水の話

緑茶

水の話

 どういうわけか、僕が小さい頃、世界は水に沈んでいた。原因は分からない。水没都市となっていた。

 その事実は異常極まりないが、誰もその異常に関心を寄せようとしない。そんな世界。そんな世界での、僕の思い出。


 僕は絵描きを目指している。毎朝古びた一軒家を出て、霧の立ち込める中を進み、水上にかかった粗雑な板の橋を渡りながら、学校へ通う。画材一式を持って。

 農村というほど寂れてもいないし、街というほど発展してもいない。しかし、「水の町」というのが通称となっていたから問題はない。わずかばかりの鶏の声や船のこすれる音とともに、歩く。まだ朝は早い。人は殆ど見当たらない。薄ぼんやりとした緑色とねずみ色と茶色と、そして水色。

 かろうじて歩ける道の脇に立つ看板。そこには『水没地大規模埋め立て計画』と書かれていて、工事開始の具体的な日にちが記されている。少し前まで、日付はなかった。

 冷たい空気を吸って身体に入れると、木のような塩素のような、不思議な匂いがする。それが水の匂い、僕の住む水の街の匂いだ。


 学校に着く。僕は比較的早くに登校するので人はあまり居ない。友達はみんな授業の直前にしか来ない。でも、暇だったりはしない。窓から、外一面に広がる水と、その中からひょこひょこと顔を出す道路や建物、灌木などを見るのは嫌いではないからだ。そんな窓の外の景色が、吐く息の白さでぼうっと濁ってみえるのは、なんともいえない美しさがあるのだ。


 授業が始まる。

 教師の声が前から聞こえるが、眠気を誘うだけで何の面白みもない。仕方ないので窓の外を見る。心が安らぐ。教師はフィッツジェラルドがどうとか、サリンジャーがどうとか言っているような気がする。やはりつまらない。僕は教師の声をシャットアウトするため、心を今度描こうと思っている絵の構想で埋める。

 一日の授業がやっと終わる。

 僕は一緒に帰ろうという友人の誘いを断り、画材を脇に挟んでお気に入りのスケッチポイントへ走りゆく。

 学校から少し離れた小高い丘のようなところで、丁度椅子になるような瓦礫がある場所である。そこからは水浸しの街がよく見える。

 僕は腰を下ろし画材をセットし、描き始める。この空模様のように灰色な僕の一日の中で、最も充実した時間。静かな冷たさと波の音が僕の心を癒す。鉛筆で手は汚れていくが、気持ちがどんどんきれいになっていくのを実感する。白いキャンバスの中に、目の前の風景を描き取っていく。まるで、神話の神殿のような。水深の違いのコントラスト。ところどころに差し込む光。柱のようにちらりと見える、水没した建物群。それらすべてが優しく漠然とした霧に包まれている。なんて美しいんだろう。これが僕の街の風景。これが僕の世界だ。


 ……お腹から音がする。そろそろ帰って晩ご飯にしないといけない。

 途中で絵を打ち切るのがすごく勿体無いように思えたが、食欲には逆らえない。描いているポイントを目にしっかりと焼き付けるようにしながら、画材を片付ける。そしてその場所に手を振ってから、丘を下る。


 母が作る料理はいつも冷めていることを思い出す。一番冷めているのは父のものだが。家に帰る前に、何か温かいものを腹に入れていこうか、と考える。しかし残金はほんの僅か。何も買えずに、仕方なくそのまま家に帰ることにする。


 相変わらず水から水へ、橋を使って渡っている。すると、若い男の人と女の人に出会う。僕の家の近くに住んでいる若いカップルだ。

 とてもいい笑顔をする二人組で、僕もよく二人のドライブに同乗させてもらったりしている。水の中をジープで進むという少し危険な遊戯のためか、母はいい顔をしないが、禁止もしない。

 散歩の帰りらしい。一緒に帰ることにする。

 相変わらずキラキラした笑顔だ。いつも曖昧な表情の僕でさえ、一緒に笑っちゃいそうなほどに。

 絵のことは恥ずかしくて言えなかったが、色々話をしたり聞いたりする。どうやら二人はもうすぐ結婚するらしい。それを聞いて僕もつい嬉しくなってしまう。

 

 夕闇が空を覆う。

 その時、僕ら三人の傍を二つの影が通り過ぎた。

 二つの影の形はそれぞれ違っていた。

 それは、車椅子に乗ったお婆さんと、それを押すお爺さんだった。お爺さんはお婆さんのほうに、泣きそうなほど優しい声で必死に語りかけている。お婆さんは曖昧に凝固した笑みのまま停止している。聞こえているけど、聞こえていないのだ。

 見てはいけないようなものを見た気がしてあわてて目を逸らした。

 隣にいる二人は夕焼けとその影達によって顔がまったく見えなかったが、黒が消えた後はしっかり表情が分かった。老夫婦二人が通り過ぎた瞬間だけ、二人は酷く虚ろな表情になっていた。笑みは消えていた。

