だから、チョコレート

空都 真

第1話

「佳乃、もしかして、そのチョコ俺にくれるの?」


 よしの、ではなくカノ、と私の事を呼ぶのは、彼一人しかいない。


 吉野夕希。

 クラスメイトにして、「ダブル吉野の片割れ」というありがたくない称号を私が得ることになった、元凶。


 その元凶に、私は黙って右手に持っていた包みをぐいっと突き出した。からかうような光を宿していた吉野の目が、わずかに見開かれる。さぞかし驚いていることだろう。何せ当の私でさえ、自分が吉野にチョコを渡すなんて、思ってもみなかったから。

 珍しく黙ったままの吉野にわずかに苛立ちを覚えながら、私は言葉を続けた。


「これ――芽依から」


 高級そうな光沢を放つ白い紙袋の紐を握る手に、ぎゅっと力がこもった。どうか、いつも通りに喋れていますように。


 芽依の屈託のない明るい声が、耳の奥で繰り返し響いていた。


 ――佳乃、吉野くんのこと、好きなの?

 ――そんなわけ、ないじゃん。

 ――でも、仲いいよね?

 ――犬猿の仲でも、いいって言うならね。

 ――知ってる? 犬と猿って、ホントはそんなに仲が悪くないんだって。

 ――それって、私か吉野のどっちかを猿扱いしてることにならない?


 そう言うと、芽依はあはは、と朗らかに笑った。それから急に真剣な目になって、


 ――じゃあ……協力、してくれる?


 と、言ったのだった。


 ごめん、実は私も吉野のことが――なんて、とっさに言えるほど私は素直じゃなかった。それに、芽依と険悪な雰囲気になってまで自分の気持ちを明かす度胸も、なかった。だから、あまのじゃくな私は、


「いいの? 吉野が私からのチョコだって誤解したら、受け取らないかもよ?」


 なんて、笑いながら言ってしまったのだ。


 それなのに、吉野が一瞬見せた無防備な表情に、どうして胸がきゅっと締め付けられるんだろう。

 吉野が笑って芽依のチョコを受け取ってくれたのに、どうしてこんなに苦々しい気持ちになるんだろう。

 そんな資格なんて、ないのに。


「へえー、渡辺からかぁ。……なんか、恥ずかしいけど、すげー嬉しい。カノ、渡辺さんによろしく言っといて」

「……自分で言えば?」


 我ながら、ちくちくした棘が目に見えるような声だった。

 すごく嬉しい、と言った時の照れたような吉野の表情が、ガラスのように鋭く突き刺さっていた。

 ――芽依に向けるはずのその表情を、私に見せないで。伝言なんて、頼まないでよ。

 ――私にはそんな顔、絶対見せないくせに。


「可愛くねぇなあ、相変わらず」

「吉野に言われなくても知ってるし、あんたに可愛いなんて思われたくないから」


 ああ、どうしてこんな事言っちゃうんだろう。 芽依みたいに、素直になりたい。

 頬をかすかに染めて、「吉野くんが好きなの」なんて、トリュフチョコみたいに甘くて可愛らしいことが言える女の子になりたい。――カカオ99パーセントのビターチョコみたいな、苦い言葉ばっかり投げつける女の子じゃなくて。


「きっぱり言ってくれるなー。カノさん、本命にはそんなつっけんどんな態度、取るなよ?」

「うるさい」


 やっぱり、本命が吉野だなんて、思われるわけがない。

 刺々しい態度を取っていることは我ながら重々承知しているけれど、どうしても素直になれないのだった。今日こそは素直になろう、と思っても、吉野の顔を目の前にすると、顔がこわばるし、頭が真っ白になって何を言えばいいのかわからなくなる。結局、いつも口から出てくるのは憎まれ口で――。


 こんな私が、どの面下げて、吉野に好き、なんて言えるだろうか。


 それでも、このまま卒業なんて、したくない。吉野にとって、嫌な女のままで終わりたくない。たとえ笑われてもいい。せめてバレンタインくらいは素直になろう、と決意した矢先に、芽依から「お願い」をされたのだった。


「……芽依に、ちゃんとお礼言ってよね」


 半ば睨みつけるようにしながら、私は吉野を見据えた。吉野は特徴的なくりっとした瞳を回して、「了解了解。カノさまの仰せの通りに!」と、からかうような調子で答えた。


「じゃ、私帰るから」


 一方的に告げて、吉野に背中を向けた。きゅっと下唇を噛む。


 ――どうして、いつもこうなの。


 あの日から、ずっとそうだ。西陽が照らす廊下をうつむいて歩きながら、私は吉野と話をするようになったそもそものきっかけを、思い返した。



*    *   *


「――ちょっと、静かにしてくれない?」


 必死で抑え込んでいた苛立ちがついに臨界点を超えて、私は思わずそう声を発していた。

 西日が射す窓際に座り込んだ集団の中で、一際大きい笑い声を上げていた男子が、こちらを振り返った。

 くりっとした瞳が特徴的なその男子は、ぽかんと呆気にとられた顔をした後、面白いことになったと言わんばかりに瞳をきらめかせた。その表情の鮮やかさに思わず目を奪われたものの、私はつとめて冷静に言葉を続けた。


