汽車、冊子、ロンドン
――二〇世紀初頭、イギリス。
「痛っ!」
汽車の刻む小気味よい振動が微妙に変調したところで、ロバート・フィン・ガーナーは窓に頭をぶつけて目を覚ました。
朦朧とした意識のまま、ブラウンの短髪に縁取られた額をキャスケットの鍔ごと窓にくっ付け、髪と同色の瞳で外界を眺める。
相変わらずの田園風景だ。
「ロンドンは遠いか」
ずれた帽子を直しながら座席にもたれていた身を起こすと、膝の上で紙の擦れる音がした。
ばら撒きそうになったそいつらを慌ててすくう。
車内で配布するよう託されたチラシの束だ。寝ているあいだにずり落ちなかったのは幸いだが、いっそのこと散らばってくれれば苛立ちのままに捨ててやれたかもしれない。
ロバートは溜め息をつき、薄っぺらな荷物を睨んだ。
ポストカードサイズの紙面に洒落たデザインの五芒星が描かれ、心霊主義に関する薀蓄とロンドンで次期開催予定のシンポジウムの宣伝が添えてある。ようするに、彼が属する英国心霊現象研究協会のびらなのだ。
まだ眠かったし、鉄道に乗った主な目的もそんなものの配布のためではなかったが、上からついでにと頼まれたため駅に到着する前に仕事を終えねばならない。
仕方なく席を立つ。
痩せた身体に纏わりつくジャケットを引きずりながら、チラシを配り、車両を移動する。
乗客には一般人だけでなく、カーキ色の軍服を身に付けた英国軍の兵士たちもいた。
終戦も遠そうだな、などと思考しながら、飽きてきた作業がほぼ投げるようなおざなりなものになったとき、たった今広告を投じた席から代わりに本が落ちた。
拾うと、どうやらストランド・マガジンだ。持ち主らしき客に手渡すや「ありがとう」という声に次いで呼び止められた。
「ところで、ちょっと失礼」
そちらに顔を向けて、ロバートはぎょっとする。
婉然とした美女が座っていたのである。
端整な目鼻立ち。髪はセミロングの縮れた赤毛、ほどよく浅黒い肌はトレンチコートに包まれている。胸の谷間がやたら強調されてもいた。印象としてはジプシーのようだ。
「わたくしはアレクサンドラっていうんだけど、訊いてもいいかしら」
名乗った女性はチラシの端を、スカラベを象った指輪を嵌めた手先で摘んだ。自らの顔の高さまで上げ、アンク型のピアスの隣でひらひらさせる。
「あなた、ここの会員なのよね」
おまけに妙に馴れ馴れしい。
歳は外見から察するに、二十歳になって間もないロバートより僅かに上くらいだろう。多めに見積もっても、せいぜい二〇代後半かそこらだ。
「え、ええ。心霊現象研究協会のロバートですが、なにか?」
美女の容姿と態度に圧倒されたロバートは、なんだか馬鹿にするような言い方になってしまった。けれども、女性のほうは事ともしなかった。
「ここって、アーサー・コナン・ドイル卿が所属していたところでしょう?」
「はあ、そうですけど」
「彼からなにか聞いたことはない? 妖精とか、そういうオカルト系のお話」
「あ、いや、彼には会ったことがないんです。ぼくが入会した途端にやめちゃったし」
そうなのだった。
多数の著名人が支持していた心霊現象研究協会には、探偵小説シャーロック・ホームズシリーズの著者として名高いコナン・ドイルも属しており、彼のファンだったロバートは当初心霊現象にさほど関心がなかったにもかかわらず、憧れから会員になったのである。
ところが、間もなくして協会が成し遂げた、インチキ霊媒師のトリックを暴くなどという〝成果〟をアーサーら信心深いメンバーは批判し、脱会してしまったのだ。
もっともロバートは彼らと逆に、そこにいるうちに超自然現象への興味が湧き始めて残ったのだが。
「そう」
返事を聞くと、アレクサンドラはそっけなく言った。
「ごめんなさい、なんでもないの。足止めしちゃって悪かったわね」
彼女は愛想のいい笑顔で、通路の先に誘導するように腕を伸ばした。
「どうぞ。お仕事、頑張ってね」
「は、はあ」
こう言われてはもう、ロバートは立ち去るしかない。
だが彼は車両を進もうとして、妙な感覚を得た。
アレクサンドラから目をそらす寸前で、視線が、彼女のロングスカートの膝上に開かれたさっきの本を捉えたのだ。
ストランド・マガジンには、〝シャーロック・ホームズ〟の文字があった。載録されている『シャーロック・ホームズの冒険』シリーズだろうが、盗み見た話のタイトルは『青い紅玉』と題されていたのだ。
その時点では違和感の正体は判然としなかったが、自分の座席に戻ったときには明瞭な疑問が湧いてきていた。
ファンであるアーサー・コナン・ドイルの著作はしっかりとチェックしているのだが、
「あんなタイトルの話、あったっけ?」
トレジャーハンター・トリスメギストス 碧美安紗奈 @aoasa
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