エピローグ「シムルグの雛鳥」

 それから十日間、抜け殻のようになった彼女は学校にも行かず閉じこもっていた。


( 必要だからってわざわざ自傷しないでぼくを出しっぱなしにしていればいいじゃないか。ぼくと対峙したときの不気味なくらいの我慢強さはどこにいったの? おかしいよ、きみ )

「…… そうかも」


 前と同じように声の抑揚を消し、表情も消してしまえば楽なのだといろはは知っていたが、どうにもそんな気分にならずに彼女はただ桜子と会話することでせっかく見つけた自分を見失わないようにしていた。


( その調子で自分を見失ってくれたらカラダの主導権を奪うのが簡単になって、ぼくには大変都合がいいんだけどね? )

「……」

( あーあ、こりゃだめだ )


 桜子の呆れ返る声にも反応を返さず、いろははベッドに沈む。

 この厄介者に施設の人間も随分と手を焼いているようだった。


「いろはさん、いろはさん返事をしてちょうだい」


 とんとん、と彼女の部屋のドアがノックされる。

 呼んでいるのはどうやら施設の職員のようだった。


( ほらほらヒキニートしてないで行ってきなよ、いろは )

「んぅぅ…… ん」


 いろはは怠そうに起き上がり、しっかりとヘアバンドに羽根がついていることを確認するとコンパクトミラーをポケットに入れ、ドアを開けた。


「良かった、あなたに会ってみたい人がいるそうだから身だしなみを整えて応接室に来てちょうだいね」


 職員はそう言うと、すぐに忙しそうに去って行った。

 向かう先をいろはが見れば、積木を踏んづけて泣いている子供がいる。そのフォローに向かったようだった。


「身だしなみ……」


 髪は先程整えたばかりだし、今朝方風呂に入ったばかりだったいろははしっかりした服装というものがよく分からず、とりあえず予備の制服に着替えて行くことにしたようだ。

 五分もかからずに準備を終えて部屋から出る。


( 面会? それとも引き取りかな? )

「さあ」

( ぼくはお邪魔だろうから戻っておくよ )

「分かった」


 素っ気なく返事をしながらコンパクトミラーについた血を拭う彼女に、いくつか悪態をつきながら桜子はその中へと戻って行った。


( わたしを引き取る物好きな親戚なんて、いないはずだけど )


 少しだけ荒れた心境で彼女が応接室を訪ねると、そそくさと孤児院長が中へ入るようにと勧める。高校生になった彼女はもうじきお金が貯まり次第一人暮らしをする予定だったのだ。

 少し早めに厄介払いできそうで嬉しいのだろうと当たりをつけ、いろはがその部屋の扉を開いた。


「やあ、待たせたね」


 彼女が息を飲む音がした。

 きゅっと唇が引き結ばれ、そして思い出したようにパチパチと瞬きをする。加えて顔をごしごしと拭い、その光景が夢かなにかだと思ったのか頬をつねった。


「その反応は酷いな…… これは現実だよ」

「………… 先生?」


 彼女がか細い声で確認すれば、彼―― ナヴィドは笑顔で頷いた。

 学校で見ていたときとは違い、今はきっちりとしたスーツを身に纏っている。テーブルの上の書類にはいろはのものが大半で、更にその中に養子縁組の書類が混じっていることを彼女は視認した。


「いったい…… どういう……」

「いろいろと準備があってね…… ところでいろはちゃん、キミの気持ちはあのときと変わりないかい?」


 ナヴィドは優しく問う。

混乱しているいろはに性急な問答は少々酷だったが、彼女はしっかりと答えた。


「ええ…… わたしには、ほとんどなにもありませんから」

「キミがここで生きづらいと言うのなら、私は〝 手助け 〟をしてあげることもできるんだ。どうするかい?」

「ヒーローは…… そんなことまでしないんでしょう?」


 震えた声で絞り出した言葉は、彼の差し出した手を拒絶しているような言葉だった。それに彼は機嫌を損ねるでもなく、続ける。


「するさ、だって私は手助け屋なんだから。言っただろう? キミのお願いなら羽毛布団でも、なんでも用意してみせる」

「人間は足手纏いじゃ、ないんですか?」


 ゆっくりと彼女が受け入れられるように、ナヴィドは必要な答えを全て用意していた。


「キミはヒーロー助手になるのさ。こんな機会、滅多にないと思うよ? なにかと人間の助手がいたほうがやりやすいしね」

「…… いいん、ですか?」


 俯いたままいろはが言う。


「おっと、そうだね。子供の方から言わせるのは酷だ」


 ナヴィドはそのまま応接室のソファから立ち上がり、いろはの前に立つ。そして涙を堪えている彼女の頭にふわりと手を乗せ、微笑んだ。


「いろはちゃん、私の娘になる気はないかい?」


 とうとう決壊した涙腺をどうすることもできずに彼女は彼に抱きついた。


「…… は、い」


 普通の子供のように声を震わす彼女を、彼はそっと抱きしめ返してその背をさする。


「私の本当の名前はシムルグ。鳥の王さ…… キミを、私の義理の娘として迎え入れよう」

「はい、はいっ……」


 こうして、遠くから人間を見守っていた鳥の王は一歩踏み出し……


「あの……先生」

「なんだい?」

「先生の、長い長い生の……100年もいかない短い時間を、わたしがひとりじめしても……いいですか?」

「いいよ」


少女は、ついに想いを告げた。




―― 鳥さん、怪我をしてる。あなたひとりぼっちなんだね。

―― ありがとう、私の眷属を救ってくれて。君の名前は?

―― わたしは、いろは。

―― そうか、いろは。ありがとう。それではその子は返してもらうよ。




( 君が自分の生徒になったとき、とてもびっくりしたんだよね )


 それからの日常はあっという間だった。

 高校卒業と共にナヴィドの元で暮らすことが決まった彼女は、以前と変わりなく過ごしている。一年後、ナヴィドの元で暮らすことを楽しみにしながら。

 そして時折、彼の住んでいるマンションに押しかけては長い時間入り浸り、帰っていくのだ。


「先生、絵が入賞したよ」

「この前のやつだね。良かった」

「はい」


 金の額に飾られた絵には、描きかけだった大小の黄色い鳥が空を飛び回る姿が描かれていた。

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