第10話 天使
教室での茜はハリスの天使であり続けた。
――いや。
別の一面を見てしまったわたしの目には彼女は変わって見えた。わたしの見方が変わったのだろう。
茜は巧妙に振る舞う教室の女王だった。彼女はどちらかと言えば地味で控えめな存在であったはずだが、それは擬態であるらしい。教室は茜を中心に動いていた。彼女は言葉少なに、穏やかな笑顔で、けれど向かい合った者を自然と従わせる。彼女の一挙手一投足にクラス全員の注意が払われ、わずかな仕草一つで生き物のように集団が動く。教壇に立つ教師でさえ無意識に茜の顔色を窺っているかのようだった。京子先輩が茜を紡ぎ手にたとえていた理由がわかった気がした。彼女は紡いだ糸で周りの人間を絡め取り、逃さない。クラスメイトたちは茜の
そして、気づいた。
教室でわたしを孤立させていたのは茜なのだと。茜は誰かがわたしに話しかけるとその人物が気まずい思いをするよう仕向けていた。あからさまにではない。誰もその意図には気づかないだろう。茜自身も意識していないかもしれない。けれど無言の圧力は確実にわたしの周囲からクラスメイトたちを遠ざけていた。
教室でのわたしは誰とも会話を持たない日々が続いていたけれど、茜とは密かな接触を持つようになっていた。廊下で擦れ違い様にこっそりとポケットに飴を忍ばせてきたり、素知らぬ顔で小指を絡めてきたり。机の中に花が入っていることもあればノートにメモが挟まれていることもあった。昼休みには示し合わせずとも部の畑で落ち合ったし、事実上休みがなくなっていた部活でも毎日を共に過ごした。
二人きりで過ごすときの茜はしばしばあの、わたしを呼び捨てにする一面を見せるようになったけれどわたしはもう驚かなかった。むしろ気にかかっているのは茜とわたしの間に生まれた微妙な緊張感だ。
たぶんそれはわたしが茜の額に口づけをした時に始まった。彼女を好きだと口にしたことで確定的になったのだろう。指先に触れたり視線で会話することは増えていたが、声に出しての会話は微かなぎこちなさを帯びる。
この日もわたしたちは活動日でもないのに部室に入り浸って腰機を手にしていた。授業のコマ数の多い二年生が来るのは小一時間経ってから。話題は昼に見回りをした綿花畑だ。
「綿花がずいぶん膨らんでた」
「ええ」
「笠紙をかける作業はもう始めちゃっていいのかな」
「どうかしら」
「京子先輩に聞いてみようか」
「……ええ」
こんな具合だ。気安いとは言いかねたし、端から見ていても仲の良い友人同士には見えなかったろう。実際、部の二年生には「喧嘩でもしたの?」と訊かれたことがあった。言い得て妙だろうか。何しろ実際に噛みつかれているのだ。
綿花の収穫は時期の見定めが難しい。露地による綿花栽培の北限は東北地方までと言われているそうだ。種苗をプランターで発芽させ、六月に入って畑に移し、目一杯の生育期間を稼いでも綿花が弾ける前に冬が到来してしまう。実が弾ける前に雪やみぞれに降られたり、霜が降りればそれでおしまいだ。綿は固く実を閉ざしたまま腐ってしまう。学園での収穫期は冬を目前にした十月末から十一月半ば。雪の舞い始める季節だ。
「ハウス栽培にすれば確実なんだろうな」
「予算がハウスだけでいっぱいになってしまいますわ」
「そうだね。うちの部は素材の自給が売りだし、露地栽培も伝統だし」
北海道ではハウス栽培は圧倒的に有利だ。霜害の心配もなく低温にも強い。虫害に弱い綿花であれば栽培にかかる手間もずっと少なくなる。
