第9話 翌朝

 翌朝未明。

 わたしは空腹で目を覚ました。食堂へ行ってみるとカウンターの隅には昨日の夕飯がラップをかけられて一善揃えられていた。部屋番号とわたしの名を書いた紙片が添えられている。誰かが取り置いてくれたらしい。

 ――同室の誰かかな。

 レンジで暖め直した豆ご飯とチキンソテーは瞬く間に胃袋に収まった。それだけでは物足りずに、準備を始めた賄いを急かして一番に朝食を平らげ、朝練の運動部員たちの誰よりも早く寄宿舎を出た。

 ――悩みはあってもお腹は空くんだ。

 眠れないだろうと思った昨晩も七時の点呼さえ待たずに寝てしまったらしい。昨日の晩は食事など二度とする気が起きないくらいにうちのめされていた気がしたけれど目覚めてみればいつも以上にご飯がおいしかった。いっそ健康すぎる肉体が呪わしいくらいだ。

 わたしが向かったのは校舎の礼拝堂だった。すぐ隣の敷地には教会の礼拝堂があったものの、早朝のこの時間は牧師さまと信者たちの朝の勤めがある。落ち着かないだろう。

 わたしは携帯電話のストラップに括り付けた豆本の聖書を握り締めて礼拝堂の席に座る。校舎の創建と同時に据えられたという木のベンチが軋んだ。祈りの言葉は唱えない。朝陽に照らされたステンドグラスの物語を目で追い、祭壇に置かれた地味な十字架を眺めていただけだ。

 十五分ほどそうしていただろうか。校庭から運動部の声が響き始めた頃だった。重い樫の扉が軋みを立てて開き、人の気配が現れた。ハリスでは登校時に礼拝堂へ寄る熱心な生徒も少なくない。わたしは目を閉じて聖書を手にしたまま動かずにいた。沈黙も大事な修養だ。

 ぎっ、と腰掛けていた列のベンチが鳴る。視線を上げると反対側の端に茜を見つけて混乱する。素知らぬ顔で黙祷する彼女からもやはり祈りの言葉は聞こえてこない。

 ――落ち着け、落ち着け。

 ここは礼拝堂だ。

「浅葱さん」

 顔を上げた茜に呼びかけられ、わたしは背筋を堅くする。

「昨晩はよく眠れまして?」

 穏やかな声に一瞬安堵の息を漏らしかけたものの茜の言葉は昨日の記憶を呼び覚ました。唇を噛み切られ「おぞましい」と捨て台詞を投げ付けられた。眠れたはずなどない――とむっとしかけて、早々と寝付いてしまったことを思い出して赤面する。八時間以上を眠って空腹で目を覚ましたのだ。

「晩ごはんも喉を通らなかった」

 悔しくて事実の一部だけを答える。

「まあ。泣き伏してしまわれました? まぶたが腫れていますわね」

 気配だけで笑って見せる茜はやはり昨日の茜だった。柔らかな言葉の下にうっすらと険が覗く。

「でも、浅葱さん、よく寝て、よく食べられたご様子。お肌がつやつやしていますもの」

「……早起きして昨日の夕飯と朝食、両方摂ってきた」

 渋々白状すると茜が肩を震わせ、身を二つに折ってしまった。

「――さすがに浅葱さんですわ」

「褒められているようには聞こえないよ」

 わずかに腹も立ったが安堵もした。常の茜とは違っていたけれど、思った以上に明るい反応だったからだ。

「茜、部室、寄って行かない?」

「ええ」

 少し考えるようにして茜は頷き、席を立ったわたしの横に並ぶ。わたしと茜は沈黙したまま礼拝堂を後にする。朝のクラブハウスは身体の芯までが冷えそうな空気が淀んでいた。昨夕、あんな出来事のあった場所だ。

