第8話 引き継ぎ

 翌活動日。

 文化祭の後片付けで費やされた一日が終わると紡織部では三年生の職務引き継ぎが待っていた。クラブハウスには糸の張られていないフレーム織機が二つ並び、三年生が引退してしまうことに実感を与えていた。二台の織機が共に空になるのを見るのは初めてかもしれない。

「それで次の部長だけど」

 京子部長が勢揃いした部員を見渡す。

「私は高野を推薦したい」

「へ?」

 頓狂な声はわたしの口から漏れたものだった。

「わたしですか? ええと、でも、一年ですよ」

「推薦だからね。決定は現役の間で協議するのがうちの部のやり方」

 あとは任せた、と京子部長――いや、先輩は壁際の椅子に腰掛けてしまった。

「ちなみに会計からは同様に茜ちゃんを次期会計に推薦するよ」

 もう一人の三年生からはそんな言葉が告げられた。茜とわたしは顔を見合わせる。

「お言葉ですが、一年生に部長は」

「会計も大事なお仕事ですのに」

 口々に抗議すると二年生たちが身振りでわたしたちを黙らせる。

「三年生の決定は絶対。現役生で協議しろって言われたのだから京子さまに何を言っても無駄。だいたい、推薦されただけよ。受け入れるかどうかはわたしたち一、二年生の問題」

「三年生の決定が絶対なら、推薦だって決まりじゃないんですか。反対です!」

 ばん、と机を叩くと二年生たちがにやにやする。そのうちの一人が反問してきた。

「で、反対の理由は?」

「仕事を覚えるので手一杯の一年坊が部の運営なんて大事なこと、できる訳がないじゃないですか」

「そう? 浅葱は自分からよく動くし、浅葱が動くと自然に私たちも茜も動き出すしでこの部のリーダーには向いていると思うわよ。京子さま譲りだわね」

「そういえば、その通りですわ」

 茜は早くも二年生の側に回ってしまったようだった。内心で「裏切り者」と毒づく。二年生三人はどうやら諸手を上げて三年生の意見を受け入れる気のようだ。旗色が悪い。

「でも、一年が部長じゃ予算委員会とかでなめられちゃいますよ」

「上級生にそれだけはっきりと意見できるなら予算委員会でも文化部総会でも十分戦えるんじゃなくて? それに来年度の予算折衝はうちの部は強いわよ。三年生のお姉様方の作品、まず確実に全国手芸コンクールに入賞するもの」

「入賞って、応募はこれからじゃないですか」

「そ。でもすばらしい出来なのは一目瞭然で、文化祭でも本職の織り手の方から絶賛をいただいてたし。賭けてもいいわよ」

 入部半年の新入部員の目にも三年生の織物の素晴らしさは際立っていた。だからといって素直に全国レベルのコンクールで良い成績を収めることが出来るかどうかは判断がつかない。手織りの布など部員の織ったもの以外にはほとんど見たこともなかった。

「好成績はわたしも期待はしますが、皮算用は却下です。大体、先輩方は一年に指図されていいんですか。わたしを部長にしたら上級生でも遠慮なくこき使いますよ」

 わたし以外の全員が示し合わせたように、ねぇ、と互いに頷き合う。

「何です?」

「それだけ仕切れればやって行けるって証明しているようなものじゃないかしら」

 多数決、と言ってみようかと思ったが二年生が全員でわたしに仕事を押し付けようとしているのは明白だった。茜もすでに向こう側だ。推薦という形にせよ、三年生が後継者を指名したのが痛い。名指しされた時点で趨勢は決まっていたのだ。

 ――これは、観念するしかないのかな。

 恨みがましく京子前部長を見る。やっかい事を押し付けた当人は鼻歌交じりで折り紙なぞを折っていた。もともとは和紙の染めを楽しみたくて入部した人なのだと聞かされたことがあった。

