第31話 濡れ衣

 教室の中は、奇妙な静けさだった。

 我関せずといった様子でさっさと教室を出て行った生徒もいるにはいたが、粟生野の友達はもちろんのこと、大半の生徒は何事かと気になるらしく、何をするでもなく教室に留まっている。


 駿の言葉を受けて、粟生野は短く相槌を打ったあと、立ち上がりかけたが

「べつに、ここでいいよ」

 ごく静かな口調で、駿が制した。

 粟生野が少し戸惑ったように、え、と声を漏らせば

「なんか、ここで話しちゃまずいようなことでもあるのか?」

 あからさまに挑発するような言葉にも、粟生野はかすかに右頬を引きつらせただけで、落ち着いた表情は崩さなかった。

 少し間があって、やがて

「べつに高須賀くんがここでいいなら、ここでいいよ」

 静かにそれだけ告げると、椅子に座り直した。それから「で、なあに」と、かすかに口元に笑みを浮かべて尋ねる。

 駿のほうは、相変わらず無表情だった。同じように表情のない声で、彼は口火を切る。


「友達がさあ、財布盗まれたらしいんだよ。先々週の木曜に」

 脈絡も何もない言葉に、それでも粟生野は表情を変えることなく、ただ小さく相槌を打った。

「こっちでいろいろ探してみたんだよ、犯人。そしたら何人か、その日のその時間に盗めたやつがわかってきて。それがさあ、そんなに大人数でもなかったから、一人一人訊いていくことにしたんだけど」

 そこで駿の言わんとすることを察したのか、粟生野は一瞬だけ強く眉をひそめた。

「なにそれ。で、私がその盗めたやつの一人だって言うの?」

「そう。つーかさ、お前とあと一人にまで絞れたんだよな。その日に、放課後遅くまで残ってたやつ。でも、そのもう一人のやつは絶対違うんだよ。だから」

 それは、端から聞いていても、いい加減すぎる言いがかりだった。

 ついに中野が耐えかねたように立ち上がり、大股で二人のもとへ歩み寄った。中野は粟生野の隣に立つと、きつい目つきで駿を睨んだ。それから、非難の言葉を投げつけようと口を開きかけたのがわかったが、それより先に粟生野が声を発した。


「……その、友達って」

 わずかに震える声だった。ここからは横顔しか見えないが、それでも彼女の顔がひどく強張っているのははっきりとわかった。

 それは、不可解な反応だった。理不尽な言いがかりをつけられたことに対し怒りを示すべき場面で、しかし粟生野の感情はそこまで追いついていないかのように、ただ大きく目を見開いて駿を見つめている。

「その友達って」先ほどより強い調子で繰り返した粟生野の声からは、はっきりと震えを聞き取ることができた。

「どうせ、園山さんなんでしょう」

 吐き捨てるような口調も、歪んだ表情も、普段の粟生野とは似つかぬひどく幼いものだった。

 様子の一転した粟生野に、中野は戸惑ったように彼女を見る。

 しかし、駿は構うことなく淡々と言葉を続けていった。

「その友達が誰かなんて、そこはどうでもいいだろ。お前が盗ったのかどうかってことだよ」

「おい高須賀、てめえいい加減にしろよ!」

 中野が怒鳴りつけるのとほぼ同じタイミングで、粟生野も言葉を返した。

「盗ってないわよ!」

 それは、ひどく高ぶった声だった。彼女のそんな声を聞いたのは初めてで、俺は面食らった。

 それは中野も、他のクラスメイトたちも同じだったようで、二人からは視線を外していた生徒も皆、驚いたように粟生野のほうを見た。

 しかし粟生野に、それを気にする余裕など残ってはいないようだった。「粟生野」と中野が心配そうに声を掛けても、耳に入った様子はなく、取り乱したように捲し立てていく。


「何なのよ。なんで私だって決めつけてるの。証拠でもあるの」

「だから、さっき言った通りだよ。あの日、放課後遅くまで残ってたやつを探していって、行き着いたのがお前だった」

「わけわかんない。私がその日遅くまで残ってたって、なんでわかるのよ。いつって言ったっけ? 先々週の木曜日?」

 駿が頷くと、粟生野は忌々しげに、嘲るような笑みを口元に刻んだ。

「ああ、その日って全校朝礼の次の日ね。残念だけど、その日なら私、早くに帰ったわよ。部活も休みだったし。なんで、高須賀くんは私が遅くまで残ってたって考えたのか知らないけど」

 粟生野の言葉にも、駿はまったく表情を変えず

「証拠は?」

 と、短く質問を投げた。粟生野は一瞬怒りに頬を紅潮させたが、それでも自分の優位は信じ切れるのか、勝ち気な笑みは崩さなかった。

「その日、他校の友達とファミレスに行ったの。その友達に聞いてみればいいじゃない。ああ、何なら今から電話しようか? 直接聞いてみなさいよ」

「じゃ、聞くから電話しろよ」

 平然とそう返した駿を、粟生野は侮蔑するような目で一瞥したあと、鞄から携帯電話を取り出した。「粟生野」と中野が再び呼んだが、聞こえていないのか返事をする余裕がないのか、やはり彼女は何の反応も返さなかった。


