第33話 願い

 みなの幸せが、俺の幸せだった。

 何の迷いもなく言い切れるほどには、それは真実だった。


 たとえばみなに好きな人が出来たなら、俺は何が何でもその恋を叶えてやろうと思った。ライバルがいると言うなら、そいつに嫌がらせでもして敵を消すぐらいのことならやってやろう。みながもし、それ以外に方法がなくなって、その好きな人に足枷でもつけて、部屋に繋いで、閉じ込めようとしても、俺はきっと、ただ黙って見ているのだ。

 それでみなが幸せなら、それでいい。そしてそれは、きっとみなも同じだった。

 異常なのだとしても、べつによかった。俺たちはただ、お互いを大事にしたくて、それだけに必死だった。家族とはそういうものだと、思っていたから。


「もう、いいんだ」

 だからきっと、みなが、達観したような調子でそんなことを言ったとき、ぞっとするほどの嫌な予感にさらされたのは。みなの望みだとしても、それを受け入れられなかったのは。

「みなね、直紀がほんとにほんとに好きだから。だから幸せになってほしいもん」

 ああ、変わったなあこいつ。ぼんやりと思った。

 その変化は喜ばしいものであるはずなのに、どうしても首を振りたかったのは、きっと。

「本当に、いいのかよ。それで」

 ふてくされたような声色に、みなは困ったように笑う。それから、「ねえ、駿」と聞き分けのない子どもに言い聞かせるような調子で口を開いた。

 その声にはたしかに優しさがあって、本当に彼女が変わったのだと、改めて確認させられた。

 それが、どうしようもなく嫌だったのは。

「直紀はね、みなたちのために怒ってくれたし、みなたちのために泣いてくれたんだよ」


 みなに幸せになってほしいと思ったのは本当だった。

 だけどその相手は、直紀でないと許せなかった。許せなく、なっていた。

 それ以外になかったから。あいつを、決して俺のものになんてならないあいつを、ずっと俺の傍に繋ぎ止めておく方法が。

 直紀がみなの傍にいてくれれば、必然的に俺も、直紀の傍にいることができる。手に入ることなど絶対にないのだということくらい、十分すぎるほど理解していた。だからせめて、みなの傍にいてほしかった。しかも、それでみなは幸せになれるのだから、この上なく素晴らしいことだと思った。それが俺の望んだ、至上の幸せだった。

 俺のものにならないのなら、せめて、俺たちのものでいてほしかった。

 だからみなが直紀のことを好きなのだと知ったとき、直紀もみなのことを好きになってくれればいいと、心の底から、そう願った。そうしたら、俺たちはきっと幸せになれた。この、狭い、閉じた世界の中で。

 俺は、そうしたかったのだ。


「直紀ね、みなたちの幸せを心から願ってくれてるんだと思う。みな、わかったんだ」

 俺も知っている。あいつは俺たちのために怒って、俺たちのために泣くような、そういうやつだということは、もうよくわかっている。わかってしまったから、強烈に惹きつけられた。

 あいつが俺たちに向けてくれるのは、ぞっとするほど綺麗な感情だった。ただ、綺麗なだけの感情だった。それは余計に、俺の抱く感情の醜さを引き立てた。だから俺は、あいつに触れてはいけないと思った。

 でも、それでよかったのだ。あいつに触れたいだなんて願わない。ただ、傍に置いていてほしかった。綺麗なものを集めて並べておくように、ただそれだけ、それだけでよかったのに。

「だから、みなたちも、直紀の幸せを願わないといけないって思ったんだよ。ね、だから駿も」

 その願いすらも、もう、叶わなくなっていた。


 

 みなたちと別れたあと、久しぶりに一人で下校道を歩きながら、粟生野のことを考えた。

 二組の生徒はまだほとんど教室に残っていた。きっとあれだけで、粟生野の狂言だったという事実は信じざるを得なくなったはずだ。

 この先、粟生野はどうするつもりなのだろう。また新たな嘘でも流すのか。そうだとしても、前回ほどあっさり皆を信用させるのは無理だろう。俺への復讐でも考えるのだろうか。それならそれで、いいと思った。

 粟生野が俺への報復に動けば、直紀はきっと、自分のせいだとひどく気に病むだろうから。それを心苦しいなどとはみじんも思わない、むしろそうなることを期待している俺は、相変わらず、嫌になるほど汚いやつだった。


 玄関のドアを開ける。直後に、突き当たりにあるリビングのドアが開き、父親が出てきた。目が合うなり、彼は珍しく「ああ、駿」と声を掛けてきた。

「電話だぞ。お前に」

 それだけ告げると、まっすぐに玄関まで歩いてきて、靴に履き替え始めた。夕方だというのに、今日もしっかりスーツを着込んでいる。ここしばらく、スーツ姿の父しか見た記憶がないな、とぼんやり考えながら

「どこ行くんだよ」

 と尋ねてみれば、こちらを見ることもなく「仕事」とこれ以上なく淡泊な答えが返された。

「今から仕事かよ」

「いいから早く電話に出ろ。待たせてるんだから」

 言い終える頃には彼は靴を履き終えていて、それ以上は何の言葉も聞かずドアを開けて外へ出て行った。

 もう何も考えないようにしようと思うのに、いつもうまくいかない。

 靴を脱いで、リビングへ進む。誰もいないリビングの奥に置かれた、受話器の上げられている電話のほうへ歩いていく。家の電話を使うのなんて随分久しぶりだと思いながら、「はい」と電話の向こうへ声を投げれば


『私、粟生野です』

 落ち着いた声が聞こえてきた。

 それは、これまで一度も電話を掛けてきたことなどない相手だったが、さほど驚きはなかった。思っていたより早く行動に出たな、と妙に冷えた頭で考える。

「なに、お前なんでうちの番号知ってんだよ」

『アルバムに載ってるじゃない。中学校の。ああ、もしかして覚えてない? 私たち、同じ中学校だったこと』

 言葉を続けていく彼女の声は、奇妙なほど穏やかだった。

「……覚えてるよ」

『なら、よかった』

「で、何の用」

 無愛想に尋ねても、粟生野はまったく同じ調子で

『会って話がしたいんだけど、いい?』

 少しだけ黙って窓の外を見つめた。

「いいけど」と返せば、すぐに粟生野は思い出したように、ああ、と声を上げ

『高須賀くん、一人で来てね』

 と付け加えてきた。『園山さんも、桐原も、連れてきちゃ駄目だから』念を押すように、さらに続ける。

「連れてくわけねえだろ。で、どこ行きゃいいんだよ」

 やっぱり、無理だった。

 心の中で、みなへ声を投げる。きっと今は、直紀と一緒に笑っている。そして最後、直紀に、幸せになってほしいと告げるのであろう、みなに向けて。

 俺はどうしても、直紀の幸せなんて願えない。何の見返りもなしに、他人の幸せなんて願えない。――あいつみたいに。


 短く息を吸う音が聞こえた。それから、粟生野から答えが返ってくる。

『広原中学校一年四組の教室』

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