けれど綿花栽培は紡織部のチャレンジとして始められた文化だった。農業試験場でさえ成功していなかった北海道での露地栽培を初めて成功させたのがハリスの紡織部であり、それを引き継ぎ発展させるのが部長を任せられたわたしの務めだ。コットンを得るためだけならばなにも苦労する必要はない。繊維問屋から買ってくれば良いのだ。機械で紡いだ輸入糸は驚くほど安い。
「浅葱さんは――」と言いかけて茜は口調を変える。「浅葱は部長を引き継いでから伝統に拘るようになったわね」
「嫌?」
「いいえ。伝統はハリスの乙女のペティコート」
この学校ではよく使われるフレーズだったが、誰にも意味がわからないと言う不思議な言葉だ。
「うぅん。やっぱり笠紙かけは明日から始めちゃおう」
気象庁の週間予報と月間予報を眺めて決断する。このところの函館は晴天が続いていたが来週半ばには天気が崩れそうだった。綿花ひとつずつに紙のカバーを掛けてやることで収穫を確実にする。
「ね、浅葱。この冬はオヒョウを収穫してみない?」
「オヒョウ?」
聞き覚えのある響きに首を捻る。そうだ、と思い出したのは白身魚のフライだった。寄宿舎のメニューに時折登場する。
「魚釣り、するの?」
茜は呆れた顔でわたしの癖毛に指を絡めて意地悪に引っ張る。
「違うわ。フィレオフィッシュの話をしているのではないの。北海道に自生する
「痛いってば。……オヒョウって言うの?」
「オヒョウは木の名前。オヒョウから取った布をアイヌはアツシと呼ぶわ。
「へええ」
道産子だからだろうか。茜はこんな知識にも詳しい。
「
藍染めのための材料だ。量は少なかったが、一応それらしいものはできていた。夏休みに浴衣を染めるために建てた藍は昨年収穫したすくもを材料にした。
「オヒョウと蝦夷大青でアイヌの衣の再現、かな?」
「悪くないでしょう?」
くすくすと笑いながら茜が弄んでいたわたしの耳の上の髪束を編み始めた。茜の言うとおり確かに悪くないアイデアだ。紡織部では毎年、何らかの新しいチャレンジをするのが恒例なのだと聞いていた。蚕も綿花もそうしたチャレンジの積み重ねの中から生き残って伝統となったらしい。もちろんそれは失敗の歴史でもある。麻の栽培や日本伝統種の蚕の飼育には失敗したと過去の部誌には記録があった。
「で、オヒョウはどこに行けばあるの? そもそもこのあたりで自生してる?」
「してるわ。エゾシカが樹皮を食べてしまうとかで少なくなったみたいだけれど」
「エゾシカが?」
「増えすぎて食害が問題になっているの。この二十年くらい」
「でも、それじゃあ、わたしたちが採集するわけにもいかな――っ痛! 茜、引っ張りすぎ」
「立木から皮を剥いだらそれは怒られるけれど、伐採されたオヒョウの樹皮をもらってくればいいのよ」
「どこから?」
「学園の南の斜面。間伐して陽射しが入るようにするんですって」
「ああ、初等部の子が入り込んで迷子が出たもんね」
髪ゴムで三つ編みの先を括り、茜は満足そうに頷く。
「じゃあ、伐採作業のボランティア参加でもしてみる? 報酬代わりにオヒョウの樹皮をもらってくることにして」
「やあね」
「うん?」
「樹皮だけもらってくればいいと思っていたのに、浅葱は本当に良い子だこと。ボランティアですって? 癇に障るわ」
三つ編みを掴んだ茜がわたしの頭を引き寄せる。いたずらっぽい、と言うには少しばかり剣呑な光を帯びた視線が間近でわたしを覗き込む。
「あんまり近づくとキスしちゃうかも」
数センチの距離を残して止まった茜の顔にわたしの方から額を合わせる。こつ、と骨に響いた感触は少し痛かったけれど茜もわたしも視線を逸らさなかった。
「唇の傷はもう痛まなくて?」
