其の二十「羽根を掴んで」

 いろはが目を覚ますと、そこは見知らぬ場所…… ということもなく、とても見知った場所であった。


「孤児院…… でも」


 そこは彼女が中学生のときからお世話になっている孤児院の敷地内だった。しかし、その雰囲気は明らかに異なっていた。

 いろはが地面から起き上がり、頭上を見上げるとそこには桜の木がある。孤児院の庭にも桜や椛はあるので相違ないのだが、その〝 色 〟が問題だった。


「黒い…… 桜……」


 見知った孤児院の景色は全て白と黒の色のない影のような世界に変貌していたのだ。

 彼女はもちろん、自分自身が影の津波に飲み込まれてしまったことを覚えていた。だからこそ、冷静にその場所を眺められる余裕があったのだ。普通ならパニックに陥ってもおかしくない状況だが、生憎と彼女はこの手の怪奇現象に呆れ返るほど慣れきってしまっている。

 今更怪異に攫われても慌てるような気概は持ち合わせていないのだ。


「そうだ、羽根…… よかった。ちゃんとある」


 いろはは己のヘアバンドがなくなっていないことに安堵し、そして耳の横で揺れる羽根がまだそこにあることを確認して立ち上がった。


「みんな、ちゃんとある……」


 制服のポケットに入れているコンパクトミラーも、カッターナイフもきちんとあるべきところにあることを確認し、彼女はさっさと歩き始めた。


「火をつけるもの、あるかな……」


 はたから見れば少々物騒なことを言いながら彼女は孤児院の中に入る。

 しかしながら、孤児院の中には誰もいないので彼女のその発言を注意するものなど、当然ながらいないのだった。


 暫く進むと、ふといろはは立ち止まった。

 ぱちり、パチリと、なにかが跳ねる音が聞こえてきたからだ。


「こんなに火はいらない……」


 珍しく表情を引きつらせて彼女は反射的に踵を返す。

 キッチンのある方から着々と火が漏れ出てきているのだ。

 彼女の顔色は青く、火を恐れているように見える。火事に対してトラウマめいたものがあるように、羽根のことも忘れていろはは走った。


「確か…… あのときも…… こんな感じで、逃げてた……」


 彼女が思い浮かべるのは孤児院に入るきっかけとなった事件。

 重い病気で入院していた彼女を襲った悲劇だった。

 父母か見舞いに訪れたその日、彼女は見知らぬ場所で目を覚ました。


( そう、ちょうどこんな風に…… 周りは焼けていた )



 その日、彼女が目を覚ますと他にも大勢の患者が床に寝かせられていた。そして周りは焼け爛れ重い音を立てながら真っ白で大きなイモムシのような…… バケモノが崩れ落ちていくところだった。

 両隣に並べられた両親は見るも無残に傷つけられ、押し潰されている。

 彼女の他に起きることのできた患者はどこにもいなかった。


「立てる…… ?」


 そんな彼女に手を差し伸べたのは真っ白な少女。

 パニックに陥っていたいろはは少女に縋り付き、泣きじゃくった。


「もう、大丈夫」


 不思議なことに真っ白な少女の周りには火が及ばないようで、彼女に手を繋がれたいろははゆっくりと玄関を目指すこととなった。

 いろはは感情的に両親を置いて行くことに抵抗を示したが、少女の握る手の力は強かった。


「あなたは?」

「やめてよ! わたしはお父さんとお母さんのところに!」

「…… だめ、あなたの名前は?」

「いいでしょう!? どうせ病気で死んじゃうんだから、今死んだって関係ない!」

「だめ」


 無理矢理引っ張られながらの押し問答にいろはが押し負けるのに、そう時間はかからなかった。

 中学生の彼女も、いつまでも駄々をこねても無駄だと気づいたのだ。


「いろは……」

「そう、わたしはルチア。Luciaルチア Radsラドズ。名前はCuliaクリアでもいい…… どちらも、一緒」


 抑揚のないルチアの声は不思議といろはを安心させた。




―― そんなに注射したいのなら、お前がしなさい。


 彼女は次々と襲い来る怪異からいろはを守り、火事の中無事病院から脱出することに成功する。

 そして問うたのだ。


「あなたは病気を治したい?」


 いろはの負ったところどころの火傷を観察し、そして呼吸器に重い病気を抱えている彼女を落ち着かせて首を傾げる。

 無表情、そして抑揚のない声で問われたにも関わらず、いろはにはその表情が優しく微笑んでいるように見えた。


「お父さんとお母さんは……」

「生きている人じゃないと、わたしはどうにもできない」


 答えは決まりきっていた。


「そっか…… 両親の代わりに、たくさん、生きなくちゃ…… いけない、よね……」

「それが、答え?」


 いろはは安心感をもたらすその声に憧れを抱いていた。

 落ち着き払ったその対応に、勇気を与えられていた。


「お願い…… します……」


 いろはが言うと、ルチアは無表情なから満足そうに息を吐いて彼女に向き合う。


「あなたの病、このCaladriusカラドリウスが引き受け、地獄まで持っていきましょう」


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 いろはが気を失い、次に目を覚ましたときにはもうルチアはどこにもいなかった。

