第三十六話 エピローグ・アルカディアの難民

すこしずつ、目が、勝手に、開いていく。とても、眩しい。


どこからかザザー、と聞き覚えのない音。嗅いだことない不思議な塩の匂い。いつも見慣れたものとはすこし変わった色の青空。

全てが新鮮だった。

真っ白な一室。さきほどは気づかなかった薬品の匂いがきつくなる。ここは、どんな施設なのかはわかった。病院だ。


体を起こす。だが身体中が痛く、思うように動かない。右腕なんか、まるで鉄を装着しているみたいに重たい。

だが、それだけで自分が生きているのだと自覚できる。


開いた窓が近くにあったのに気づく。

そこから見えるのは、全面青色の世界。空の青、そして。


「…海」

空よりも青い何かが底を覆う。見たことはない。写真でしか知らなかった景色。これは、為縛では見えない景色。


目頭が熱くなる。自分はあの地獄のやうな街から抜けることができたのだ。その嬉しさ、からくるものなのか。

いいや、そんなはずがない。


ひとつひとつ、戒めのように浮かぶ哀しみの記憶。自分は逃げ出したのだ。あの場所から。誰にも、手を差し伸べられなかった。自分はただの馬鹿野郎だ。


思考して中断する。だって、これは自分に必要のない考え。あの場所から逃げるにはこれしかなかったのだ。しかし、思いはそのまま加速し続ける。


「っ、はぁはぁ、うえっ」

なにかがこみ上げてくる感じを持ち嫌な汗をかく。

最悪だ。自分の仲間たちを見捨て、自分はこんな場所でのうのうと生きていいのか、いや生きていいはずがない。


自分を責める。自分を責める。自分を責める。


「…無理だよ、笹橋。自分を責めないとか、みんなを思って泣かないとか」

どれだけ、他の人を見捨てようと思っても、できるわけがない。僕には笹橋のような決断力や精神力はない。

どこまで行っても、自分は凡才であって、天才の指示通りにはできないのだ。


「あのさあ、男がめそめそしているんじゃねえよ」

隣から声が聞こえて勢いよくそちらへ振り向く。


「おう、また会えたな。どっちもボロボロみたいだけど」

いつしかの、公園で自分が脅された男が隣のベッドで寝ていた。


「どうせ、あれだろ。自分だけ助かったとか、自分が犠牲なっていれば他の人が救えたとか。そんな馬鹿なことを考えていたんだろ。一つ言わせてもらうが、そんなことこの場でめそめそしているお前なんかにできるわけがねえな。そんな気取った英雄は昔のことなんか気にしないんだよ。一生後ろを振り向かずに前へ進み続けてそして、戦場で朽ちる。そういう阿呆になりたいのだったら、俺に止める権利はないんだが」

男は天井を見上げながら、そう言う。


「…貴方は、」

涙が止まる。


「お、そう思えば名乗っていなかったな。警視庁直属異種捜索課所属、酒波慎二さかなみしんじだ。よろしく」


「はあ。やはり貴方は警察の人だったんですね」


「なんだ、最初から気づいていたのか」

男、酒波さんは面白くなさそうに言う。


「いえ、気づいたのはつい最近です。それよりも、ここはどこなんですか」

たぶん、笹橋父が言っていた警察関係者なのだろうかと推測したまでだ。あの街にはテロリストか警察しか外から来た人はいない。だから、あの後のことを知っていそうな彼に今一番気になることを聞く。

