第34話 教室
粟生野は、ちょっとやることがあるので今から二時間後に、と時間を指定してきた。
日が沈んだあとの暗い教室に一人で足を踏み入れるのは、なんだか不思議な気分だった。
高校の教室より少し狭く、歩くたびかすかに床が軋む古びたこの教室で、四年前は一日のほとんどを過ごしていたのだと思い出す。しかし、窓の外に見慣れぬ暗い空が広がっていることと、壁に貼られた掲示物から棚の位置まであの頃とはまるっきり変わっていることも合わせて、あまり懐かしさは感じられなかった。
整然と並べられた机に目をやる。窓際の、前から三列目。自分が座っていた席すら覚えていないのに、あの場所で、いつも一人で窓の外を眺めていたみなの姿なら、はっきりと思い出せた。それが、この教室で、たった一つ強く根付いている記憶だった。
約束の時間きっかりに、俺が入ってきたほうとは反対の戸が開いた。
「本当に一人で来たんだ」
粟生野の第一声は、それだった。
「お前がそうしろっつったんだろ」
「しかも手ぶら?」
彼女は学校で見たときと同様、制服を着て通学鞄を肩に提げている。
「なんか持ってこないといけなかったのか?」
尋ねれば、暗がりの中で、粟生野が呆れたように笑うのが見えた。
「だって」答えつつ、後ろ手に戸を閉める。
「危ないって思わなかった? ひとけのない夜の中学校になんて呼び出されて。しかも、私なのよ? あんなことがあったあとだし、やけになって何してもおかしくないでしょう」
「そこまでやけになるようなことじゃねえだろ」
こちらへ歩いてきていた粟生野が、ふいに足を止めた。
「なるようなことよ」
抑揚のない声で答えが返ってくる。
「私のすべてだったもの。みんなからの信頼とか好意とか。今まで必死に努力して、自分の手で勝ち取って、築き上げたものだもの。私、そのためだけに頑張ってきたのよ。そう簡単に修正なんてできない。ううん、きっともう、みんなの目が今まで通りに戻ることなんてない。一生」
「知るかよ。自業自得だろ。自分でその信頼壊すようなことしたんじゃねえか」
吐き捨てるように言えば、粟生野は口角を上げて、「そうね」と一度従順に頷いたあと
「でも高須賀くんがあんなことしなければ、その信頼は壊れなかった。――ねえ、なんであんなことしたの? 高須賀くん、気分良かったはずでしょう。桐原が、みんなに嫌われてるの」
外からは、まだわずかに光が漏れている。そのおかげで、粟生野の顔に浮かぶのが、冷たい嘲りの笑みに変わるのをはっきりと捉えることができた。
「そうだな」とりあえず、俺も従順に頷いておいた。
気分は、良かった。直紀が頼れるのは俺たちだけだという状況は。だけどもう、今は違う。何があっても味方でいると、あの子が言った今は、もう。
だから、ここへ来たのだ。
「私、高須賀くんのこと、殺すかもよ?」
笑顔のまま、粟生野はゆっくりと続けた。
「私がそんなこともやりかねない人間だってことは、よくわかってるんでしょう。それに私、もう何にも持ってないんだし」
似ている気がした。向き合った彼女を見つめているうちに、初めて感じた。だとしたら、たしかに粟生野はそんなこともやりかねない人間なのだろう。
「……それもいいかと思って」
粟生野が少し怪訝そうな表情になったので、言い直す。
「あいつのために死ぬってのも、いいかと思って」
そうすれば、きっとあいつは俺を一生忘れられなくなるだろうから。自分のために死んだ友人のことを。
あいつが、一生俺のことを思って、俺のために苦しんで生きていく。それは、命を投げ打っても構わないと思えるほどの甘美な未来だった。それ以外に方法はないのなら、もういっそ、そうしてあいつの心に無理矢理にでも棲み着いてしまいたいと、本気で願った。
「――かわいそうね」
少しの沈黙のあと、これ以上なくあっさりとした調子で、粟生野は言った。みじんも感情のこもっていない、同情の言葉だった。
「そこまでしないと、桐原には見てもらえないなんて」
気づいた。粟生野は全部知っているのだ。しかし疑問は湧かなかった。不思議なほど納得がいった。だって粟生野と俺は、ぞっとするほど似ている。
「でも、そうよね。高須賀くんが自分のことそんなふうに思ってるなんて、桐原が知ったら――何て言うのかな。気持ち悪い、近寄るな、とか? ああ、違うか。桐原は多分そんなこと言わないね。多分、気持ちには応えられないけどこれからも友達だ、みたいに綺麗なことばっかり言って、そのあとでさり気なく離れていこうとするのよ。桐原ってそんな感じじゃない? だって、絶対無理でしょう。今まで通り友達でいるなんて」
淡々と続いていく粟生野の言葉にも、まったく感情は動かなかった。きっと粟生野の言うことは正しい。だからこそ、それは、もう嫌になるほどわかっていることだった。
「なあ」
教室の真ん中ほどで止まった彼女の足はそれきり動かないので、数メートルの距離を置いたままで、粟生野へ声を投げる。
「お前さあ、前言ってたろ。全部、俺らのせいだって。直紀があんな目に遭ったの」
知らぬ間に暗闇が濃くなっていて、離れた場所にいる彼女の表情はひどくおぼろげだった。それでも、そこに浮かぶのが先ほどの冷たい笑みとは違うことだけはわかった。
「ずっと気になってたんだけど、あれ、どういう意味だよ」
言葉を選ぶような沈黙のあとで、粟生野は、ねえ、と呟いた。
「私たち、同じクラスだったの、覚えてる?」
質問に対する答えは、それだった。俺も結構な頻度で人の話を聴かないと評されるが、こいつもなかなかに聴かない人間らしい。
一年生のとき、と粟生野は続けた。
「同じ一年四組で、この教室で一緒に授業受けてたの。覚えてる?」
少しだけ迷ったあとで、短く頷いた。粟生野はふっと視線を外し、遠くを見るような目つきで、ふうん、と静かに呟いた。
「よかった。それくらいは覚えてたんだ」
「そりゃ覚えてるだろ、普通」
「だって高須賀くんもさ、園山さん以外見てないって感じだったから。あの頃」
そこで思い直したように口をつぐむと、唐突に、粟生野は肩に提げていた鞄を近くの机に置いた。
「ねえ」
ファスナーの滑る音が、他に一切の音がない校舎には、やたらと大きく響く。
「よく言うじゃない。好きの反対は、無関心だって」
中を探る必要もなく、粟生野はすぐに鞄から目的のものを引っ張り出した。それを見守りながら、彼女の言葉に相槌を打つ。
「あれ、本当だなあって思ったの。その人の心に、存在すらしないのよ。それが一番耐えられないでしょう。だから私はね、無関心でいられるくらいなら、思いっきり嫌な記憶でいいから、その人の心に、一生忘れられない存在として焼き付けてやりたいって思ったの。ねえ、高須賀くん」
右手で柄の部分を握り、それをおもむろに胸の前に掲げる。それから、空いていたほうの左手で鞘を掴んだ。躊躇うことなく、その手を横へ引く。
粟生野の手に握られている果物ナイフは、両手ですっぽり覆えてしまうほど小さい。それでも彼女の手の下から現れた刃は、ひどく鋭く光った。
自分の手元をじっと見つめていた粟生野は、そこでふっと視線を上げた。にこりと笑う。
「高須賀くんなら、よくわかるでしょう? この気持ち」
彼女の投げ捨てた鞘は、からんと場違いなほど軽い音を立てて床にぶつかった。
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