 ――仕方ないか。

 部長の仕事を成し遂げてようやく部活中に折り紙で遊べる余裕が出来たということなのだろう。部活動の責任者なんて誰にとってもやっかい事だ。特に良いことがある訳でもないのに面倒ばかりが押し寄せる。京子先輩も好きで引き受けた訳ではないだろう。

 わたしは覚悟を決めた。

「どうやら全員で結託なさったようなので部長のお仕事を引き受けさせていただきますが――」歓声と拍手が起きた。「――が、条件を一つだけつけます。皆さんの意見自体は拝聴しますが、部長としての決定はわたしがしますし、部長の決定は絶対です。三年生でも指示には従っていただきます。それでよろしければ引き受けさせていただきますが」

 どうですか、と視線に力を込めて上級生たちを見渡す。

 京子先輩のように人格で統率するにはわたしは人望が足りない。かといって、部員を統率出来なければ集団作業は捗らない。形だけでも絶対的な指導態勢を築いておく必要があった。「一年がなんか言ってるよ」と言わせないためだ。責任だけ押しつけられてはたまらない。

 案の定、二年生は全員で顔を見合わせていた。

「異議なし。秋以降は覗きに来るくらいしかできないけど、新部長の指示には従うよ」

 絶妙の呼吸で京子先輩が賛同を示す。これはつまり後見についてくれるという意味だろう。名ばかりではなく、実質的な指導力を三年生が保証したことになる。

 ――ありがとうございます。

 心の中で感謝を捧げる。

「異議がないようでしたら今この場から部長職を引き継がせていただきます」

「よろしくお願いする」

 と京子先輩。表立っての引き継ぎはこれだけだった。細かな仕事内容については個人的に聞けば良い。今この場では互いに頷き合っただけだった。京子先輩には特に可愛がってもらったという自覚もあったし、寄宿舎でも始終顔を合わせていた。互いの呼吸は掴んでいる。

「では、就任の挨拶に代えて最初の仕事をさせていただきます。――一、二年生起立。これまでご指導くださった三年生のお姉さま方に感謝を捧げます」

 引退する三年生への祝福はあらかじめ予定していたことだったけれど、その音頭を自分が取る羽目になるとは思ってもみなかった。

 部員が一人ずつ握手をして言葉を贈り、花を渡す。茜とわたしが最後だ。茜はきっちりと完璧なハリスの作法を見せたし、わたしはただ黙って強く手を握った。部員を代表し、一、二年生全員で織り上げたタペストリーを贈る。紡織部らしい贈り物だ。

 一列に並んだ部員たちの端に戻って声を張り上げる。

「ご指導、ありがとうございました」

「「ありがとうございました!」」

 二年生三人と一年生一人の計四人の声がわたしの声に唱和する。

「では、今日はこれで活動終了です。ああ、会計係は部長権限ということで茜を指名します。二年の先輩方はそれぞれの卒業制作のスケジュールを次の活動日までに立ててきてください。京子先輩、細かな引き継ぎは今晩、夕食後でよろしいですか? はい。では。――クラブハウスの片付けと戸締まりはわたしと茜で行います。解散」