これはたぶん、噛みつくかもしれないとの警告なのだろう。けれど、額に口づけを受けただけで耳まで真っ赤になってしまう彼女を見ていればそれが虚勢でしかないのは想像に難くない。
もっとも平静を装っているのはわたしも同じだ。額から伝わる体温と吐息の気配に、躍る心臓を懸命に押さえつけるので精一杯だ。
目の奥を覗き込みながら指先を頬に触れさせる。びくり、と背中を震わせたのを見て身を離す。握られていたはずの三つ編みの先はするりと茜の手から滑り出した。
何事もなかったかのように腰機の操作を再開する。膝の上の織機ではスカーフタイを織っているところだった。制服一式を織り上げるのが一年生の後半から二年にかけて課せられた課題だ。
「……浅葱さんはずるいですわ」
いつもの口調に戻った茜が軽く息を吐く。わたしは真顔で頷いてみせる。
「あっちの茜も悪くないけどこっちの茜の方がずっと好き」
「ほら。またそんなことをおっしゃる」
茜が言いながら立ち上がり、お茶の用意を始めた。わたしを腰機から引き剥がそうということなのだろう。機を織りながらの飲食は厳禁だ。コーヒーも紅茶も染料としても使われる素材で万一織りかけの布にでもこぼそうものなら取り返しがつかなくなる。となりの高機に張られているのは二年生の卒業制作なのだ。
「紅茶とコーヒー、どちらになさいます?」
紅茶、と腰機を外して立ち上がる。織りかけのスカーフはすでに絹らしい光沢を放っていた。ふうわりと膨らませることができ擦れにも強いナイロンのスカーフタイは華やかではあったけれど、手織りの絹スカーフタイは紡織部員のトレードマークだ。
「春までに冬物一揃い、間に合うかなぁ」
テーブルについて両肘を突き、茶器を整える茜の後ろ姿を眺める。ハリスの制服はオーソドックスなセーラーだ。彼女の制服は体に合わせて手を入れられているのだろう、スカートや上着の丈は変わらないものの制服特有の野暮ったさは消えていた。さりげなく浮かび上がった腰の線が女性らしさを主張している。柔らかな曲線が優美だ。
「今のペースで作業していれば二月にはマフラーと手袋まで揃いますわ」
差し出されたカップを受け取る。茜の言葉は独白への返事らしい。
「襟巻きは先に織っちゃおうかな」
「そう言えば四月の浅葱さんはマフラーもしていませんでしたわ」
「よく覚えてるね」
柔らかな笑みが返ってくる。当然と言う意味なのか、偶々と言うことなのか。二人でひとつのマフラーを巻いて氷点下の展望台から眺めた景色が脳裏に蘇った。
「コートは買ったけど、襟巻きは端折っちゃって。春なんだからいいかなと思ってお小遣いに回しちゃった」
「まあ」
「食堂の盛りが少なくてさ、夜になるとめちゃくちゃおなかすいちゃって。夜食を買い込んだら経済難」
「少ないって、浅葱さんのお皿はいつでも山盛りでいらっしゃるのに」
「今はね。四月には大盛りなんて注文してる子いなかったんだもん。二週間くらい我慢して、我慢しきれなくなって恐る恐る頼んでみたら食堂のおばちゃん、大ハリキリ。わたしはエンゲル係数が下げられて一安心」
「浅葱さんだけおどんぶりですものね。でもそれならマフラーは早めに織ってしまった方がよろしいのではなくて? 雪が降るのは十一月以降ですけれど、もう間もなくコートや手袋が手放せない季節ですわ」
先週からすでに朝の教室には暖房が入っている。
「そうしようかな。お小遣いの節約にもなるし」
「私も織ってみようかしら。マフラー」
茜の言葉にわたしは口から滑り出しかけた言葉を飲み込む。
――互いに織った物を交換しない?
