第35話 恋
「明李ちゃんはいいよね」
やっぱり来た、と心の中では盛大にため息を吐きながらも、顔には満面の笑みを刻んで「どうして?」と聞き返す。
いつもの通りだ。作り笑いの精巧さには自信があった。実際に今まで一度として、笑顔の奥に噛み殺した不快感を見抜かれたことはない。もちろん今日も、大丈夫そうだった。
「だってさ」
牛乳パックにストローを差しながら、その子は言う。
小学校と同様、給食の時間は近くの席の者と班を作って食べなければならない体制に、今更ながら不満が生まれた。給食のたびにこの話題を出されては、せっかくのご飯もおいしくなくなってしまう。
「可愛いし、頭も良いし、運動神経も抜群だし、しっかりしてるしさ、良いとこばっかりじゃん」
「そんなことないよ」
とりあえず照れたように笑って首を振りながら、どうやって話題を変えようかと考えを巡らせる。しかしそれよりも先に、他の者まで話に入ってきてしまった。
「本当だよね。うらやましいよ。明李ちゃんみたいになれたら、悩みなんてないんだろうなあ」
これには少し、笑顔を作り続けるのに労力が要った。何と返そうか迷いながら、曖昧に首を振る。
「天は二物を与えない、とかさ、嘘だよなあ」
同じ班の男子が、ため息混じりに呟いた。つられてため息を吐きそうになったのは何とか堪えて
「そんなことないって。私だって苦手なことたくさんあるよ」
「えー、嘘だあ。たとえば?」
気づけば、一人の男子を除いて、机を合わせている班の全員がこちらを向いていた。
唯一会話に参加していないその男子が、なにか別の話題を提供してくれる可能性なんて皆無なのはよくわかっている。心の中でもう一度ため息を吐く。それから、彼らの気が済むまでこの話題に付き合う覚悟を決めた。
疲れる時間が終わって息を吐いていたところに、おかずの入っていた大鍋を給食室に運ぼうとしているらしい一人の男子生徒が目に入った。今日は多くの生徒がおかずを残していたので、あの大鍋は重いはずだった。
駆け寄る。こういう日々の小さな行動の積み重ねが大切なのだ。イメージ作りには。
「――高須賀くん」
にっこりと、笑みを向ける。
「手伝うよ」
返されたのは「どうも」という無愛想とも言えるほどの素っ気ない礼だったが、いつものことなので気にしなかった。
「粟生野さあ、さっき、むっとしてたろ」
二人で大鍋を抱えて廊下を歩いている途中、高須賀くんにそんなことを言われた。驚いて彼のほうを見れば
「川村にいろいろ褒められてるときとか」
「え、嘘。気づいてたのっ?」
あまりの不意打ちに、咄嗟にごまかすことすら忘れてしまった。
彼はいつも班の皆の会話には一切興味を示さない。さっきも、そうだった。一人だけ、我関せずといった様子でこちらを見もしなかった。それなのに、絶対の自信があった作り笑いを見抜かれていたとは。
心の底から焦ってしまった私には構わず、
「まあ、わかるけど」
と、彼があまりにさらっとした口調で付け加えたので、急に、不思議な嬉しさが込み上げてきた。
「……私さ、変なのって自分でも思うんだよね」
気づけば、そんな言葉がこぼれていた。
「本当はさ、私、頭良くないんだ。運動だって昔から得意だったわけじゃないし、皆に指示出したりするのも、あんまり好きじゃない。学級委員とかさ、本当は向かないと思う。私って」
なぜ彼にそんなことを話しているのか、自分でもわからなかった。
なんとなく思ったのだ。彼なら、話しても大丈夫なのだと。根拠なんてなかったけれど。
きっと私は、ただ、誰かに話したくて堪らなかったのだろう。そのとき、初めて気づいた。
「でも必死で頑張って、なんとか皆に褒めてもらえるくらいになって。そんな努力してるってこと、皆に知られるのは嫌なのに、さっきみたいにさ、全然努力してないようなこと言われると、ちょっと腹が立つっていうか……」
