第32話 幸せ
いくつもの視線を背中に感じながら教室を出て、下駄箱へ向かった。
「なんか様子おかしかったな、粟生野」
下駄箱に着いたところで、靴を取り出しながらぽつりとこぼせば、「そうだね」と、同じように靴を取り出しながら、みながなんともあっさりした調子で頷いた。
「何かあったんじゃないのかな」
あまり関心はなさそうな様子で、みなは続ける。
「何かって?」と聞き返すと
「前に、同じような濡れ衣着せられたことがあったとか。わかんないけど」
「濡れ衣、ね……」
みなの言葉に、駿がなにか考え込むような表情で呟いた。
「え?」と聞き返そうとしたが、それより先に駿は素早く靴に履き替え
「じゃ、俺帰るから」
と、出し抜けに言った。
「は? どうせ途中までは一緒だろ」
「いや、今日は俺は別々」
わけがわからず、ぽかんとしている俺に向けて
「今日、放課後空けとけって言ってたろ。みなに付き合ってやって」
それだけ言うと、なにか尋ねる暇もなく駿は一人さっさと踵を返し、外へ出て行ってしまった。
よくわからないまま、とりあえずみなのほうを向けば、思いがけなく真剣な表情でこちらを見つめる目と目が合った。
みなは、いつになく緊張した様子で「あのね、直紀」と口火を切る。
困惑しつつも、こちらもなんとなく改まって相槌を打てば
「最初で最後だから、今日だけ、一回だけでいいから」
すう、と一度息を吸ったあと、彼女は一息に続けた。
「みなと、デートしてください!」
しばしぽかんとしたあとようやく言葉の意味を理解して、彼女の緊張につられてか、俺まで「はい」と変にかしこまった返事をしてしまった。
短い相談のあとで、近くにあるショッピングセンターへ移動した。
店内をぶらつき始めてすぐに、みなが一台のアクセサリーの並ぶワゴンの前で足を止めた。
「うわあ、どうしよう」
みなは何度もそんなことを呟きながら、小さな花の飾りがついたシルバーのブレスレットと値札を交互に睨んでいる。十分近く彼女はそうしていたが、やがて
「どうしよう、直紀」
と途方に暮れたように尋ねてきたので、
「買っちゃえば」
などと無責任にも軽く後押ししてみれば、みなはまた少し悩んでいたが、結局買うことに決めたようだった。
「またしばらくはうどんかなあ」
ショッピングセンターの中のファーストフード店でシェイクを啜りながら、みなが呟いた。それでもさっそく腕にはめたブレスレットを眺める彼女の表情は満足げで、後悔はしていないようだ。
しばらくうどんしか食べられなくなろうともあの小さなアクセサリーが欲しいと思う、その辺りの心情は俺にはいまいち理解できないところだったが、本人が心底嬉しそうなのでそれでいいのだろう。
それから、しばらくは他愛ない会話を続けていたが、ふいにみなが思い出したように
「そういえばさ、今度の模試、志望校まで書かないといけないんだってね」
「そうらしいな。判定が出るんだろ、AとかBとか」
「直紀、ちゃんと決めてる? 志望校」
いや、と首を振ると
「やっぱり、教育学部に行くの?」
続いた質問はまったく心当たりのない内容で、きょとんとする。
「やっぱりって、俺、教師になりたいとか言ったっけ? あ、親が教師だから?」
「いや、だって直紀さ、似合いそうなんだもん。小学校の先生とか。あ、あとね、保育士さんとかも似合いそうだよね」
「へえ。なに、俺、小さい子相手にしてんのが似合うの?」
「んー、なんかね、もし小さい頃から直紀にお世話してもらったら、その子、絶対いい子に育ちそうな気がするんだよね。みなが子ども生んだら、絶対、直紀に勉強とか教えてもらいたいなあって思うし」
真面目な顔でそんなことを言うので、かなり照れてしまった。
「そういうこと言われると、俺、すぐその気になるって。現金だから」
言うと、みなは楽しそうに声を立てて笑った。
その後、今使っているマグカップの取っ手が壊れたので新しいものが欲しいとみなが言ったため、二階の生活雑貨売り場へ移動した。
可愛い可愛いと連呼しながら、いくつものマグカップを手にとって眺めていくみなに、ふっと湧いた疑問を尋ねてみる。
「そういやさ、なんで今日なの?」
デート、とはなんとなく気恥ずかしくて口に出来なかったのだがみなにはちゃんと伝わったらしい。
駿の様子にもみなの様子にも、絶対に今日でないといけないというふうな雰囲気があった。しかし考えつく限り、今日は何か特別な日というわけではない。どうせなら、休日にしたほうがゆっくりできたのではないかと思った。
みなは、手にしていたオレンジ色のマグカップを棚に戻してから、こちらを向いて照れたように笑った。
「今日ね、みなの誕生日だから」
返ってきた答えに、一瞬唖然としてしまった。
「早く言えよ、それ」
それなら、さっきのブレスレットは俺がプレゼントとして贈るべきところだったのではないのか。シェイク代すら、当たり前のように割り勘にしてしまった。
怒濤のごとく後悔が押し寄せているところに、みなが少し困ったように笑って
「いいんだよ。べつになにか期待したわけじゃないもん。ただ、こうして直紀と一緒にいられるだけで充分だから。なにも気を遣うことないからね? 直紀」
その言葉が本心らしいのはわかったが、さすがに、気にしないというのは無理だった。
「あー……じゃあさ」考えながら、ふっと目の前に並ぶマグカップに視線を移す。
「マグカップ、俺からのプレゼントってことにさせて」
そう言えば、みなは、とんでもないというように大きく首を振った。
「いいの本当に! 気にしないでいいんだよ」