「正直、驚きましたわ」

 部室に入るなり壁にもたれて茜が一人で笑いだした。わたしは後ろ手に鉄の扉を閉める。

「何が?」

「浅葱さんは礼拝堂でうじうじしているのがお似合いかと思いましたのに意外にしゃっきりしているし、私と二人きりになることも厭わないし」

 わたしは言葉も選べずにただ所在なく立っているばかりだった。

「それで――」と茜が身を乗り出してわたしの唇に指で触れる。小指で。紅でもすかのように。「――この傷の意味はわかりまして?」

 黙って首を振る。

「仕方のない人」

 薄い笑みを浮かべたままの茜の表情からは感情が汲み取れなかった。

「茜」

「はい?」

「わたしのこと、嫌ってた?」

「いいえ」

 即答する茜の目元はかすかに険しくなったけれど嘘をついているようにも見えなかった。ただ、何かに苛立っているのは感じられた。

「じゃあ何がおぞましかったの?」

「浅葱は私にキスをされてどう思ったのかしら?」

「どうって……。驚いた。唇を噛まれてもっと驚いたし、その後の言葉にも動揺したよ」

「素直な人だこと」

「ええと。茜はキスがおぞましかったの?」

 ふ、と気配だけで笑う茜。

「そうなるかしら」

 さっぱりわからなかった。わざわざ口づけを、しかも同性にしておいてその本人が『おぞましい』とは訳がわからない。

「浅葱はどう思ったの? 女からキスされて気持ち悪いとは思わなかった?」

 そう問われて初めて、わたしは口づけを性的な意味での接触と意識した。唇を噛み切られたことと投げつけられたきつい言葉に口づけが恋愛のワンステップであることは念頭から消えていたらしい。生暖かな感触が脳裏に蘇った。それは少しもロマンティックではなかった。ただ、茜の体温が伝わってきたことだけははっきりと思い出せた。

「ええと。その……よく……わかんない」

 しどろもどろと答えるうちに顔に血が上る。火照る頬に動揺が走る。

「ふうん。赤くはなるのね。――私たちは友達?」

「……うん」

「浅葱は友達とのキスを思い出すと赤面するのかしら」

「だって、友達とはキスなんてしないよ。普通は」

 その一言は明らかに茜を苛立たせた。見る見る吊り上がっていく眉にわたしは動揺するばかりだ。

 歩み寄った茜がわたしの顎を捕らえる。くい、と仰がされた仕草に心臓が踊った。

「今度は上唇を噛んであげましょうか?」

 言葉と共に茜の顔が近づいた。ただ呆気にとられていただけの前回とは違い、どうかしてしまったのかと思うほど鼓動が乱れた。訳がわからないままに涙が滲む。

 その涙に目を留めたのだろう、茜が目を細める。

「女の子なのね」

 茜の白い指先が目尻に浮かんだ涙を掬う。濡れた指先はそのまま口元へと運ばれていった。

「……塩味」

 わたしの顎を解放した茜は身を引いて呟く。

「フレペの滝って知っていて?」

「フレペ?」

「知床にある観光名所よ。その滝がね、乙女の涙って呼ばれているの。フレペってアイヌの言葉で『赤い水』って意味なんですって。面白いと思わない? 赤い水が乙女の涙だなんて。血の涙かしら」

 何がおかしいのか茜は一人で声を潜めて笑う。

「いつか行ってみない? 二人で」

「旅行に?」

「そう。冬がいいわ。摩周湖では御神渡おみわたりと丹頂を見て、知床ではオオワシを見るの。フレペの滝は凍っているかもしれないわね。有名なカムイワッカの秘湯は冬には辿り着けないかしら。知床五湖はどうかしら。ひぐまは見られるかしら」

 冬のひぐまは冬眠しているのではないだろうか、と思ったが口には出さなかった。代わりに口を衝いて出てたのは――。

「わたしを嫌っているわけではないの?」

「どうしてそんな話になるの。知床の話をしていたのよ」

「だって、訳がわからないよ。『おぞましい』って唇を噛んだ相手を旅行に誘うなんて」

 茜はいかにも楽しげに笑う。そして「沖縄にはね」とまた関係の無さそうな話を始めた。

「太平洋戦争で一度途絶えてしまった首里はなくらおりと言う織物があるの。沖縄らしい涼やかな夏の着物。その花倉織を復活させた織りの名手が『苦悩を抱いている人にしか魂の入った布は織れない』って言葉を残したそうよ。――浅葱、今朝のあなたはいい顔をしている。少女は愁いを帯びて美しくなるって本当なのね。きっと今のあなたの織る布には魂が宿るわ」

 次々と話題を乗り換えていく茜は捕らえどころのない蝶のようだった。移ろう話題はわたしの理解を拒む。ただ、茜がわたしを振り回して楽しんでいるらしいことだけは理解できた。