そこまで言ったところで、はっと我に返った。
取り繕うように急いで笑みを浮かべ、彼の表情を窺う。
そこにあったのは、思いのほか静かな横顔だった。驚くでも戸惑うでもなく、高須賀くんは「ふーん」と短く呟いた。それだけだった。これ以上なく淡泊なその反応が、なぜか、ひどく嬉しかった。
「高須賀くん、この前のテスト学年トップだったんだって」
自転車の鍵を外しながら、友達がふっと思い出したように口にした。
「へえ、相変わらずすごいね」
「明李だって充分すごいじゃん。八位だったんでしょ」
それには曖昧に笑うだけにして、彼のほうに話を戻す。
「高須賀くんってさ、ずうっと一位キープしてるよね。なかなか出来ないよ、そんなこと」
「だよねえ。どんな頭してんだろ。――あ、ていうかさ、高須賀くんってお兄さんいるんだけどさ」
「あ、知ってる知ってる」連れ立っていたもう一人の友達が声を上げた。
「生徒会の副会長さんでしょ。かっこいいよ。めっちゃ頭良さそうな感じで」
「てか、実際めっちゃ頭良いらしいよ。全国模試で十位以内入るくらいだって」
「うわ、そうなの? 弟以上じゃん。すごいねえ。頭良い家系なのかなあ」
「そうじゃなくて、努力してるんでしょ」
思わず強い口調で口を挟んでしまい、しまった、と思う。あわてて笑顔を作り、「多分ね」と付け加えた。二人ともあまり気にした様子はなく、軽く流してくれたので、とりあえずほっとする。
広原中学校のセーラー服は紺一色で、地味だとあまり人気がない。私はその地味なデザインに対してはとくに不満は持っていないけれど、風が吹くと襟がすぐに捲れ上がるのが面倒だと思っていた。今日は風が強いので、しょっちゅう首筋に貼り付いてくる襟と格闘しなければならなかった。
自転車に鍵を差し込もうとしたところで、また舞い上がった襟を直していると
「あっ、園山さんだ」
ふいに友達が声を上げた。心臓が少し音を立てる。
視線を上げれば、ちょうど園山さんが駐輪場に入って来たところだった。明るい髪色は、遠くからでもよくわかる。
彼女は私たちとは離れた位置に自転車を停めていたようだ。近くに停めていたなら、側に来たときにさり気なく、ばいばい、と声を掛けられたのに、とちょっとがっかりする。
私が制服の襟を直すのに苦戦している間に、園山さんはさっさと鍵を外し、自転車を押して歩き出してしまったので、あ、と思わず声を上げた。
「ねえ、せっかくだからさ、園山さんも誘って一緒に帰らない?」
友達のほうを振り返って、そう提案してみる。
しかし返されたのは、思いのほか渋い反応だった。二人は「え……」と困惑したように顔を見合わせ、それから遠慮がちに
「あたし、園山さんって、ちょっと苦手なんだよね」
「うん、あたしも……」もう一人も、苦笑しつつ同意する。
「なんで?」と尋ねれば
「だってあの子、よくわかんないんだもん。話しかけても、なんか素っ気ないし、あたしたちとはあんまり仲良くしたくないみたいだし」
「いつも一人で窓の外見てるしさ、ちょっと怖いよ。自分の世界で生きてるって感じで」
「やめなよ」
きつい口調で口を挟めば、二人は驚いたように口をつぐんだ。
「よく知らない子のこと悪く言うのは、良くないよ。ちょっと人見知りなだけかもしれないじゃない」
言い切ったあとで、少し言い方がきつかったかと後悔したが、二人は感心したように
「そうだね、うん、そうだよねえ」
「さっすが明李」
そうこうしているうちに、園山さんの背中は小さくなっていた。もう追いつけない。
残念だけど、チャンスなんてこの先たくさんあるはずだ。クラスメイトなのだから。毎日顔は合わせるし、話す機会ならたくさんある。時間も十分にあるのだから、ゆっくり仲良くなっていければいい。そんなことを考えながら、私も自転車に跨った。