ここは為縛ではない。海なぞ見えるわけがないのだ、あの街から。


「ここは、どこだろうなあ。分からん。まあ、日本本島のどこかの場所だろう」

彼ならなにか知っていると思ったが欲しかった情報は得られなかった。


「潜入するときとかってその地の名前くらいは覚えとかなくてもいいのですか」


「ウチの課は特殊でね、そういう常識みてえなものは通じないんだよ」

それは、答えになっていないのだが。


「まあ、一つだけ言えることはあの街から生存したのはお前だけだ。もちろん、テロリストどもを抜いてな」


「それは、憶測ではなくて」


「いや、ちゃんと為縛全域を調べてわかったことだ」


「…そうですか。それなら、僕はどうやってここに運び込まれたのですか」

自身の記憶が綾杉さんとの戦闘直後からないのだから、誰がここまで連れてきてくれたのか知りたいのは、普通だろう。


「ああ、それなら、」

酒波さんが話す前に部屋のドアが開かれる。そこには、見覚えのあるロングヘアーの女性が色とりどりの花を持って立っていた。


「貴女は、たしか」


「おひさしぶりです。元気そうで何よりです」

そこには、綾杉とともにテロリストとして自分の前に立ち塞がった一人、志士織波丮が立っていた。すこし、眉間にシワが寄る。


「ソイツがお前と共に作戦本部に乗り込んできてな、ウチのボスと交渉しにきたんだとよ」

酒波さんが声を再開させる。


「どうして。貴女はたしか綾杉さんの部下だったはずじゃ」


「肯定。マスターの命令により今後数年は貴方の傍に就くことなりました。困ったときや、わからないときは、貴方の指示に従え、とマスターに言われたのでマスター代理としてお願いします」


「ちなみに、綾杉さんは君になんて言ったんだい」


「応答。世界の色々なことに触れてこい、と言われました」

なるほど、とは言い難いが理解はさせられる。だが、なぜ僕にそのようなことをさせるのだろうか。まあ、僕がそんなことを考えてわかるはずもないのだが。


「じゃあ、まあよろしく、でいいのかな、えっと志士織さん」

彼女と目を合わせてそう言うも、志士織はなにも発しない。


「えっと」


「否定。こちらの世界では『志士織波丮』という名字は戸籍として存在せず、また裏の業界でも有名な模様。よって審議の結果、これからは『参織璃さんしきあき』と名乗ることにしました」

もちろん、その分の戸籍も作成完了しております、と丁寧に説明してくれた。


志士織さん、いや参織さんはそう答えると、僕の隣に置かれてある机の上の花瓶の花を自身の持っていたものに替える。


「それでは、また後ほど。お会いしましょう」


「あ、うん。またね」

上手く挨拶を返せず、すこし落ち込む。


「中々に、マイペースというか個性のある子だったな」

酒波さんはそう僕に聞こえるくらいの声で呟く。


「僕も、会って一日しか経っていないからなのかちょっと距離がつかめませんね」

僕も本音をぼそりと呟く。


「いや、もっと経っているぞ、お前らが会って」


「えっ」


「だって、お前。あの街に警察が本格的に入れた日から約五日は経っているぞ」

その言葉に唖然とする。なんともいえない変な感情を心が表す。


「それで、決まったか。気取ったド阿呆になるか、逃げるだけの愚者のままで居続けるか」

酒波さんはそう、やはり天井を見上げながら言う。


「こんな短時間で決められるわけがないじゃないですか」


「ならば、お前は愚者のままだ。愚か者は愚か者らしく一から物事を丁寧に考えてみろ。そっちの方が、気取った方よりも大切ならことに早く気づけるかもな」


「……そうですね。それなら、愚者でも楽しめそうです。ですが、一つだけ反論いいですか。逃げる愚者が、格上の存在に刃を向けてはいけなくはないでしょう」


「……ああ、そうだな。そうに違いないな」

どちらからともなく僕たちは力なく笑う。体はやはり痛い。

_______________________________



酒沼さんはその後、上司に呼び出されたらしく、看護師さんを伴って部屋を出て行った。


まだ、テロリストにやられた怪我もあまり回復はしておらず、それでも強制的に呼び出されて行く彼の背中を見て、すこし悲しくなった。


なにもすることなく、正面を見続ける。そこに、なにか特別にあるわけでもなくただの白い壁しか僕の目には映らない。


だが、そんな光景でさえ、自身の頭の中であの街で過ごした日々がフラッシュバックする。

ここの壁のように、真っ白だった校舎の壁。その学校で、行われる殺人事件、爆破、テロリストの襲撃。

そして、その被害にあったあの街に住む人たち。開野、綿引、そして笹橋。いつも、自分の周りにいた人たちは今ではもう、誰とも会うことができない。まだ、すこし前に会ったばかりなのに。


