春の喪失

淡島ほたる

どこにも行けない海の底で


更紗さらさには、導いてくれる人が必要だろうね」

 わたしが嵐のさなかに在った朝、彼は朝のひかりに目を細めながら、そう告げた。白いカーディガンを羽織ると、「萩野さんがいるのに?」と訊ねた。きっと、それがすべての間違いの始まりだったのだと思う。



* * *


 

 彼を伴った日々は秒速でうしなわれ、わたし自身にはなにひとつ残らなかったけれど、萩野さんはわたしのからだに風を宿した、と思った。雨の降る日の、灰色の重さをはらんだ風だ。

 大学二年生になったばかりの春に、わたしは、わたし自身を喪失した。自分には、なにもかもなくなったような気がした。布団に潜ったまま、部屋を曖昧に満たす柔らかなすみれ色を、ぼうっと見つめる日が続いた。朝でも夜でも、空の色はおなじにみえる。あんな些末な恋愛で、網膜さえも機能をやめてしまうのか。そう思うと笑えた。まあいい。なにもせず、なにも変わらない日々。良くないかわりに、悪くもなかった。馴染みのない洋楽ばかりを大きなボリュームで流した。

 “Waiting For Love” は、萩野さんの好きだった曲だ。真夜中、目を閉じても、たくさんの車が放つ煌々とした明かりが眼裏から離れなかった。

 朝靄の立ちこめるなか、ひとけのない静かな道路を彼の車で走ったこと。夏、窓をあけて、気の赴くままに山道をくだったこと。ざあざあと清らかな水のながれる滝のしたで、一緒に歌をうたったこと。


 萩野さんとの子どもを堕ろすことに決め、桜の咲きみだれる公園で、わたしは彼に電話をかけた。ひとりでも大丈夫だと思う、という短い言葉を、何度も胸のなかで唱えた。

 彼になにかを言われるまえに--、子どもごと拒まれて傷つくまえに、わたしは彼にそう伝えようと思った。それでも、引き留めてくれることを、一緒に行こうと手を取ってくれることを、心のどこかでは期待していたのだろう。あのときのわたしは、結果として報われなかったことになるのだけれど。


 平日の昼すぎにひとりで訪れた婦人科は、やわらかな日が射し込んで、眩しかった。俯いたままの女の子が、真っ白なソファに腰かけている。わたしは彼女からすこし離れたふたり掛けの椅子で、ぼんやりと、ほんらいなら生まれてくるはずの子どもの名前を考えていた。やさしくて、すてきなものがいい。冴えた月のような、美しい太陽のような、眩しくてきれいな名前。

 検査のときも、会計を待つあいだも、わたしの心は不思議と凪いでいた。現実は、現実として受けとめるほかないのだろう。とはいえ、これくらいの逃避は許される気がした。



* * *



 わたしは日々をぬけがらのように過ごしていたけれど、季節が夏にうつったのを契機に、勘当同然で家を出た。鄙びたアパートメントのひと部屋を借り、大学を休学した。自転車をあてもなく漕いでいたときに見つけた、港近くの珈琲ショップでアルバイトを始めた。ウエイトレス擬きの仕事をしながら、いろんな海の色をみた。雨の日は灰色っぽくかすみ、晴れの日ははっとするような明るい青にすがたを変えるその海のことを、わたしは親しく思っていた。

 そこで、のゆりさんという友人ができた。彼女はこの店のオーナーである。わたしが彼女について知っていることは、ほんの僅かだ。数年前まで数学の講師をしていたが、身体を悪くしてその仕事を辞めたということ。煙草とスポーツが好きだということ。

 のゆりさんは瑞々しく波打つ黒髪を後ろでひとつに束ねていて、わたしはいつも、彼女のすこやかな美しさに見蕩れてしまう。

「そういえば、更紗ちゃんは、いまはひとりで暮らしているの?」

 開店前の準備中、のゆりさんにそう訊かれ、わたしは少し迷ったのちに否定した。

「いえ……同居人がいるんです」

「--お友達?」

 柔らかく首を傾げた彼女に、曖昧に笑い返した。いつも清らかなこのひとに、美しくない過去を見せることだけはしたくなかったのだ。


 マンションに着き、部屋に入った瞬間、わたしは大きく息を吐いた。スニーカーを脱いで荷物をおろす。きょうは、心地よい忙しさだった。店を閉めてからのゆりさんが焼いてくれたシフォンケーキは絶品で、わずかに焦げ目のついているのがなんともいとしい、と思った。こんどレシピを教えてもらおうと決意しつつ、トートバッグにいれていたスマートフォンを確認すると、不在着信が数件、表示されていた。カーテンを開けたままの窓からは、欠けた白い月がみえている。にわかに胸騒ぎがして、ゆるゆると床に膝をつく。

 名前を確認すると、やはり萩野さんからだった。さっきまであんなにも幸福だったのに、たちまち不安になってしまう。彼に折り返さなければ、また着信がかさなってゆくのは目に見えていた。重い心のまま、受話器のマークをタップする。ぴったり三回コール音がしたあと、彼は電話にでた。わたしは短く息をすう。