いつも一人で窓の外を眺めている彼女のことは、随分前から気になっていた。まだクラスに馴染めていないのなら、なんとか手を貸してあげたいと思った。それは私が学級委員だからとかそういうことではなくて、ただ純粋に、彼女にも教室では笑顔で過ごしてほしいと、そう、思ったから。
翌日、私は担任の先生に職員室に呼ばれた。
「園山さんのことなんだけどね」
先生がそう口火を切ったとき、私は思わず身を乗り出してしまった。待ちきれず「なんですか」と続きを促せば
「あの子ね、クラスに馴染めてないみたいだから気になってるのよ。ほら、もう今はだいたいの人間関係が出来上がってる時期でしょう。だから、余計にクラスに溶け込むのが難しくなってるんじゃないかって思うの。そういうときって、やっぱり誰かが働きかけてくれないとね、なかなか、自分から飛び込んでいくっていうのは難しいでしょう。だから、粟生野さんにお願いできればって」
先生が言い終わるのを待たず、私は「はい!」と大きく頷いていた。
「私も、園山さんのことは気になってたんです。仲良くなりたいなって、ずっと思ってて」
言うと、先生はほっとしたように笑った。
「そう。よかった。あの子、家庭の事情が事情だから、ちょっと難しいのよね。でも粟生野さんなら安心だわ」
「え?」
先生がさらっと言った一部分が耳に留まって、聞き返す。
「家庭の事情って? 何かあるんですか?」
途端に、先生の表情が困ったようなものに変わる。それでも、ここは聞いておかないわけにはいかなかった。
「教えてください。何かあるんですよね?」
「こういうことは、むやみに教えられないのよ」
「先生。私、園山さんと仲良くなりたいんです。だから、何か気を遣わないといけないことがあるなら、ちゃんと知っておきたいし、そうしないと彼女を傷つけてしまうかもしれない。もちろん誰にも言いません。ただ、園山さんを傷つけないようにしたいから」
まっすぐに先生の目を見つめて、精一杯真剣に告げた。
先生は渋い顔をしてしばらく悩んでいたが、やがて観念したように
「誰にも言っちゃ駄目よ?」
と念を押してきた。私は、はい、と大きく頷いた。
「園山さんのお母さんね、蒸発しちゃったらしいのよ。それで、今はお父さんが再婚して、新しいお母さんと一緒に暮らしてるんだけど……そのお母さんがね、一度流産しちゃってるの。それに、ちょっと園山さんが関係してるらしくて」
「流産にですか?」
「そう」
先生は重たいため息をついてから、続けた。
「なんでも、園山さんがお母さんを階段から突き落とした、とか……故意ではないと思うんだけど。でも、とにかくそのせいで、お母さんとの関係がぎくしゃくしちゃったらしいの。今でも、あんまりうまくいってないみたい」
黙って、一度頷いた。それだけ聞けば充分だった。
「……じゃあ、家族のこととかは聞かないほうがいいですよね」
「そうね」
「それだけ気をつければ、大丈夫でしょうか」
「ええ。大丈夫だと思うわよ」
わかりました、と頷いてから立ち上がった。
「よろしくね。粟生野さんなら信頼できるわ。頼りにしてる」
「はい!」
まるで園山さんに近づく資格をもらえたみたいで、嬉しかった。それだけで、少し彼女の近くに行けたような気すらした。頑張ろう、と小さく呟いて、気合いを入れた。
その日の五限目の授業は、美術だった。今は彫刻刀を使い判子を作っている。美術担当の先生は穏やかな性格で、しかも生徒にはかなり甘いため、中には勝手に席を移動し、友達とおしゃべりをしながら作業をしている者もいた。
「明李さ、昼休み先生に呼ばれてたよね? 何だったの?」
隣の席に座る友人が、そっと尋ねてきた。
「ちょっとね。たいしたことじゃないから」
適当にお茶を濁してから、園山さんのほうへ目をやる。自分の席で、黙々と彫刻刀を動かしているのが見えた。
さすがに、今彼女のもとへ行くことは出来ない。優等生は、たとえ美術の時間であろうと、授業中に席を立ってはいけないから。
