其の二十一「約束」

「うぐっ、げほっげほっ…… くぅ……」


 力が抜けた際に落っこちたコンパクトミラーが開く。

 そこに映ったいろはは酷く苦しんでいながら、笑っていた。

 そして、とうとう許容量を超えた衝撃に彼女の内腑が悲鳴をあげて血を吐き出した。


「せん…… せ……」


 泣くことの滅多にない彼女がボロボロと涙を零す。

 それは生理的なものであり、絶望によってもたらされるものでもなかった。

 なぜなら、彼女はまだナヴィドのことを信じていたからだ。

 たとえ今彼女を襲っている苦しみがほんの少しの間の出来事だったとしても、耐え続けるだろう。

 彼女はそういう人物だった。


「たす……け……」

( 弱音なんて吐いてる場合じゃないよ。そんなこと言ったらますます付け込まれるってのが分からないの? 君って思ったよりバカなんだね )

「…… え?」


 いろはが驚いている間に彼女の身体は勝手に動き、その手がなにかを探すようにしていた。

 霞かかった視界でいろはが手の行方を追うと、そこにはコンパクトミラーと共に落とされたカッターナイフがあった。

 落ちた衝撃で開いたコンパクトミラーは彼女の吐いた血で真っ赤に染まり、ほんの僅かながら桃色に光っているようだった。


( 誰の許可もらってこいつのカラダを使おうとしてるんだい? 予約はぼくの方が先だよ! )


 震える手でカッターナイフをようやく掴み、いろはの手は勝手にその太ももへと振り下ろされる。

 一瞬、身体の中で奪い合うようになにかが暴れ狂ったような感触でいろはの意識が飛びかけるが、桃色の燐光を後押しに纏ったカッターナイフが勢いよく彼女の太ももに刺さった。


「いっ…… !!」

( やあ、お目覚めかな? いろは。なに諦めようとしてくれちゃってるの? ぼくを騙したときみたいな強い意志はどこにやっちゃったのさ! )


 影がいろはの身体から次々と抜けていき、最後には思い切り自傷したまま固まる彼女の姿が庭の真ん中にあった。

 無数の影は追い出されて苛ついているようであり、そして困惑するように彼女を遠巻きにして眺めているようだ。


「桜子、さん…… ?」


 カッターナイフを深々と足に突き刺したせいでさすがに抑揚が戻り、声を震わせているいろはが確認するように呟いた。


( そう、ぼくだよ! よくもやってくれたよ本当…… きみのせいでぼくはもう復讐ができない。なんてことをしてくれたんだよ! 復讐はきみとの契約でできないし…… おかげでぼくはきみと仲良しごっこするしかないってわけだ。 まったく、最悪な気分だね! )

「そっか……」


 安堵したようにいろはが微笑むが、その手は刺さったカッターナイフに添えられたままだ。いろはは痛みに耐えながらなんとか引き抜き、仕方なく制服についたリボンを巻きつけ、応急処置をする。


「いったぁ……」

( 自業自得だね、ざまあみろ。まあ、これ以上住民が増えるのは勘弁してほしいし、きみに協力してあげる。その代わり…… )


 独り言を零すいろはに影が再び狙いをつけるが、その身体に触れる直前に彼女自身の手によって斬り裂かれる。


(ちょっとカラダを使わせてもらうよ?)


 カッターナイフを持ったまま、傷などないように動く彼女はそのまま自分に迫る影だけを斬り裂き、はたき落とし、回避する。

 リボンに滲む血が痛々しいが、いろはの身体を使う桜子はどこ吹く風で影の攻撃をいなし続けた。


( いいねいいね、このカッターきみの大事なもの? すごく使い勝手がいいよ! )