「……萩野さん?」

「さらさ?」

 すっと鼓膜にふれた声に、はい、とこたえた。おつかれ、と言われて、おつかれさまですと返す。べつに、仕事仲間というわけでもないのに、彼はいつもこの言葉を遣う。

 わたしよりも五つ年上のこのひとには、最近、部下がふえたらしい。彼らもわたしのように、萩野さんに取り込まれてはいないだろうか。いや、「取り込まれている」だなんて、受け身は良くないのかもしれない。

 なにしろ彼は、春の日にとつぜん起こる、嵐のような人だから。

 薄い端末をとおして低くふるえる彼の言葉のひとつひとつに、わたしは身を固くする。たいした用件じゃないんだけど、と前置きされた言葉に、「なにかあったの?」と訊いた。

「俺の荷物、更紗ちゃんのところに今晩届くようにしたからさ。居るかな、と思って」

 予定入ってたら悪いし、と言った彼の声が心底申し訳なさそうで、思わず笑ってしまう。子どもができたと話したときに、「堕ろそうか」とたったひとこと返した人にはとても思えない。

「いるよ。受けとっておくね。忙しそうだけど、ちゃんと寝てる?」

「うん、今回の出張はほとんど観光みたいなものだから。大丈夫だよ」

 そう、とほとんど吐息だけの返事をすると、ねえ更紗、と静かに呼びかけられた。

「帰ったら、一緒にどこか出かけようよ。行きたいところとかさ、食べたいもの、考えといて。休暇も取ったから」

 出かけたいところなんて、食べたいものなんて、あるわけがなかった。いつだってわたしは、ほんとうに大事なことを言い出せない。

 ろくに萩野さんの言葉は聞かないまま、うん、とだけ答えて電話を切った。つかれた。彼と話すとき、わたしは勝手に正解を探して、心を消耗する。最善が用意されていないものは、いつだって掴みがたくて苦手だ。


「似てるんだよ、俺と更紗は」


 その言葉は呪いのようで、反芻するたび、わたしはたちまち動けなくなる。


 月明かりの滲む車内、シートを倒した暗がりで、萩野さんの影が自身と重なる。一切の予告なく始められるわけではないのに、熱のこもった目で見つめられると、泣きたくなるほど怖くなる。欲望をあらわにした眼差しや声、それらが開始の合図だと刷り込まれている自分が情けなかった。新しくおろしたばかりの空色のパンプスにさっと目を落とすと、「怖いの?」ときつくねじ込むように萩野さんが訊ねた。わたしは首を縦に振る。

「心配しなくても大丈夫だよ。更紗ちゃんは、俺の言うとおりにすればいいから」

 いつもの台詞だ。言葉の表層だけがざあざあと洗い流されて、剥がれ落ちていくのを感じる。そこにあるのは、不信感だけだ。

 彼のうわずった声。骨ばった指先は乱雑に私の髪に押し入って、もうだめだ、と砂でできた城がしずかに崩れるような自然さでそう感じた。月は傾きはじめている。萩野さんの重さが、自分と一体になる。


 日付の変わったあとの海岸に来るようなもの好きなんて、わたしたちだけだ。頭ではそう理解しているのに、誰かに見られていたらと思うと、どうしようもなく不安になった。その一方で、今すぐ誰かがやってきて、わたしからこの人を遠ざけてくれたらいいのにと願う気持ちも、たしかにあった。

 わたしは、こうやって扱われるのが当然の人間なのではなかったか。萩野さんになにもかもを奪われそうになってもなお声をあげないのは、彼が罪悪感を消してくれているからでもあった。自分はこれでもう大丈夫だと、思いはじめていた。彼の横暴さに気がつかなかったのは自分で、身を委ねたのも自分だ。彼の手で自分の存在を踏みにじられるたびに、奇妙な安堵を覚えた。萩野さんと一緒にいた自分自身が罪そのものであるならば、彼自身に裁かれるのは、至極正しいことのように思えた。


 そのあいだわたしは、なにも考えないように、早く終わりますようにと、それだけを祈って、息をとめている。まるで深いふかい海の底のようだ。暗くて、呼吸すら許されていない場所に投げだされて、だからわたしは、堪えるしかなかった。萩野さんの荒い指先が肌に食い込む度に、なにもかもを黒く塗り潰されている感覚に襲われる。やめて、と思わず声をあげると、演技うまいね、という萩野さんの熱を帯びた息が首筋を撫ぜて、無力感に襲われた。萩野さんがわたしの言葉にきちんと耳を傾けてくれたことなど、本当の意味では一度もなかった。息のできない海の底で、わたしはひどく死にたくなった。


「更紗ちゃんって、抵抗しないよな」

 終わったあと、うっすらと侮蔑の感情を滲ませて笑う萩野さんを見ると、無力感と怒りが交互に押し寄せて、胃のあたりが熱くなった。

「ちょっと従順すぎるから、心配だよ。小さな子どもみたいで」

 仕方ないというふうな--でも俺だけが解ってあげられるというような傲慢な笑顔に、吐き気がする。

 それでも、わたしはこの人に、愚かにも縋りつづけていた。だれもが敵に見えて仕方がなかったころ、わたしはなにをされても、彼に縋らずにはいられなかったのだ。たとえ髪を掴まれて、生きている理由を問われたとしても。


 死にたくなる夜があることを、彼は知っているだろうか。

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春の喪失 淡島ほたる @yoimachi

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