この一言が気軽に口にできなかった。茜の「織ってみようかしら」と言う言葉もわたしの反応を期待してのものかもしれない。それに応えることができないのはわたしの側に躊躇があるからだろう。意地悪な面を見せる茜に対してはわたしも大胆に振る舞えたけれど、本来のわたしは臆病だ。
二人の間に沈黙が降りた。目の前に置かれた紅茶を手に取る。その器は両手で包み込むには少しばかり熱かった。
「浅葱さんは踏み込んでこなくなりましたのね」
「…………」
「私のせいでしょうか」
無言のまま頭を振る。「好き」と言っておきながら積極的になれずにいるのはわたしの方だ。
「茜は――わたしのこと、好き?」
正面から茜の気持ちを確かめてみたのは初めてのことだった。
「ええ」
「友達として?」
「いいえ」
「いつから?」
「最初から。入学試験の時、浅葱さん、白いブレザーを着てらしたでしょう? 皆さん身を縮こまらせていたのに、小さな体で一人だけのびのびとしていて。素敵だな、と」
「……女の子が好きなの?」
「いいえ。正直なことを言わせていただければ同性に魅かれる自分にはへどが出そうですわ」
茜の言葉に仰天する。
「へ……。嫌なのにわざわざ唇を噛むような真似を?」
唇を噛み切られるまでの接触は思い返せば口づけそのものだ。歯を立てられるまでの間には数瞬の間があったような気もする。「へどが出る」との言葉は意外だ。
「あ、キスしてみたら気持ち悪くて噛まずにはいられなくなったとか?」
「ばか」
手近にあった羅紗紙の筒で叩かれた。
「浅葱さんの方こそ気持ち悪いと思いませんでしたの?」
「噛まれた時はそれどころじゃなかったもん。『おぞましい』なんて言われたし」
「そうでしたかしら」
「そうでした。二重でショックだったよ」
でしょうね、と茜は真面目な顔で頷いた。
「浅葱さんと出会ってから私なりに悩みましたわ。同性愛を扱った本も色々と読んでみたのですけれど」
茜は手帳を広げていくつかタイトルを挙げてみせる。
「面白いんですのよ。ゲイの筆者が書いたセクシャリティの本では何よりも最初に同性愛のマイナス要素が列挙されるのですけれど、小説や漫画ではおおむね美談として扱われますの」
「漫画なんてあるんだ」
「ええ。専門誌が。寮の娯楽室にも積み上げてありましたけれど。女子校の寮ではあれは禁書モノではないかしら」
ちょっとだけ、読んでみたいと思った。
「えぇと。えっちなシーンが多いとか?」
「いいえ。出会いの話が中心で一部の少女漫画よりはずっと健全。けれど禁忌を感じさせずに少女同士が恋に落ちる話ばかりですの。精神的な麻薬という意味ではずっと危険に思えます」
「へぇ」
「漫画の中の少女たちは――時代もあるのかしら――生理的嫌悪感も道徳的な葛藤も軽く乗り越えて、キスをして『好きです』『私も』って言うんですのよ。笑ってしまいますわよね。そんな簡単に乗り越えられれば誰も苦労しませんのに。こっちは月のものがくるたびに自分の体が汚らわしく思えて仕方ないありさまで、腹が立つやら羨ましいやら」
茜の言葉は理解できた。少女から女性へと急激に変化して行く思春期の体にはわたしも苦しめられてきたのだ。
「茜はそんな悩みとは無縁かと思ってた……」
「まあ、失礼ですこと。でも浅葱さんほどは悩まなかったのは事実でしょうし」
「え?」
「体を鍛えているのはそのせいでしょう? 女性らしい体つきになるのが嫌だからではありませんの?」
誰にも話したことのないコンプレックスをあっさりと見破られていたことに絶句する。確かにわたしは毎晩入浴前に筋力トレーニングと木刀の素振りを欠かさない。中学時代の習慣を継続しているだけではあったけれど、そもそも剣道を始めたこと自体が変化を始めた思春期の体への抵抗だった。合宿中にもトレーニングは継続していたので茜に知られているのは当然とは言え、理由まで見透かされているとは思わなかった。
「食事も闇雲に召し上がっているように見えてその実、脂肪を取らないように調整していますわよね。デンプンはほどほどに、蛋白質と繊維を山ほど。スポーツ選手のよう」
「……運動が好きで、お腹が減るだけだよ」
我ながら説得力のない言い訳だった。
