エピローグ
「雅樹君、ありがとう……わざわざ学校まで休んでお線香を上げに来てくれて」
彼女の位牌の前に立つ僕に、おばさん――雫の母親が頭を下げる。僕は何だかそれを申し訳なく感じて、慌てて大きくかぶりを振った。
「いえ、寧ろこんなに遅くなってしまって……」
「いいのよ。雫も喜ぶわ」
そう言って力なく微笑むおばさんを見て、最後に会った小学生の時から歳を取ったのは勿論だが酷くやつれたなとそう感じた。突然現れた僕に何も言わなかった所を見ると、おばさんから見て僕も同じようにやつれていたのだろうか。
意識を取り戻した時、僕は部屋の扉の前に立ち尽くしていた。
咄嗟に置き時計を確認する。時刻は丁度十五時になろうという所だった。最後に部屋で時計を見てから、一時間も経ってはいない。
唾を飲み込み、恐る恐る扉を開いてみる。……そこには、いつもの簡素な食事以外何もなかった。
「……終わった、んだな」
そう確信した途端に体から力が抜け、僕はその場に崩れ落ちた。同時に、熱くなった目頭からぽろり、涙が零れる。
「雫……っ、ごめん……ごめん、ごめん、ごめん……!」
君なしではいられなかったほど弱い僕でごめん。君を何度も殺してごめん。そして今、本当に君にとどめを刺してしまってごめん。
現実の雫、幻想の彼女。どちらに謝っているのかもう解らなかったが、とにかく僕は泣きながらひたすら謝り続けた。
腹が鳴った。泣いていても腹は減るのだ。体はこうやって、生きようとしているのだ。僕が悲しみにくれていた間もずっと。
僕は涙を止めないまま、長持ちするものを中心に揃えられた食事を猛然と食べ始めた。溢れる悲しみごと、喉の奥に飲み込もうとするように。
そうして僕は、これが雫が死んでから初めて流した現実の涙であった事に気付いたのだった。
僕が雫の家を訪れたのは、その翌日の事だった。雫が亡くなってから……いや、この街に戻ってきてから初めて行く、雫の家。
四十九日がまだ来ていないからだろうか、今も喪服に身を包んだおばさんは何も聞かず、快く僕を家に上げてくれた。そして今僕は、こうして雫の前にいる。
「雫、雅樹君が来てくれたわよ」
おばさんが位牌の前に立て掛けられた遺影にそう話しかける。真新しい冬物の制服に身を包んで微笑む雫の姿は今より少しだけ幼く、きっと入学当時に撮ったものなのだろうと思わせた。
まだちゃんとした仏壇はないようで、位牌と遺影、それらを囲むように置かれた菊の花の飾られた花瓶や皿に乗ったお供え物などは総て白いシーツのかかった小さなテーブルの上に乗せられていた。仏壇を買わないのは、僕と同じで気持ちの整理がまだついてないからなのかもしれない。そう思った。
テーブルの前に敷かれた座布団の上に座る。線香立ての中では残りが短くなった線香が二本、細い煙と独特の香りをあげながらじりじりとその身を削り続けている。
替えて間もないらしい蝋燭をマッチで灯し、線香に火を点ける。その火をすぐ手で扇いで消すと、僕は二つ並んだ線香の右隣に自分の線香を立てた。
「……雫」
改めて感じる、雫がもういないのだという現実。胸が締め付けられ、そのまま心臓を止めてしまいそうな錯覚に陥る。
けれど僕は、どうしてもここに来なければならなかった。そうしなければ前に進む為の一歩を踏み出せないと思った。再びあの、甘い悪夢に足を踏み入れてしまう前に。
また、涙が零れた。微笑む雫の顔が、滲んでよく見えなくなってくる。そんな僕を見かねてか、おばさんがそっと僕の背を撫でてくれた。
「……あの子、本当に喜んでいたわ。雅樹君が帰ってきたって。今でも思い出すの。雅樹君が引っ越していって暫く、あの子随分落ち込んでいたから」
「……」
「雅樹君が雅樹君がって、あの子よく話してくれたわ。……亡くなってからこんな事を言うのは卑怯かもしれないけど、きっとあの子、あなたの事が……」
「……好きでした」
「え?」
おばさんが不思議そうに僕を見る。僕は雫から目を外さずに、続けて言葉を紡ぐ。
「僕は……雫が好きでした。いえ、好きです。これからも……」
「……雅樹君……」
「また、お線香を上げに来ていいですか?」
「……ええ……ええ、勿論よ。勿論……」
僕に触発されてしまったのだろうか、間もなくおばさんの啜り泣く声が聞こえ始めた。それを聞きながら、僕の目からも次々と涙が溢れる。
……雫。君の事を僕は忘れない。一生引きずったまま、生きていこうと思う。
そして、僕が生み出した彼女。それを取り巻くあの残酷で甘い世界。
僕は忘れない。二人の雫を。死んだ雫と殺した彼女。
雫は僕の世界を彩らせ、また色を奪った。そして彼女がいなければ、色の失われた世界で生きていく決心はつかなかった。
僕にとって二人は不可欠で。だからこそ一生、忘れる事はないだろう。
僕にとって何よりも大切な、二人の雫を。
「……そろそろ帰ります。今日はすみませんでした」
「いいえ……また来てあげてね。本当にありがとう、雅樹君」
涙を拭い、まだ泣いているおばさんに声をかけると僕は立ち上がった。リビングを出る直前、最後にもう一度だけ雫の位牌を振り返る。
――また、会いに来るよ。
そう心の中で呟いて、僕は今度こそリビングを後にした。
僕と雫、そして彼女の物語は、ここで一旦の区切りを迎える。
本当に前を向いて生きられるか解らないけれど……またあの世界に逃げたくなるかもしれないけれど。
そんな時は二人の雫の事を思い出し、そして二人に前を向く勇気を貰う事が出来たなら。
きっと本当に逃げ出す事はないんじゃないか、そう思う。
最後に、この言葉で僕の語りに幕を下ろそう。
二人の雫に、心からのありがとうを――。
fin
re:wind 由希 @yukikairi
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