それでもなんとなく気になってしまい、ちらちらと園山さんへ視線を向けてしまっていたときだった。
ずるっと彼女の握る彫刻刀が勢いよく滑るのが、ちょうど目に入った。その刃が彼女の指にぶつかる。園山さんが、ぱっと彫刻刀を放した。それから、まじまじと自分の指を見つめる。その指にちらりと赤い色が見えたとき、ぎょっとして思わず立ち上がっていた。
「園山さん!」
勢いづいた拍子に椅子が倒れてしまい、がたんと派手な音が響いた。それで皆が驚いたようにこちらを向いたが、構わず彼女の元へ歩み寄る。
「大丈夫っ?!」
先生もあわててこちらへ駆け寄ってきた。私は園山さんの手を取ると、傷を見た。そこまで深くはないが、結構出血している。急いでポケットからティッシュを取り出すと、彼女の指を包む。
「保健室に行ったほうがいいですね」
先生が彼女の傷を見て、呟いた。
「誰か連れていってあげてください」
先生がそう続けたので、私は「あ、じゃあ私が」と言いかけた。しかしそれより早く、ひどくきっぱりした調子で
「俺が行きます」
と、声がした。驚いて振り返ると、高須賀くんがいた。
先生がすぐに「じゃあお願いしますね」と彼へ言ったので、それきり私の出る幕はなくなってしまった。呆気にとられたようにして、二人を見送るしかなかった。
教室を出て行くところで、園山さんとなにか言葉を交わす高須賀くんの横顔がちらっと見えて、驚いた。彼が、笑っていたから。
高須賀くんの笑顔を見るのは初めてだと、そのとき気づいた。そして、その笑顔は、はっとするほど優しかった。
「高須賀くんと園山さんって、仲良いのかな」
とぼとぼと自分の席に戻ってからそんなことをこぼせば、「そうみたいだねえ」と隣の席の友人はあっさり頷いた。
「あれかな。幼なじみ、とか?」
「いやあ、違うみたいよ。だって入学したばっかりの頃は、あの二人全然話してなかったし。最近だもん、仲良くなったの。それに、あたし高須賀くんと同じ小学校だったけど、園山さんは違うしさ」
「ふうん」
「もしかしたら付き合ってるのかもねえ、あの二人」
そうなのかもしれない、と私は心の中で同意した。少し寂しくなった。そのあとで、そんな自分に驚いて、戸惑ってしまった。
園山さんの怪我は、さほど酷くはなかったようだ。五限目が終わる頃には彼女は教室に戻ってきて、そのあとは普通に過ごしていたので、とりあえず安心した。
放課後になり、私はいつものように部活へ出た。しかし体操服に着替え、体育館に向かおうとしたところで、体育館シューズを教室に忘れてきたことに気づいた。
それでふたたび教室に戻ったとき、無人だと思っていた教室に思いがけなく人の姿があった。
「あれ、高須賀くん」
彼は、何をするでもなく、机に寄りかかるようにしてぼんやり窓の外を眺めていた。
声を掛けると、一瞬だけ彼の視線はこちらに向いたが、またすぐに窓の外へと戻される。相変わらず愛想のない反応だったが、構わず「何してるの?」と質問を続けた。
「みな待ってる」
彼の口から出たその名前を理解するには、少し時間を要した。
「ああ、園山さん」彼女を下の名前で呼ぶ人が周りにいないので、しばし思い当たらなかった。
「園山さん、どこに行ってるの?」
「職員室。担任に呼ばれたってさ。多分、美術のときの怪我のことだろうけど」
ふうん、と相槌を打ったとき、ふと彼が寄りかかってる机が園山さんのものであることに気づいた。
「……高須賀くんって、園山さんと仲良いんだね」
「まあ」
返ってきた答えが思いの外短くて、すぐに会話が途切れてしまった。
他に誰もいない教室は、二人とも黙れば気まずい沈黙に包まれる。私はあわてて次の話題を探した。
「あっ、高須賀くんさ、この前のテスト、学年トップだったんでしょう。すごいね、おめでとう」
「粟生野だって八位だろ。そんな変わんねえじゃん」
彼の言葉に、目を丸くする。まさか知ってくれているとは思わなかった。