 携帯を軽く操作したあと、粟生野はすぐにそれを耳に当てて電話の向こうの相手と会話を始めた。挨拶もそこそこに、「今から電話を代わる相手に、先々週の木曜日のことを正直に話してほしい」というような内容だけを告げて、粟生野は駿に携帯を渡した。

 突きつけられた携帯を見て、ふいに駿は唇を笑みに歪めた。

 それは鬼の首を取ったような表情だった。怪訝そうに眉を寄せた粟生野の手から、駿は携帯を受け取る。耳元へ持って行くと、前置きも何もなしに

「先々週の木曜、粟生野と一緒にファミレスにいたのか?」

 と尋ねた。電話の向こうの相手が頷いたのか、駿はすぐに「じゃあさあ」と続ける。

「そのときの粟生野の様子、どうだった?」

 粟生野の表情に、怪訝な色が濃くなる。

 少し間があって、相手の答えを聞き終えたらしい駿が、ふうん、と冷たい笑みを深めて相槌を打った。

「べつに普通だったんだな」

 返ってきた答えを確認する。それから短く礼を言って、粟生野に携帯を返した。粟生野は険しい表情で駿の顔を見つめたまま、電話の向こうの相手に簡単な礼と挨拶をして通話を切った。


 それを待ってから、駿は静かな口調で尋ねる。

「おかしいよな?」

 質問の意味を把握しかねているらしい粟生野に、駿は続けた。

「お前はその日、直紀と一緒にいたはずだろ」

 その瞬間、合点がいったらしい粟生野が、大きく目を見開いた。

「違うのか?」

 瞬きもせず駿の顔を見つめる粟生野へ、さらに重ねた。

「その日、お前は放課後教室に残ってた。直紀と一緒に。みんな帰って、校内に人気がなくなるまで。そこで直紀に言い寄られた。お前が自分で、友達にそう言ったんだろ」

 中野が困惑したように駿と粟生野の顔を見比べる。

 教室は、すでに完全に静まりかえっていた。その中に、駿の淡々とした声だけが響く。

「その友達は、それをそのまま担任に伝えた。結構重大な事件だって考えたらしいから、このクラスの担任さ、ちゃんとそのこと控えてたんだよ。日付もちゃんと、五月二十日って。先々週の木曜日な。俺、確認してきたんだけど」

 おかしいよな? 駿はもう一度繰り返した。

「お前は五月二十日の放課後、ファミレスにいたんだろ。さっき確認したから、こっちは間違いねえよな。なあ、粟生野」

 粟生野は無言だった。駿は笑っていない目で笑って、ゆっくりと続ける。

「自分のついた嘘くらい、ちゃんと覚えとけよ」


 誰一人、口を開かなかった。

 中野は心の底から戸惑った顔で、粟生野のほうを見ていた。

 黙って、しかし視線はまっすぐに駿に向けたままの粟生野の中にどんな感情が行き来しているのかは、わからなかった。

 誰もが、どう破ればいいのかと判断しかねているような沈黙の中、相変わらず周りの空気など気にする様子もない軽い調子の声が、唐突に静寂を壊した。


「ねえねえ駿ー」

 俺の横で、黙って二人の話を聴いているだけだったみなが、駿を呼んだ声だった。駿はこちらを向くと、「んー?」と聞き返す。

 みなは鞄をごそごそと探ったあとで、中から財布を引っ張り出すと

「財布ね、鞄の奥に埋もれてたー。ごめんね。みなの早とちりだったよ」

 いつもと同じ口調なのに、その声にはどこか冷めた気配があった。

 駿はとくに表情を変えることはなく、「ったく、何やってんだよ」といつものように悪態をついたあとで、ふたたび粟生野のほうに向き直る。

「そういうことだった。早とちりだとさ」

 呆然といった体で駿を見ていた粟生野は、途端に感情が追いついてきたように顔を歪めた。

 しかし何も言わなかった。怒りとも恐怖ともつかない、感情の掴めない目で、それでもまっすぐに駿を見つめ続けた。

 駿のほうも、まっすぐに粟生野を見据えていた。口元だけでかすかに笑う。そして、言った。

「ごめんな。――濡れ衣着せて」

 内容とは対照的に、その声は底抜けに冷たかった。


 重たい沈黙のあとだった。

 ふっと粟生野が目を伏せる。かと思うと、次の瞬間には引ったくるように鞄を掴み、何も言わず、教室を飛び出した。

 粟生野の友人が、数人あわてたように立ち上がった。中野も、彼女の後を追おうと動きかけたのがわかった。しかし、なにかに押し止められたかのように、にわかに動きを止める。そして結局、今し方粟生野の出て行った教室の入り口を呆然と眺めていた。他の友人も同様だった。ひどく困惑した様子で、立ちつくしていた。


 駿の視線がこちらに向く。それから、何事もなかったように

「じゃ、帰ろうぜ」

 と声を投げてきた。その言葉に、みなも何事もなかったように軽く頷いて、未だ呆気にとられたままだった俺のほうを向いて、「帰ろう?」と同じように促した。

 ようやく我に返って立ち上がったとき、健太郎がふいにこちらを向いた。「じゃあな」と言った彼の様子は思いのほか落ち着いていて、俺も少し冷静になった。それでやっと気づいた。

 空気が変わったと、肌ではっきり感じるのは、これで二度目だった。

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