だが、それはもう決定された過去の瞬間であって今の僕にはなにもすることはできない。


自身の居場所にはもう、戻れないのだと思ってしまうと、体がぶるぶると震えてくる。また目頭も熱くなる。

泣きたい。寂しくて、誰かに会いたくて、でももう会えなくて。ただ、どこまでも寂しいだけ。


真っ白な布団に涙が落ち、すこし濡れた場所が暗い色に変わる。


それを目で確認するにつれてもっと泣き出したくなる。一つ二つ三つ、と涙の跡は増えていき、どこか鼻が冷たく感じる。


「っ、ひくっ。ああ、やっぱり。…悲しいなあ」

思わず呟いてしまう。

なあ、笹橋。自分の選択はこれで良かったのだろうか。自分はこのまま、歩き続けて良いのか。


だけど、その疑問に答えてくれる彼女はここにいるはずもないことを僕は知っている。だから、誰も正解なんて教えてくれないことも知っている。あの笹橋でさえ「正解」を見つけられなかったから。


「……」

ふと、涙が止まる。悲しいのに変わりはない、寂しいに決まっている。もう、挫折したい。


布団で目を擦る。痛い。こんなことをしてはいけないのだろうが、そんなこと理解している暇なぞない。


息を吸う。そして、吐く。そう、これは深呼吸。深呼吸を覚えている。僕はあのときを記憶している。忘れてなんかいない。

思いっきり、頬を叩いて自分に喝を入れる。


今、悔やんだとしても、仕方がない。だからといって後悔がないわけではない。

自分は他を見捨てて、生き残った。わかっている。その事実に変わりはない。だけど、あの街を奪って得たこの重さを知っているのは世界でただ一人、僕だけ。だから、今僕にできることは。

必死に生きていくこと。


これからの人生で。色々な人たちと語って、触れ合って、経験して。

そして、それをいつかあのテロリストたちにあの日、自分が説いた人生というものを自身で体験して、これこそが人の物語なのだと証明する。死だけが人生で良いものではない、と。



すこし、恥ずかしくなる。顔に熱が集まる。何故だろう、だれもこの部屋にはいないのに。目の前の白い壁を見るたびに羞恥度が上がってくる。


だが、その感情も全部、どこか楽しく感じられる。これもまた人生なのだと。


自分は今、故郷もすべて無くして、ただ放浪する迷子なのだ。どこにも帰る場所がなくて、目的のない歩みを進めて。理想郷と呼ばれたあの街のただ唯一の難民だ。

そして、その先々で出会った色々な体験や感想を胸に秘めて、そしていつの日か、あの『為縛』という街に帰ってくる。幸いにも、あの街の跡にはそこに住人たちもいたから、慰霊碑が建てられるらしい。だから、他の誰かに、あの街をもう壊されることはないのだろう。

そして、そこで語る。

君たちの。笹橋という為縛の誇るすごい天才の。街の存続のために苦悩した天才を。

その天才の思いを託された人間は、こういう出会いと別れを繰り返して生きてきたのだ、と。


『為縛』を受け継いで世界を見てきた僕はまた、ここへ帰ってきたのだ、と。


そう、胸を張って言えるように。

ただの自己満足である。だが、それでしか、今は自分は償えない。




ドアがノックされる。


「…どうぞっ」

泣いたせいか、すこし声が甲高くなる。


入ってきたのは、金髪の女性だった。別にその人が外国の人たちのような顔立ちをしているわけでもなく、それでも金髪の似合う綺麗な女性がいた。


「やあ、いきなりごめんね、君。すこし、二人で会いたくて、ね」

どこか、胡散臭い。

だが、このような雰囲気を醸し出す人と出会ったような、と一瞬考える。


「え、ええ。別に僕は構いませんが」


「そんな、畏まらなくていいよー。私は君とすこーし、お話がしたくてね」

女性は囁くようにそう言う。


「いやあ、それにしても本当に良かったよ、君がちゃんと目覚めてくれて。五日も寝ていたのだから、すごく心配したんだよっ」

彼女は指でちょんと僕の体をつつく。

このような、ウザったらしいことをしていたのはあの街では一人しかいない。アイツだ、笹橋胡春がイタズラをするときのような雰囲気を醸し出しているのだ、この人。


「えっと、貴女はその、誰なんですか」

ずっとつっかかる疑問を口に出す。


「私のことかい、私は警察側の人間だよ。名前は、司馬しばカナミって言うの、よろしく。えっと、君の名前は月見里灼梨くん。


いや、壱無いちなし灼梨くん、とでも言うべきかな」

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