そんな私の心を見透かしたように、高須賀くんはふいにこちらを向くと
「俺さ、ちゃんとチェックしてるから。上位十人くらいまで。自分との点差とか」
気持ち悪いだろ。彼は悪戯っぽく問いかける。
私はすぐに首を振って、それから
「でも、なんで?」
と尋ねた。
「怖いから。二位以下に落ちんの」
「でも高須賀くん、入学以来ずうっと一位じゃない。落ちることなんてないと思うなあ」
「気抜いたら、すぐ落ちるよ。そんな差ねえもん、毎回」
「そうかな」
「――兄貴ほどダントツだったら、違うんだろうけど」
ぼそりと呟くように付け加えられた言葉に、少し心臓が跳ねた。表情の消えた瞳を見つめながら、そっと尋ねてみる。
「高須賀くんさ、お兄さんのこと、もしかしてあんまり好きじゃない?」
「好きじゃないっていうか」ふっと、遠くを見るような目つきになる。
「すごいやつだから。自分と比べると、たまらなくなる。まあ、ただの嫉妬だけど」
その声に切実な色が滲んでいるのは隠しようもなくて、ひどく胸が軋んだ。
「でも」妙に焦って、気づけば性急に反論していた。
「勉強だけで決まるわけじゃないでしょう。人間って」
「そりゃ勉強だけじゃねえよ。でも、勉強以外も全部負けてるし」
「そんなことないよ」
自分でも驚くほど強い調子の声で、彼の言葉を打ち消していた。
高須賀くんも少し面食らったようにして、私の言葉を待っている。少しためらったが、もう勢いにまかせて続けることにした。
「全部負けてるわけないでしょう。そんな人いないよ。高須賀くんは、いいところ、いっぱいあるよ。だから絶対そんなわけない。うん、絶対」
口に出した直後、ものすごく恥ずかしいことを言ってしまった気がした。
いいところ、いっぱいあるよ、なんて、知り合って間もなくて、ろくに話したこともない人間に言われたって説得力もないし嬉しくないに決まっている。それでも、どうしても言いたくなったのだ。言わずにはいられなかった。
ああ、私はとても嬉しかったのだ。ようやく気づいた。
あの日、彼が気づいてくれたこと。ほんの些細なことだけど、誰にもわかってもらえるはずはないと、そもそも期待すらしていなかったのに、それでも、彼が「わかる」と言ってくれたことが。
途端に後悔が押し寄せて、顔が熱くなる。しかもまた沈黙が訪れるから、余計に恥ずかしさばかりが増す。
あわてて他の話題を探していたら、高須賀くんは少しぽかんとしたあとで、笑った。本当に小さくだけど、でもたしかに笑った。なにか言葉を返してくれることはなかったけれど、それで充分だった。それだけで私もどうしようもなく嬉しくなって、思い切り笑ってみた。
また顔が熱くなった。今度は、種類の違う熱さだった。
「……駿」
小さな声が聞こえた。振り返ると、教室の入り口のところに園山さんが立っていた。こちらを見つめたまま、困惑したように立ちつくしている。
「ああ、終わったのか」
高須賀くんはそれに応えて立ち上がると、机に置いていた鞄を手に取った。
そのとき、私はやっと、自分が何をするため教室へ戻ってきたのかを思い出した。ロッカーのほうへ向かおうとして、その前に教室を出て行こうとする二人のほうを見る。すっと短く息を吸った。
「ばいばいっ」
緊張して、少し声が上擦ってしまった。でも精一杯、笑顔を浮かべた。二人は振り向くと、
「ばいばい」
と返してくれた。園山さんも、言ってくれた。それだけで充分だった。
胸がいっぱいになって、息を吐く。自然と口元が緩んだ。嬉しくて仕方がなかった。
今日は、とってもとっても良い日だ。
二人の背中を見送ったあと、堪えきれず大きくガッツポーズをした。直後、すぐに我に返り、誰にも見られていなかったかとあわてて確認した。
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