「ふふ。そうかもしれませんわ。――話を戻しますわね。キスをしてみたのは、私も漫画や小説の中の少女たちのように壁を越えられるかどうか試したかったということもあるんですの」
「で、結果が」
「『おぞましい』。がっかりなさって?」
わたしは大きく息を吐く。
「先に言ってくれれば悩まなかったのに」
「早寝して、翌朝には倍のごはんを食べたくらい悩まれましたものね」
あの日の失態を指摘されて苦笑する。
「そういうのは忘れる努力をしようよ」
「嫌ですわ。こんな面白いこと忘れられるものですか」
「クラスのみんなに茜の性格の悪さを教えてあげたい」
ほほ、とわざとらしく茜が口元を隠す。わたしは冗談へと流れそうな会話の軌道修正を試みる。
「生理的嫌悪感は措くとして、信仰上の問題はないのかな。茜は幼稚舎からキリスト教教育を受けてきたよね?」
「幼稚舎組にとっては信仰は空気のような物ですもの。習慣、かしら。本当に神様がいらっしゃるかと訊かれれば首を傾げてしまいますわ。むしろ、中等部や高等部から入ってきた子の方が真摯に信仰と向かい合っているのではないかしら」
茜の言う通りだった。始業前には朝の祈りがあるし、聖書を読んだりキリスト教史を学ぶ授業もあったが、それだけだ。生徒同士で信仰について語られることはほとんどなかったし、積極的に礼拝堂へ向かう生徒は少なかった。信仰について思い悩み、熱心に祈りを捧げるのは宗教教育に惹かれて集まった外部生ばかり。幼稚舎からの内部組は日常の中で自然に手を合わせ、祈りを捧げるだけだった。空気とはよく言ったものだ。
「浅葱さんはどうなのかしら。私などよりずっと熱心でしょう?」
ハリスの属する宗派はキリスト教の中でも厳しい戒律を持つ。アメリカやヨーロッパでは社会が同性愛を受け入れ始めたことに合わせてキリスト教も変化しつつあったが、ハリスの護る教えは二十世紀初頭にこの地にもたらされたまま変わっていない。
その古めかしい教えに魅かれてこの地を踏んだわたしには同性愛は禁忌そのものだ。
「わたしは……茜のことは大好きだけれど、恋人になるのは無理、かな」
対面に座った茜の、ティーカップに沿わせた手に指を伸ばす。拒絶は――なかった。
「恋をした相手が浅葱さんで良かったですわ」
茜は、好きだと言いながら恋人にはなれないと言ったわたしの手を握り返し、微笑んでくれた。内心で見限られてしまうことを恐れていたわたしは安堵とともに戸惑いを覚える。
「……茜、強いね」
「ハリスには伝統がありますから」
「乙女のペティコート?」
「ふふ。そんな感じです。うちの学校の寮では必ず上級生と下級生が同室になるでしょう?」
「ああ。そう言えば」
「あれはソロリティの名残ですわ」
「ソロリティ?」
「アメリカの大学で流行った自治会、かしら。結社みたいなもので、上級生は下級生の面倒をみるし、下級生は上級生に奉仕しますの。結果として先輩後輩の間には強い連帯感が生まれると言うわけ」
「うちの部みたい」
「ええ。ただ、制度化してしまうと弊害も出てしまいがちでしごきやいじめの温床になったり、不祥事を起こす生徒が出たもので解散したのですけれど」
「不祥事って?」
「ソロリティはフリーメーソンの流れを受け継ぐ結社でもあって、入会審査や秘密の儀式が行われますの。上級生と下級生の間で結ぶ一対一の関係――
「そうなんだ」
行き過ぎたという儀式の内容は聞かずとも想像がついた。
「制度としてのソロリティはなくなりましたけれど、上下の結び付きを重視する土壌は残りましたわ。ハリスが厳しい戒律を持ちながら同性の恋にうるさいことを言わないのは――あくまでプラトニックでという条件がつきますけれど――そんな来歴があるからですの」
そういうものか、とわたしは感心する。寄宿舎の屋上で見つめ合ったり、寄り添っている二人組に罪の意識が無さそうなのはそんな伝統があるからかもしれない。
「わたしたちの関係もそうなのかな」
さあ、と茜は首を振る。
「浅葱さんはこうして手を触れ合っていることには抵抗はありませんの?」
「うん。むしろずっと触っていたいくらい。茜の指はほっそりしていていいな」
「浅葱さんの手は力強いですわ」
中学の三年間、竹刀と木刀を振り続けた指は節くれ立ち、手のひらも硬い。今も素振りを続けているせいか、毎日触れる