「ずっと、使ってるから……」


 桜子は嬉しそうにカッターナイフを振るい、まるでストレス発散でもしているように笑っている。


『そこだ! 未練ごと消えろ!』


 段々といろはの口と声で物騒なことを言うようになった彼女に、いろはは不安になってたしなめるのだが効果が薄いのか( きみは黙って守られてろ! )と言われる始末だ。


 タイミングよく影を退けていく彼女を心中で眺めながら、いろはは仕方ないなと溜め息を吐いていた。

 辺りには黒い桜の花弁が巻い散り、少女の舞踏を彩っているが一向に終わりは来ない。

 影を斬り裂いたところで影は影。それが失われることはないのだ。


『しつこいやつは嫌われるよ! どうせそんなんだから未練が残ってるんだろう? カラダを手に入れてもきみたちに春が来ることは絶対にないね!』


 影を煽りながらも桜子の動きは鈍らない。


『こんなやつらに利用されてたなんて反吐が出るね!』


 どうやらそれが怒っている最大の理由らしいといろはは思った。

 それを桜子が聞いていたら酷い罵倒が飛んできただろうが、生憎彼女は目の前の影を処理するのに夢中だ。

 もはやいろはの声を聞く余裕も消え去り、ただただ興奮している。


( 先生、遅いな…… )


 もしや半分焦げただけでは効果がなかったのか?

 そういろはが思い始めていたとき、胸ポケットに入れていた羽根が光を浴びた。

 それを見てどうしようもなく焦燥に駆られたいろはは桜子に向かって何度も、何度も訴えかけるが彼女はほぼ暴走状態のようになっており、いろはの言葉を聞き入れない。


( 聞き入れてくれないのなら…… 無理矢理、奪い取るしかない )


 いろはが自ら手を伸ばす。その先には落としたままだったコンパクトミラーがあった。


『ちょっと、ぼくの邪魔しないでよ!』


 身体の制御を取り戻し、コンパクトミラーを手にしたとき時間がきた。


( ッチ、タイムアップか…… )


 真っ黒な月が大きな光に遮られる。

 そうして、落下してきた光の塊に全ての影たちが溶けて消えてなくなっていったのだ。

 いろははその光の中で目を瞑り、コンパクトミラーを胸に抱きしめていた。


( …… 危ない危ない、ごめんいろは。助かったよ )


 無事、桜子の声が聞こえることにいろはは安堵して顔を上げる。

 彼女が先程の光で消えてしまうのではないかと思い、いろはが無理矢理身体の主導権を握ってコンパクトミラーを守ったのだ。

 桜子が封じられているのはいろはの身体ではなく、コンパクトミラーの方だからだ。


「いい…… けど、暫く待っていてほしい」

( 分かったよ…… あ、でもぼくの器を後で変えて欲しいんだ。鏡じゃ割れたら終わりだし…… きみのカッターナイフに宿らせてくれれば永遠に刃の替えが必要のない素晴らしい働きをすると誓おう! いつも身につけているみたいだしね )