 お疲れさまでした、と口々に挨拶を交わして上級生たちを見送る。最後に「お疲れ」と出て行く三年生に対しては深く頭を下げたまま送り出した。

 茜と二人だけになったクラブハウスはがらんと広い。

「ふふ。浅葱さんは体育会系のノリですのね。先輩方が驚いていましたわ」

「中学では剣道部だったし」

「初耳です。……道着姿、凛々しくていらっしゃったんでしょうね」

「それはどうだろう。汗臭いんだよ、防具が。特に籠手なんて最悪。遠目には凛々しくても近寄ると台無しだったり」

「まあ。高等部ではなぜ剣道ではなく紡織部に?」

 どう答えれば良いのかわからずに返答に詰まった。

「えぇと、前にも話したけど茜にくっついてなんとなく、かな。友達になるなら同じ部活が良さそうだと思って」

 きらりと茜の瞳が光った気がした。昨日の夕暮れの教室を思い出して背筋に緊張が走る。心のどこかに茜に対するおびえが残っているのかもしれない。

「そうでしたわ。お友達になってくださるために頑張られたって」

「それでなぜか部長だもん。びっくりしちゃうよね」

「よろしかったのですか?」

 え、とわたしは訊き返す。

「浅葱さんはいわばお付き合いで部を選ばれたのでしょう? なのに部長なんて責任を一年生で負わされてしまって」

「うん。それはいいんだ。入ってみたらこの部はわたしに合っていたし。中学の時の部活よりずっと楽しいくらい。京子先輩にはお世話になりっぱなしだし、その先輩が指名してくれたんだから頑張らないと」

 前向きですのね、と茜が肩を竦めて嘆息する。少し投げやりに見える茜は珍しかった。

「茜まで会計で巻き込んじゃってごめん。でも二年生――次の三年生は面倒な仕事から解放してさしあげるのがいいかなって。現三年生を見ていて、雑事に煩わされて織りに集中するのが難しかったように見えたし。うちの部は三年生の引退が遅い分、一年が事務仕事や会計を負担した方がいいかなって」

茜が目を見張る。

「そうですわね。確かに、そう。……京子さまが浅葱さんを部長に推した理由はそのあたりなのかしら」

「え?」

「わたしじゃ浅葱さんみたいなことは思いつきませんもの」

「どうだろ。京子先輩は単に神経の太そうなのを選んだだけかも」

 くすくすと茜が上品に笑う。

「そうかもしれません。部長の仕事は体力が要りそうでしたもの」

「あ、か、ね。そういう時は否定するのが礼儀でしょ?」

 こめかみを拳で挟んでやろうと手を伸ばすと声を立てて笑いながら茜が逃れる。一転してまじめな口調になった。

「きっと京子さまは浅葱さんに部を渡したかったのですわ。力仕事や農作業に率先して取り組むし、何より気心の知れた相手に託したかったのでしょう。京子さまと浅葱さんの間には、以前にも申しましたけれど、息の通じている感じがします」

 確かにわたしと京子先輩は馬が合った。京子先輩はわたしを可愛がってくれたし、わたしも京子先輩に懐いていた。わたしがこれまで知り合ってきた人の中で一番自然な――二つも上の先輩に対して畏れ多いのだが――友情を結べた相手だと思う。ハリスを卒業してしまってもきっとこの人とは連絡を保てるような、そんな気がしていた。