「俺が、みなに何かプレゼントしたいんだよ。ほら、みなにはいろいろ世話になったし、本当に感謝してるから」
みなが戸惑ったように、でも、と言いかけたのを遮って
「はい、いいから好きなの選べって。あ、値段は気にしなくていいからな」
みなはまだ悩むように俺の顔とマグカップを見比べていたが、やがてためらいがちに、じゃあ、と四色の色違いがあるボーダー柄のマグカップを指さした。
「ちょっとお願いがあるんだけど……」
「うん」
何でもいいぞ、と力強く言い添えてみれば
「みな、あれが欲しいんだけどね、なにか直紀とお揃いのものを持ってる、というのにものすごく憧れてまして」
それだけで彼女の言いたいことはだいたいわかったのだが、うん、と相槌を打って続きを促した。
「だからね、直紀にみなのと同じマグカップを使ってもらえれば、それだけで充分プレゼントになるなあって。あ、マグカップはみなが買うからね!」
「なんだそりゃ」
思わず呟いてしまった。それでは、俺がみなにプレゼントしてもらっただけになる。少し考えてから、「あ、どうせならさ」と提案してみる。
「俺はみなのマグカップを買うから、みなは俺のマグカップを買うってことで。ああ、もちろん同じやつでいいよ。どっちも誕生日プレゼントってことで」
「へ?」
「俺の誕生日、十一日だから」
言うと、みなが大きく目を見開いた。
「えっ、そうなの? 六月の?」
「そう」
「え、じゃあじゃあ、みなの一週間後だ! わ、すごい! それならさ、直紀、ふたご座だよね?」
「そうだけど」
「わー! えっ、もしかしてさ、直紀ってO型だったりする?」
「ああ、うん、O型だけど」
うわーうわー、とみなは興奮したように声を上げていた。突然のテンションの跳ね上がりっぷりに驚いていれば、みなが嬉しそうに続けた。
「みなもね、O型なんだよ! わあ、なんかすっごく嬉しい。直紀と誕生月も星座も血液型も一緒って!」
まさか誕生日と血液型を告げただけでここまで喜ばれるとは思わなかった。つられて、なんだか俺まで嬉しくなる。みなはひとしきり喜んだあとで、ようやく思い出したように
「あっ、じゃあ、うん、そうしてもらおっかなあ。これでいいの?」
みなはもう一度ボーダー柄のマグカップを指して尋ねた。
頷くと、「ありがとう」と笑ったあとで、みなはふいに四色並んだマグカップを見つめ
「なーんか、せっかく四色あるんだから四色買いたいな」
「いいよ、三色買ってやろうか」
そう答えつつも、ふと値段が気になって値札を探していると
「んー、でも三つもマグカップあっても、どうせ一つしか使わないしな」
みなは眉根を寄せて呟いた。それから少しして、「あ、そうだ!」と彼女は唐突に声を上げる。
「一個、駿にあげようよ。みなと直紀、二人からの誕生日プレゼントってことにして」
「いいけど。え、駿の誕生日ももうすぐなのか?」
「ううん、駿は二月だから当分先だけど。多分ね、みなと直紀だけお揃いのなんて持ってたら、駿、やきもち焼いちゃうからねえ」
「やきもち? 駿が?」
思わず笑ってしまうと、「妬くよー、意外にあの人は」と、みなも笑った。
「で、あと一個はどうすんの」
「そりゃもちろん、柚ちゃんに!」
一秒も迷うことなく返された答えに、じんわりと暖かいものが身体の奥に広がって、「そっか」と笑顔で呟いた。
外に出た頃には、日もほとんど翳って辺りは薄暗くなっていた。
駅まで送っていく、と言えば、みなははにかむように笑って頷いた。
「直紀、今日はありがとね」
マグカップの重さが増した鞄を肩に掛けて住宅街の中を歩いていると、みなが穏やかな声で言った。
「結局、みなに付き合わせてばっかりだったね。ごめん」
「いいよ。元々そのつもりだったし」
そう首を振ると、にわかにみなが黙り込んだので、ちょっと心配になって彼女のほうを見れば、ひどく静かな表情で前方の道路を見つめる横顔があった。
直紀、とこちらを向くことはないまま、みなが呼んだ。
「みなねえ、直紀が好きなんだ」
唐突さを唐突と感じさせないような、表情と同じ静かな口調で、みなは言った。
そのせいか、俺も落ち着いてその言葉を受け止めることができた。
うん、と静かに相槌を打つ。みなは、穏やかな、そして大人びた笑みを浮かべて、続けた。
「みなね、今までは、好きなものは何がなんでも欲しいって、どんな手段使ってでも独り占めしたいって、そればっかりだったんだよ。でも、直紀は違うよ。好きだから、幸せになってほしいって思った。直紀の幸せが、みなの幸せだって。自分でもびっくりだけど、本当にそう思ったんだよ。だからね」
そこで言葉を切ると、みなはこちらを向いた。暗くとも、彼女の顔に浮かぶ笑みが、はっとするほど豊かなものであるのは捉えることができた。
「幸せに、なってください」
前を向くと、先ほどより濃くなった影が二つ、綺麗に舗装された道路に伸びている。それを見つめながら、うん、と頷いた。それだけでいいのだと思った。
俺の答えに、みながどうしようもなく無邪気な顔で笑ったので、一瞬じわりと瞼の裏が熱くなったけれど、すぐにその熱は、六月にしては涼しい風に冷やされた。そして、あとには優しいだけの温かさが残った。
そのとき、ふいに彼女に言いそびれていた言葉を思い出して、口を開いた。
「誕生日、おめでとう」
ありがとう、とみなは弾んだ声で返した。心底幸せそうな、笑みと一緒に。
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