「ここは図書室でしょ。私は二ヶ月待ちに待ってたこの本を、集中して読みたいの。だから、話をするなら他の所でしてくれない?」


 多分、そんな事を言ったのだと思う。その活発そうな男子は――吉野は、大きな目をさらに見開いて、オーバーに肩をすくめた。いちいち動作が大きいけど、なぜか華がある。表情が完全に笑っているのが頭にくるけど。


「それはそれは、申し訳ございませんでした。……えーと、あんた、名前なんだっけ? 同じクラス、だったよな?」

「さあね」

「思い出した! 前の席に座ってる、おとなしそうなやつだろ。意外だなぁ、まさかこんなキャラだったとは」

「人を見た目で判断するのは、どうかと思う」

「そうそう、 俺とおんなじ名前のやつだ!」

「……違う」

「嘘つけ、自己紹介の時に聞いたぞ。名字は忘れたけど……『よしの』だろ」

「違う。カノ」


 そのとき、どうしてそう答えたのか、未だにわからない。

 こいつと名前が同じなんて嫌だ、と咄嗟にそんな嘘をついたのだろうか。それとも、名前を呼ばれたときにわずかに高鳴った鼓動を、認めたくなかったからだろうか。


 それから、私は吉野になぜか事あるごとに絡まれるようになり、それに舌鋒鋭く言い返しているうちに、クラスの名物だの何だのと言われるようになり――今に至る、というわけだ。

 だから、芽依の「仲がいい」というのが、言葉通りの意味じゃないことくらい、わかっている。

 私は、吉野に女子として見られていない。私たちの「仲のよさ」がそのことに起因していることくらい、とっくにわかっている。わかっているけど――


「……あれ」


 やだな、雨かな。

 室内に雨が降るはずなんてないのに、ぽつりと呟いた。

 私の瞳から落ちる雫は、憎たらしいくらいに自分に正直だった。


 ――吉野に、嫌われたくない。普通に言葉を交わせるようになりたい。

 ――どうして、芽依に「いいよ」なんて、言ってしまったんだろう。


 ぐるぐると後悔にさいなまれながら歩いているうちに、いつの間にか下駄箱まで辿り着いていたらしい。

 ひとつ溜息をついてから、周りを注意深く見渡した。 自分の鞄から、渡せなかった赤い包みをそっと取り出す。

 はじめて作ったガトーショコラは、夜中まで何度も作り直したにもかかわらず、ぺっちゃんこにしぼんでしまった。こんなのあげられないな、と思いながらも、諦めきれずに持って来てしまった自分に、乾いた笑みが漏れた。


 もう帰ろう、と自分の上履きを脱ぎかけた時、吸い込まれたかのように、一つの名前に目が留まった。


 吉野、夕希。


 右端が剥げかけたラベルシールを見つめているうちに、ふと一つの考えが頭に浮かんだ。

 バカバカしい、といつもの私なら、一笑に付していただろう。だけど、その時の私は、天啓を授かったかのように、思い付いた考えをすぐさま実行に移していた。

 吉野のくたびれた靴が入った下駄箱の蓋を開けて、その中に赤い包みを置く。差出人は不明。

 はたして、下駄箱を開けた吉野はどんな反応をするのか――。そんな想像をして、思わず口元をほころばせた時。


「……カノ?」


 私は息をする事も忘れて、下駄箱の蓋を左手で持った姿勢のまま、石像のように固まった。恐ろしくぎこちない動きで、声がした方向を振り返る。


 今度こそ本当に困惑した表情で、吉野夕希が立っていた。


 ――嘘、どうしよう。


 この状況を見れば、私が吉野の下駄箱にたった今、何かを入れたのは明白だった。そして吉野が下駄箱の中身を見れば、否が応でも私の気持ちを察してしまうだろう。

 そう確信した瞬間、私は覚悟を決めた。

 先程入れたばかりの赤い包みを下駄箱から引っ張り出し、吉野に勢いよく差し出す。吉野は小さく、息を呑んだ。


「――吉野、チョコレートは嫌い、って言ってたよね?」


 吉野は瞳を揺らしたまま、歯切れ悪く答えた。


「……そう、だけど」


 吉野は甘い物が苦手だ。飴は舐めていると舌に穴があきそうだから苦手。チョコレートは一度虫歯になってから二度と食べなくなった。綿菓子は口の周りがべたべたになるから嫌い。マシュマロはあの食感が、生理的に受け付けない。

 それがいつ出た話題だったのか、それとも吉野が誰かと話している所を私が聞いていたのかは、わからない。だけど、私はそのことを覚えていた。


「私、吉野のこと大嫌い」


 はぁ? と言うかわりに、吉野は思い切り怪訝そうな表情をした。その顔に向かって、私はカカオ99パーセントの言葉を告げる。

 ――どうか、残り1パーセントの甘さが伝わりますように、と祈りながら。



「だから、これは嫌がらせ」



 吉野は、いつかのように呆気にとられた顔をして――なんだよ、それ、と呟いた。

 ゆっくりと、表情をほころばせながら。



 了


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