「京子さまが羨ましいですわ」

「え?」

「浅葱さんとは一番のお友達のはずですのに」

「茜は、誰よりも大切な友達だよ」

「私もそのつもりですわ。でも、私と浅葱さんとでは少し思いの方向が違う気がします」

「方向?」

 聞き返したわたしに茜は黙って首を振る。掃除道具をロッカーに収め、寄りかかるようにして後ろ手にスチールの扉を閉めた茜の姿にわたしは微かな不安を抱く。

 ――茜だ。

 夏合宿の前夜。学園祭の閉幕直後。そして今。普段は穏やかな曲線を描く眉がきつく吊り上がり、強い意志を宿した瞳が炯々と光る。

「恐い? 私と二人きりは」

「え?」

「浅葱の一番の罪はね、自覚がないこと。今日はそれを思い知らせてあげる」

 かつ、と踵を鳴らして茜が踏み出した。気圧されるようにわたしは後ずさる。

「外部から来たのにあなたはハリスの誰よりも天使のよう。陰口を叩く同級生達を見て怒りはしても恨みは抱かない。どうしたらそこまで無垢でいられるのかしら」

 大きく一歩近づいた茜がわたしの胸を押す。後ろへよろめいたわたしは壁に背中を預けて身動きが取れなくなってしまった。

「でも、無垢なあなたの羽根は生まれついての純粋な黒。草木染めでは出ないくすみのない黒だわ」

 わたしは助けを求めて周囲を見回す。

「邪魔が入るのを期待しているのかしら。でも、残念ね。今日は現れそうもないわ」

 茜が両手でわたしのタイスカーフを掴む。喉元を締めるようにしてわたしを吊るし上げた。吐息の熱く感じられる距離で茜が囁く。

「助けを呼んでもいいのよ」

 茜はさらに顔を寄せると強引に唇を重ねてきた。

 わたしと茜の腕力差があれば軽く振り払えただろう。けれどわたしは何が起きているのかも理解できず、体を硬直させて立ちつくしていただけだった。口を塞いだ生暖かい感触が茜の口づけによるものだと気づいたのは、鋭い痛みを感じてからのことだった。

「っつ!」

 ぷつり、という感触とともに下唇の端を噛まれていた。反射的に引き剥がそうとしたものの彼女はわたしのスカーフを握り締めて離れない。

「おぞましいこと」

 耳元に囁いた茜はさらに耳朶を甘噛みして離れた。耳を食いちぎられるのではないかと身を固くしたけれど、軽く笑っただけだった。

 そのまま何も言わず、彼女は鼻歌混じりでクラブハウスの鉄の扉から出て行った。わたしは壁に寄りかかったままずるずると腰を落とす。

 ――血の味。

 ずきずきと脈に合わせて痛む口元にハンカチを当てる。血の色が滲んだ。

 ――茜色。

 布に滲んだ染みをぼんやりと眺めるうちにそれは赤黒い鉄の色へと変わっていった。そうだ、とわたしは思い出す。ビロードに織った茜への初めてのプレゼントがこの色だった。臙脂に近い深い赤。茜は今日もあのリボンを身につけていた。

 時計を見ると最終下校時刻を三十分近く過ぎていた。このままでは警備が来てしまう。のろのろと立ち上がり、戸締まりをしてクラブハウスを出た。管理部へ鍵を戻し、重い足を引きずって寄宿舎へと向かう。玄関を開けると炒め物の香りがわたしを迎えた。いつもならばこのまま食堂に直行するところだったが、今日はそんな気になれなかった。部屋へ戻るなりベッドへと這い込んだわたしに同室者たちは怪訝な顔をしたが、そんなことに構っていられなかった。

 ――わたしは何をしたんだろう。

 茜は「自覚がないことが罪」と言った。きっと、気づかないままに茜が傷つくような何かをしてしまったのだ。

 ――どうしよう。

 茜は同級生で唯一の友人だった。掛け替えのないたった一人の友達。その茜に唇を噛み切られてしまった。気まぐれや思いつきでそんなことをする茜ではないだろう。思えば、最初に茜が変貌した時点ですでにわたしと茜の間には問題が生じていたのかもしれない。もう二月も前のことだ。

 ――どうしよう。

 頭の中を駆けめぐるのはそればかりだった。

 唇の血はすでに止まっていた。口を動かす度に痛みが走ったけれど大したことではない。むしろ、痛いのは心だ。比喩ではなく胸が痛んだ。

 ――唇を噛み切られるなんて。

 そんな仕打ちを受けるほどのことをしてしまったのだろうか、と自問する。心当たりはなかった。痛みを味わえば理解できるのではないかと舌先でそっと傷を探ってみる。

 わずかに血の味がしただけだった。

 『おぞましい』

 茜は確かにそう言った。口づけする瞳は閉じられることもなく、表情も甘やかさとは無縁だった。その上『おぞましい』の一言。『思い知らせる』とも口にしていた。

 ――憎まれていたのだろうか。

 茜の考えが理解できなかった。どんな罪でわたしは唇を噛まれることになったのだろう。嫌われているとは思いたくなかったけれど、茜の投げかけた言葉はわたしへの嫌悪を示しているとしか思えなかった。

 疑問だらけだった。

 そしてわたしは独力ではその疑問を解消することができなかった。



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