「どのあたりまで平気なのかしら」
「へ? どのあたり?」
茜の指が前腕から二の腕へと伝う。
「ちょっと。茜」
上膊部の内側、脇の下へと向かう部分を撫で上げられ、わたしは身を竦める。
「あら。浅葱さんは脇が弱そう」
「あ、か、ね!」
「私の方はこの程度ならあまり抵抗はないみたいですわ」
「わたしで試さないで欲しい」
「あら。浅葱さんは私が誰か他の方に触れても平気ですの?」
「許可を取ってからにしなさいってこと」
なるほど、と茜はもっともらしく頷いて机の下に手を伸ばした。部室に置かれているのは会議室で使われるような幅の狭い折り畳み机だ。互い違いに向かい合って座っていたのだが。
「ではちょっと足を失礼しますわ」
茜がそう言葉にしたときにはすでに手が膝頭に触れていた。スカートの裾から腿に触れてくる。
「茜っ!」
いくらなんでもこれは悪ふざけの度が過ぎた。わたしは立ち上がって身を乗り出しを平手打ちする。頬を打たれた茜はぽかんとわたしを見上げ、わたしは理由のよくわからない悔しさで目尻に涙を滲ませていた。わずかな沈黙の後、茜が項垂れてぽつりと呟く。
「ごめんなさい」
「……うん。わたしも感情的過ぎた。殴って、ごめん」
声も膝も震えた。目尻に溜めた涙が零れた。この場だけを見れば殴ったのがわたしの方だと思う者はいないだろう。
「顔、洗ってくる」
そう言い残して部室を出た。外の空気を吸いたかった。
クラブハウスの階段を駆け下りながら制服の袖でぐいと頬を拭う。校舎の本棟へ向かおうか迷ってから横手の井戸へ向かった。がちゃぽんのハンドルは肌が張り付きそうなほど冷え切っていた。構わずに三度、四度漕いでようやく水が流れ出る。夏場には冷たく感じられた井戸水も今は
ポンプを漕いでは顔を洗うことを三度ほど繰り返し、ハンカチを顔に当てて大きく息を吐く。ピンでまとめることをしなかった髪からは滴が落ちて制服の肩を濡らしていた。
「冷えるなぁ……」
空は澄んで高くに薄い雲が棚引いているばかりで風は冷たく気温は低い。枯れた花壇の間を抜けて食堂へと向かう。食事は昼休みしか供されなかったがここには自動販売機が並ぶ。暖かな飲み物を買い込んでクラブハウスへ戻ると一階の外階段の前で茜が所在なげに右往左往していた。
「茜?」
「浅葱さん……」
「どうしたの? どうかした?」
茜は顔を涙で歪めていた。声にもおろおろと動揺が滲む。
「戻っていらっしゃらないんじゃないかと思って。ああ、良かった」
「わたしが? 顔を洗いに出ただけなのに」
「だって。怒らせてしまったんじゃないかと。浅葱さんにとって信仰がどれほど大事な物なのかわかっていなかったんです。自分がとても酷いことをしてしまったような気がして。浅葱さんに見捨てられてしまうのではないかと思ったら不安で仕方なくて」
わたしはそんなに険しい顔をして部屋を出たのだろうか、と反省する。腕に縋る茜の手には痛いくらいの力が込められていた。
「少し驚いただけ。茜を見捨てるなんてするわけないよ」
「本当に?」
「本当に」
顔をくしゃくしゃにして縋り付く茜にいつもの美少女然とした面影はなかった。これほど余裕を失った茜を見たのは初めてかもしれない。わたしにしても茜を前に激したのはさっきが初めてだ。
頼りなげに右腕に掴まる茜の頭を抱き寄せる。わずかに体を強張らせたが、茜は抵抗もなくわたしの肩に頭を埋める。冷えた髪に頬を寄せ、髪の香りを胸一杯に吸い込んだ。腕の中で茜が繰り返し呟く。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「茜、泣きすぎ」
「だって」
「部室に戻ろう。コートなしでいつまでもこうしていたら風邪を引いてしまう」
言いながらわたしは茜のポケットに食堂で買った缶飲料を滑り込ませる。洟を啜りながらしゃくり上げる茜は暖かな飲み物を確かめて笑みを浮かべる。
「お汁粉」
「涙のしょっぱさで甘さが引き立つよ」
カロリーを気にしているらしい茜が自分に褒美を出したいときにだけそれを買うのだとわたしは知っていた。
「浅葱さん、大好きですわ」
「茜のご機嫌を取るならこれだよね」
涙の跡の残る顔で茜が笑う。その笑顔を見て思うのだ。やはり茜はハリスの天使なのだ、と。