「ますますわからないよ。――ね、茜。わたしは部活を続けてもいいのかな。茜の側にいてもいい?」

「もちろん。逃げ出したら承知しない。第一浅葱以外の誰に部長が務まるの? 辞められたら部が瓦解してしまうわ」

「……ありがとう」

「青春ドラマみたいなセリフはやめて。ここで礼を言われる筋合いはないわ」

「そっか。じゃあ」とわたしは茜の頭をそっと両手で挟み込み、身を乗り出してキスをした。額に。祝福するように。

「…………」

 身を離すと茜はぽかんと口を開いてこちらを見つめていた。白い肌が見る見る朱に染まる。染液で薄く染まっただけの布を後媒染した時のように思いがけない血の色が浮かび上がった。

「え?」

「え? あら?」

 茜自身も赤面した自分に動揺しているらしい。そのうろたえるさまがあまりに可愛らしく、昨日来見せていた険のある一面を忘れさせた。見守るわたしの頬も自然に緩んだが、茜もそれに気づいたらしい。

「もうっ。何を見ているの、この唐変木っ。さっさと教室にでも行ってしまえばいいんだわ!」

 力強く教科書の詰まった鞄を押しつけられる。あっという間に鉄の扉から押し出されたわたしは、けれど、上機嫌でクラブハウスを後にした。何の脈絡も論理もない行動だったけれど、額への接吻は結果として正解だったのかもしれない。直感がそう告げていた。


 午前中を上機嫌で過ごしたわたしは昼休みの畑でも鼻歌混じりで堆肥の切り返しをしていた。いつもと同じように畑には来ていたものの、作業には加わらずにいた茜が少しだけ皮肉を含ませた声を上げる。

「ご機嫌でいらっしゃいますこと」

「え? そう?」

「不機嫌な浅葱さんというのはあまり記憶にありませんけれど、今日は特にご機嫌なご様子」

 恨めしそうに茜が横目でこちらを窺う。

「茜はちょっと機嫌……悪い?」

「さあ、どうでしょう」

 落ち葉の山を叩きつけるように押しつけてきた茜が鼻に皺を寄せて見せる。どうやら朝の出来事を根に持っているらしい、と頬が緩んだ。不意を衝かれて赤面する茜も愛らしかったが、それを恥じて不機嫌になる茜も魅力的だった。結局わたしにはどんな茜も愛おしい。

「ああ、そうか」

 天啓にも等しい直観がこの時わたしに訪れた。

「はい?」

「わたし、茜のことが好きなんだ」

 心の中で考えがまとまるより早く言葉になって唇からこぼれ出た。そして口に出してみればそれは何よりも確かな事実なのだと腑に落ちた。

「……なんですの。唐突に」

「わたし、ずっと茜の友達になりたかったんだと思ってた。良い友達になるための努力も欠かさなかったつもりだし、実際、良い友人になれていると思ってた。

 ――でも違ったんだ」

 茜が押しつけてきた落ち葉の塊をはらはらと堆肥の上に撒き散らす。鶏糞や兎の糞に落ち葉を雑ぜた堆肥は熟成して発酵臭を立ちのぼらせていた。腐敗臭とは違う心地良い香りだ。スコップで切り返せば湯気も立つ。

「最初からわたしは茜に一目惚れしていたんだね。ようやく気がついた」

 朝と同じようにぽかんと口を開けてこちらを見る茜の髪に落ち葉が絡んでいた。わたしに落ち葉を叩きつけたときのものだろう。それを取り除こうと手を伸ばすと茜が身を竦ませる。

「大丈夫。ほら。怖がらせるようなことはしないよ」

 手に取った落ち葉を示す。

「茜が昨日わたしに伝えたかったのは――思い知らせたいと言っていたのはそういうことだよね?」

 堆肥の山にスコップを突き立ててふと気づく。

「ああ。こんな鶏糞と落ち葉にまみれてするような話じゃなかった」

「……そうですわ」

 我に返ったらしい茜が口を尖らせる。

「本当に気が利かない人ですのね」

「うん。ごめん。でも噛みつかれた甲斐はあったかな」

「お気に召しまして? なんならもう一度噛んで差し上げますけれど」

 白い歯を覗かせて茜が笑みを作って見せる。

「まだ傷も治っていないのに。それより今朝みたいな茜がまた見たいな」

「はい?」

「赤面したときの茜はこれまでで一番可愛かった」

 新たな落ち葉を一抱え、頭から浴びせられた。

 この畑でのひとときがわたしと茜に新たな関係をもたらした。

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