「やり方が分からない、けど…… 分かったらそうするよ」


 いろははその願いを聞き届け、コンパクトミラーの血を拭った。

 そして、この晩に一度あったカッターナイフの紛失を二度と起こさないように身につけ続けることを密かに目標とした。


「遅くなってすまない」


 眩しいくらいに輝いていた巨大な鳥はそのまま地面に降りるとそのクチバシをいろはの頬にすり寄せる。

 声は巨体にも関わらずいろはにはっきり聞こえる程度の音量しかなかった。きっと、それは彼の気遣いなのだろう。

 いろはは笑って、燃えてしまった羽根と同じものが大量に並ぶその身体に抱きついた。


「おや…… 怖い思いをさせて、ごめんね。場所の特定に時間がかかってしまった…… というのは言い訳だね。君が無事で良かった……」

「一人ではありませんでした…… けれど、先生…… 待ってました」


 少しだけ震えた声に彼…… ナヴィドは目を細め、されるがままに羽毛を弄ばれている。彼女が満足するまでいつまでも付き合うつもりのようだ。


「また制服がボロボロだね…… いいのかい?」

「いいんです…… だから、帰りましょう先生」


 いろはが言うとナヴィドは彼女の足の下からクチバシを差し込み、持ち上げる。そして慎重に己の首へと導くと奥深くにある羽毛に掴まるように言う。


「表層にある羽毛は抜けやすいんだ」

「ふわふわ……」


 ふわふわとした感触のそれをいろはが楽しんでいる間にナヴィドは顔を上げ、翼を広げる。

 そしてゆっくりと羽ばたき白黒の世界の頂点にある黒い月へと向かって飛んでいく。

 いろはは彼の羽毛によって寒さや風圧から守られ、ときおり擽られる鼻への刺激だけに襲われた。それも喜ばしいのか、背の高い羽毛によってろくに見えもしない景色を眺めてはしゃいでいる。

 声の抑揚は嬉しげに揺れていた。

 その反応を聴いているナヴィドは彼女の声が感情を乗せていることに満足して密かに笑う。

 初めて喜びが乗せられたそれを聴き、噛みしめるように。


「影の世界を抜け出すよ。しっかりと掴まって」

「はい」


 黒い月を突き抜ければ、その更に向こうには現実の月が静かに輝いていた。

 深夜の空をゆっくりと飛行しながら円を描くように人気のない場所へとナヴィドは降り立ち、再びクチバシでいろはを掬い上げて地面に降ろす。

 それから翼を畳んで彼女に向き直ると、見上げてくるいろはに彼はそっと話しかける。


「…… もう、私は教員をやめようと思うんだ」


 それを聞いていろはは目を見開き、首を振った。


「わたし、黙っています。先生がなんであろうとわたしの先生でいることに変わりはありません。先生なら、全てを忘れさせることだってできるでしょう?」

「いいや、それはしないよ…… 私には教員が向いていないようでね。興味本位でやっていたことだが、これからは思うままにやっていこうと思っているんだ」

「確かに教職は向いてないと思いますけど…… でもわたしは」


 いろはの素直な物言いに彼は苦笑して 「私の決めたことに人間が口出しするつもりかい?」 と威圧的に言い放った。


「それは…… でも、それは…………」


 いろははとうとうなにも言えなくなり、俯いてしまう。


「キミには桜子ちゃんもいるだろう? なにも寂しいことはないはずだが?」

「暴走しがちな彼女と一緒にいるためには、誰かの手を借りる必要もあります…… それに、わたしには居場所がありません。相談するべき大人もいません。先生はご存知でしょう? わたしは周りにただ合わせているだけで自分がない…… だから影に付け込まれたんです。でも、そのわたしが、今我を貫き通したいと思っているんです。お願いです先生、置いていかないで……」


 ただの子供のように我儘を言う彼女をナヴィドは優しく見つめて、そして目を閉じる。


「ヒーローは子供の願いを聞くべきだ。けれど、私は足枷をつけるつもりはないよ」

「遅れてやってくるヒーローのくせに、なにを言うんですか。それを言えるのは完璧なヒーローだけです」

「……」


 ナヴィドはやれやれと首を振り、自分の首元の羽根を一枚引き抜くと彼女に届くように頭を下げた。


「これをもう一度あげよう。だからもう少し返事は待っていておくれ」

「約束してください。必ず答えを出すと」

「そう言って、YESしか認めないつもりだろう?」

「ノーコメント、です」


 ナヴィドは苦笑し、いろはは笑い泣きをしながら彼のクチバシをそっと撫でた。

 彼は黙ったまま、 「さようなら」 とも 「またね」 とも言わずに翼を広げた。風圧に転がされるいろはには目もくれず、ナヴィドは去る。

 いろははその姿をコンクリートの地面に尻餅をついたまま見送った。


 いつも冷めていると言っていい彼女は、このとき確かな激情に支配されていた。

 やがて、ヘアバンドに自ら羽根をつけると一人ふらふらと帰途につくのだった。

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