二人並んでスチーム暖房のラジエーターに寄りかかり、暖を取る。手にはそれぞれ飲みものがあった。
「わたしたち、この先、どうなるのかな」
「こんな面倒臭い娘はお
冗談めかしてはいたけれど茜の瞳には不安の色が落ちていた。茜は十二単でも纏っているかのようだった。完璧なハリスの天使を演じていたかと思えばその下には嗜虐的な笑みを隠し、さらにその下には捨てられることにおびえる幼子のような心。
「面倒な性格はお互い様」
わたしは宗教者の多くがそうであるように頑なだ。神様が本当にいるなんて言わないけれど、戒律や道徳には強く縛られている。今の世となっては骨董のような石頭の持ち主だ。
「少し安心したんだよ」
「安心、ですか?」
「なんでも完璧に見える茜も取り乱したりすることがあるんだな、って」
茜は浅く息をついて苦笑する。
「浅葱さんには弱点ばかり見られて。でも、完璧だなんて浅葱さんが言うと嫌みですわ。勉強も運動も浅葱さんには敵いませんもの」
わたしは居住まいを正して話題を修正する。
「茜もわたしも同性の肉体には抵抗があるし、その上わたしには信仰がある。ね、茜。茜は自分のことを同性愛者だと思う?」
「いいえ」
「うん。わたしも同じ。正直を言えば同性に魅かれる自分がよくわからない。性別を越える恋、なんて聞こえはいいけれど、いざ自分の身に起きてみれば戸惑うだけでどうすればいいのかわからないし」
「私はなし崩しにしてしまうつもりでしたの」
「なし崩し?」
「戯れに紛れてスキンシップを深めて、慣れさせてしまおうと。けれど報いかしら。先を急ぎ過ぎて浅葱さんの嫌悪感を引き出す結果になってしまいましたわ」
「報いって」
「クラスメイトたちを操るような真似をしたことの。罰当たりなことをするのに慣れてしまっていて、浅葱さんも振り回せるなんて驕っていたのですわ」
「ああ。……そういう茜は苦手かな。どちらかと言えば」
「ええ。先ほど思い知らされました」
沈黙が降りた。
一方が男の子であればこんな時にも少し強引に押し切ってしまうのかもしれない。けれどわたしたちは互いに未熟な少女だった。生々しい肉体と性への嫌悪に共感が持ててしまう。信仰がもたらす禁忌への抵抗は茜も感じ取っただろう。その結果があの取り乱しようだ。
「こうしているだけではいけないのかな?」
肩を触れ合わせ腕を絡める。
「人の温もりっていいですわね」
「うん。幸せな感じがする」
「この先を求めるのは間違っているのかしら」
「ううん。そんなことはないと思う。でも、時間が欲しいな。大人の女性になってしまった体に心が追いつける時間。神様の祝福がいただけると納得できるだけの時間。――だめかな?」
「期限も保証もない時間?」
茜の声は穏やかで暖かい。
「そう」
「いいわ。でもひとつだけ」
「何?」
「互いの頬に接吻を。それを私たちの誓約としましょう」
時間が欲しいと
頷いたわたしは少し考え、ポケットから携帯電話を引き出す。用があったのはストラップにつけた豆本の聖書だ。その聖書を手のひらに載せて茜に向き合う。左手に載せた聖書には茜の右の手のひらが重ねられた。茜の目は先ほどの涙の痕跡を残して少しだけ充血していたけれど、瞳は静かな色を取り戻していた。
「この恋を大切にできるわたしでありますように」
空いた手も重ね合い、そっと顔を近づける。目を閉じて頬に接吻した。同時にわたしの頬にも唇の音が鳴った。
「ふふ。浅葱さんはこんな時にも自分を励ます言葉を口になさるのね」
「何よりもまず自分の気持ちがしっかりしていないと」
「そんな浅葱さんが大好きですわ」
先行きの見えないわたしたちの恋の門出だった。
――こんなに一途に誰かを思えるのは最初で最後だろう。
そんな確信があった。茜と離れ離れになってしまおうと、他の誰かと結ばれることになろうと、こんな恋は二度と訪れないだろう。大人と子供の端境期にある今だからこそできるただ一度の恋。
――布を慈しむようにゆっくりと着実に。
茜との関係を織り上げて行きたい。心からそう願った。
初恋、だった。
あかねいろ 藤あさや @touasa
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