 しかし、彼女の負った全ての火傷や病気がすっかりなくなっていたことでそれは夢でなく現実だったのだといろはは知ることができのだ。



( 鏡の中にいたのは…… ルチアだった。だから、きっと傷だらけだったわたしを助けたのもルチアなんだろうな…… )


 もちろん、迷い込んだ学校で優しくアドバイスをしていた青い文字も彼女だったのだといろはは気づいている。

 赤い文字が桜子によるものなら、他の文字は別の人物がしたものだと予想はできていたのだ。


( ルチアに憧れて…… 人を安心させられるように練習して…… そうしていたら、いつの間にか声がおかしなことになってしまったけれど…… でも後悔はしていない )


 彼女の声に抑揚がないのはルチアの真似をしていた弊害だったのだが、それをルチアは知っているのだろうか? それはいろはにも分からない。

 それよりも今大事なのは、この炎の海から逃れることなのだから。


「早い…… !」


 迫り来る炎に走り続けるいろは。


( 昔はこんなに走れるようになるなんて思ってなかったな )


 案外呑気に考えながら走るいろはは気づけなかった。

 なにか硬いものにぶつかりヘアバンドが歪むのを。

 そして、校章と共にふわりと抜け出した羽根が彼女の視界を掠めてどこかへと向かっていく。

 一瞬の痛みに足を止めた彼女はすり抜けていく黄色い羽根に手を伸ばした。

 しかし、伸ばした手は届かない。


 羽根が炎の中へ飛び込んでいくのを知覚し、燃やす手間が省けたのではないかという思考が交錯し、しかし彼女は次の瞬間には燃え盛る炎の中に自ら手を突っ込んでいた。


「ぁっつぅ……」


 半分が燃え、焦げてしまった羽根を大事に胸に抱えて走る。

 焼け爛れた手で飛びついてきた火の粉をはたき、服に燃え移るのを防いで廊下の先の先まで走る。

 とっくに現実の孤児院よりも広い廊下になっていることには気づいていたが、彼女は息がきれても歩きたくなっても走り続けた。

 そうして時間を稼いでいればナヴィドが必ず気づいて助けに来る。そう信じていたからだ。


( きっと先生は…… 人間じゃない…… でも、それでもいい)


 その方がむしろ怪異だらけの日常に身を置く自分に相応しい。

 彼女はそのくらいのことを思っていてもおかしくないだろう。

 だからこそ、いろはは何度危ない目に遭っても彼がしくじったせいだとは言わなかったのだ。

 人間の危険は、人外においては危険と言えない。

 彼が判断を誤るのは当たり前のことだ。隣にいる彼が人間でないなんて、彼女にとってなんの関係もなかったのだ。

 いろはは、理性ある隣人は頼もしい味方だと信じてやまない。


 廊下を抜けると、夜空は真っ白くその一点に黒い月が輝いていた。


「はあ…… っふ、ん……」


 息を弾ませながら、流れる汗を拭う。

 背後から熱に炙られていたこともあり、ワイシャツはすっかり肌に張り付くほどに湿っていた。

 そんな彼女の周りには無数の影が集い、大勢の影法師を形作っている。


「先生…… 早く……」


 一度足を止めてしまったため、彼女は動けない。

 ざわざわと集っていく影にいろはは、すっかりと覆いつくされてしまった。

 彼女の大きいとはいえない体に大勢の影が入り込んでいき、いろはは声を出す間もなく震える。


( この人たち…… っ、生き返りたいの? )


 いろはに流れ込んでくる様々な記憶や感情、それら全ては己の動かすカラダを求め、彼女の意識を食い破ろうと手を伸ばしてくるのだ。

 全ては未練のため。やりたいことを成すため。やり残したことを果たすため。いろはを形作る〝 両親の分まで生きる 〟という目的は大きな欲望に覆い隠され、小さく儚いものと化していく。

 目的をそれしか持たない彼女は、大勢の望みを聴くうちにだんだんと自分の目的などちっぽけなものでしかないのだと思えるようになってしまっていた。


( この人たちに比べれば…… わたし〝 自身 〟はひとつしか、ない…… の…… ?)


 一度に刻み込まれる記憶や感情、それらを全て受け止めてしまった彼女はその場に崩れ落ちるしかなかった。

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