしぶ首を縦に振る。

 ……実は内心、少し喜んでいたのかもしれないけど。けど、本当の所は自分でもよく分からない。


『ここの近くの浜辺、わかる?』

『ああ、そこなら前に姉貴とよく……そこで練習するのか?』

『うん、明日十時に、そこに来て』

『分かった、明日だな』


 泳ぐとなると、海パン用意しねーとな。また泳ぐ事ができればって気持ちで、こんな田舎まできたけど、本当に泳ぐとは限らなかったから何も用意してなかったからなあ。

 そんな事を考えていたけど、ここで俺は大事な事を忘れている事に気がついた。


『そう言えば、まだ聞いていなかったな』

『?』


 分からないといった様子で小首を傾げる彼女を見て、可愛いなんて思いながら、俺は落ちていた棒を拾って、地面に字を書いた。


『『海斗かいと』、それが俺の名前な。お前は?』


 俺から棒を受け取ると、彼女も同じように地面に名前を書く。


『『陽子ようこ』……私の名前』


 陽子、ね。

 それが俺と陽子の出会い。不思議な夏の物語の始まりだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る