 家の近くに来る。二人はもう笑顔に戻っている。

 また次も会おうと行って、手を振って別れる。


 家の玄関近くに来ると、隣に住んでいる男の人が庭先でしゃがんでいるのが見える。男の人の背中は橙色の眩しさで染まり、足元と視線の先に長い影を伸ばしている。

 僕はどうしたんですか、と声をかける。

 彼は苦笑しながら、植木鉢を持ち上げて僕に見せてくる。橙と黒のコントラストで分かりづらい。

 しかしやっと理解する。アネモネの花だ。それがどうかしたのだろうか、と思うと彼は話し始める。

 なかなか花が伸びないものだから、薬を使って伸ばしてやろうかと思っていた――と。

 確かに、まだ少ししかアネモネの綺麗な色が見えていない。

 続きを話そうとすると、彼の家の中から声がする。彼の奥さんだ。

 そしてどうやら、薬を使って花を育てることを咎めているようだ。

 彼は困ったような顔で笑いながら、じゃあな、と言って手を振る。

 僕も手を振る。おわかれだ。


 家の玄関をあける。明かりはない。薄暗がりだ。リビングに母の姿が見える。ただいま、と言うと力のないおかえりがかえってくる。

 父が居て新聞を見ている。僕には気づいているようだが声はかけない。

 テーブルに食事が置いてある。勝手に食べなさいということだろう。お腹が空いているので手を洗ってそれに従うことにする。

 母が父に何かを言っている。

 父の帰宅を咎めているようだ。いつもより早く帰ってくるということを、父は母に伝えなかったようだ。

 一瞬、口論が火花のように激しく勃発する。しかし、また一瞬で消える。余韻は静寂となり、父と母は目を合わせない。

 僕ははやく自分の部屋に行きたいと思う。

 夕ごはんを口の中にかきこみ、二階へ上がる。

 カチャカチャ、さらさらと母が皿を洗う時の水が流れる音がする。


 窓を開けて外を見る。

 もう真っ暗だ。星は見えないが――水は相変わらず見渡す限り街に横たわっている。

 昔の人達も、埋立地なんてなかった時代の人達も、こうして夜の海、あるいは湖や河を見つめたのだろうか。

 水は昔から僕の友達だ。きっと、一番の。

 だからこそ、それを絵にしたいために、僕は絵描きになりたい。美しい、永遠の時間を生きる、僕を包み込むように存在するこの静かなる水の世界が、僕のことを見てくれるように。ちっぽけな僕の存在に気づいてくれるように。そしてさらに、僕に優しく在るように。

 他のものは、いらない。きみは、希望だ。僕の、希望。


 大津波がやってきて、全てを飲み込んだのは、次の日だった。

 突然の氾濫のために、街は何の対策も打つことが出来なかった。もはや生活の一部と化していた景観が、災いとなって襲ってきたのだから。

 たくさんの人が、死んだ。

 母親は子供の名前を呼びながら死んだし、高所に避難しようとした人は高すぎたがために落ちて死んだ。

 僕は偶然にも助かった。驚くべきことに、無傷で。

 

 多くの建物が、人が、自然が、水によって流れ去った後、いつもの小高い丘から見える風景は一変していた。

 僕はしばらく呆然としていた。何時間突っ立っていたかわからない。

 しかし、ぎりぎりのところで、両親を探さなければ、と思いついた。

 街を構成する色から青が消えて、茶色と黒の混じった泥々が街に充満していた。

 その霧の中を、進んでいく。

 ひどいものをいっぱい見た気がするけれど、もうそれは情景と一体化しているようだった。人は死ぬと、人じゃなくなるんだな、と思った。不自然なほどに冷静な自分が、ちょっと怖かった。

 

 近くに住んでいたあの若い二人組が、水の中に沈んで死んでいた。目をつぶって、眠っているようにして。濁った水の中に沈んでいたから、まるで氷漬けにされているようだ。手を繋いでいたから、それでいいんじゃないかとさえ思った。ただ、もうこの二人には会えないんだな、と思うと、少しさびしかった。


 水の音は粘り気を含んでいて、霧と一緒に街中に充満していたが、それ以外は静寂。人の声も聞こえない。みんな死んだからだ。

 木片のようになって浮いている建物に、どろどろの水。そして深い霧。ある意味これもかなり絵になる情景といえた。


 隣に住んでいた男の人に出会った。

 彼は虚ろな目で僕を見た。まるで別人だ。

 妻が死んだ、妻が死んだ、と譫言のように繰り返していた。僕のことに気づいているかどうかも怪しかった。僕は彼に何も聞かず、その場を去った。アネモネのことも、何も聞かずに。


 水没都市。もはやその名称を掲げるわけにはいかなかった。都市ですらなくなった。


 看板がぽっきり折れていた。『大規模埋め立て計画』のやつである。折れた断面からは木と接着剤の匂いがした。


 自宅は流されていなかった。よかった。画材も無事だ。

 そして僕は母と再開した。母は泣きながら僕を抱いてくれた。そしてやがて父もそこに来た。

 父と母は二人、涙を流しながら抱き合っている。


 本当に、嬉しかったし、いいことだ、と思った。

 僕は二人から離れ、街だった場所の様子が見渡せるところまで来た。両親は後ろでまだ抱き合って泣き合っている。

 

 水の景色は、すっかり変わってしまっていた。しかし絶えず流動し、趣は異なるものの、美しさがあるということは変わらなかった。



 僕は画材を取ってきて、すべてを叩き壊した後、水の中に、大げさな音を立てて投げ込んだ。

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