第30話 明日
広原町にあるファミレスは、今日も空いていた。
図書委員の仕事はきっちり済ませてから学校を出たため、ここに着いたのは夕飯時と重なる時間帯になっていたというのに、店内は寂しいほどがらんとしていた。田舎だし、近くに高校などもないため、もともと客は少ないらしい。
「なーんか晴れやかな顔してますねえ」
アイスティーにシロップとミルクをそれぞれ二つずつ入れながら、みなは俺を見てそんなことを言った。
「そうか?」
聞き返しながらも、自覚はしていた。その声も、どこか浮かれた調子に響いた。
「まあ、いいことあったし」続けると、みなは少し不思議そうな表情になり
「桜さんと刈谷くんが仲直りしたの、そんなに嬉しい?」
「それもあるけど」
それだけでも、充分浮かれるほどには嬉しいことだった。しかし、それ以上に大部分を占めていたのは、やはり自分のことだった。
「誤解、解けたから」
言うと、駿があからさまに怪訝そうな表情でこちらを見た。
「解けたって、でも一人だけだろ」
「一人だけで充分だよ」
そもそも自分は、全員の誤解を解くのはすでにあきらめていたことに気づいた。それでもその中には、必ず信じてほしいと思う人が数人いて、彼らさえ真実を知ってくれていれば、それだけでいいと思ったのだ。
「なに、あいつ、直紀にとってそんな重要だったわけ?」
刺のある口調で尋ねてくる駿に、「まあ、そうだなあ」と苦笑しつつ頷く。
「なんか、もういいやって気になった」
「は?」と駿が困惑した表情になる。
「このままでも、べつにもういいやって。みんなの誤解は解けなくても、そんなのはべつに大したことないような気がしてきた。今のままでも、平気そうだなって」
みなと駿が俺を信じてくれて、傍にいてくれて、きっとそれだけで充分すぎるほどの支えだったのだ。その上、白柳も、健太郎もいてくれるのなら、もう何も欲しがる必要はないと思った。きっと、いくらでも頑張れる。何があっても自分は平気だろうと、思う。
「……本気で言ってんの?」
そう問いかける駿の声は、思いのほか低いものだった。
え、と思わず声を漏らせば、駿はさらに続けた。
「あんな誤解されたままでべつにいいって、本気で思ってんのか?」
一瞬ためらったあとで、「べつにいいよ」と頷いた。駿は露骨に顔をしかめる。
「何もしなくてもいいのか?」
「何もって?」
「粟生野に」
駿の言いたいことがわからず、眉を寄せる。駿はそんな俺の顔を見て、はあ、とわざとらしくため息をついた。
「あんだけのことやられたのに、粟生野のこと許せんの?」
「許すっていうか」
しばし言葉に詰まった。その表現はいまいちしっくりこなかったが、他に思いつく言い方もなかったため、結局「まあ」と頷いた。駿は、信じられないといった表情で俺を見ている。
「直紀さあ、忘れたわけじゃねえだろ? あいつはお前にだけじゃなくて、みなにも、あの一年生にもいろいろやったじゃねえか」
それを持ち出されると、さすがに痛かった。思わず言葉に詰まってテーブルの上に視線を落とせば、その間に駿はさらに言った。
「あの一年生、一時期登校拒否にまでなったんだろ。それも、全部、もういいって?」
答えを返しあぐねているうちに、テーブルに皿が一つ運ばれてきた。
一人だけ早めの夕食を済ませるというみなが注文したグラタンだった。香ばしいチーズの匂いに、途端にこっちまで腹が空いてくる。
みなは「わーいっ」と、テーブルを囲むなんとなく重苦しい空気などはなもひっかけない明るい声を上げて、脇に置かれていたフォークを手に取った。
「もういい、っていうか」
ほくほくとした顔で、湯気の立ち上るグラタンを頬張るみなを眺めながら、言葉を探す。
「べつに粟生野に今更何かしたところで、どうにかなるわけじゃないし。だからまあ、もういいといえばもういい」
「どうにかなるっていうかさあ」
駿は、小さな子どもにものすごく噛み砕いて説明するかのような調子で
「刈谷一人だろ、ちゃんと誤解が解けたのって。それでいいわけ?」
「いい」
本心だった。現金だとは思う。しかし、一人だけだろうと、それはこれ以上何も望む気にならないほど嬉しいことだった。
駿はどうしても理解できないようで、眉をひそめて、もう一度大きくため息をついた。
「今だって、そんな良い状況じゃねえと思うけど。刈谷の気持ちが変わっただけじゃねえか。全然解決はしてねえし。そーんな重要なのか、あいつが」
ふてくされたように同じ質問を繰り返した駿に、また笑って頷く。
すると、今度はしばし考え込むような間があって、「まあいいよ」といきなり投げやりに呟いた。
「べつに直紀が許したとしても、俺は許さねえから」
独り言のような調子で続いた低い声に、漠然と不安がこみ上げて「え?」と聞き返せば
「俺は直紀と違って、執念深い嫌なやつだから。このままただで済ませるなんてすっげえ腹立って無理なの」
「何か、する気なのか?」
尋ねた声に、はっきり不安がこもっていたからか
「心配しなくても、直紀に迷惑はかけねえよ」
と、さらっと付け加えたあとで、「ああ、そうだ」と唐突に口調を変えて、話題も変えた。
「直紀、明日の放課後、空けとけよ」
その言葉に、なぜかみなが驚いたように顔を上げた。
「でも、五時までは図書委員の仕事あるぞ」
「いいじゃねえか、一日くらい。たまにはみなにも」
「駿!」
それまで黙々とグラタンを口に運んでいたみなが、突然声を上げて駿の言葉を遮った。必死に首を振って、駿になにやら無言で訴えている。
「え?」と首をかしげ
「なに? 明日、何かあんの?」
と尋ねれば、みなが答えるより先に「そう。いいから空けとけよ」と駿がきっぱり言い切った。
「まあ、べつにいいけど」
頷いたあとで、何気なくみなの前に置かれた皿に目を留めた。
「あれ?」今頃になって、ふと疑問が湧く。
「みな、グラタン平気になったのか?」
みなは一瞬きょとんとしたが、すぐにああ、と納得したように頷いた。それから、嬉しそうに笑みをこぼすと
「本当はね、元々大好きだったんだよ。でも食べるとお母さんのこといろいろ思い出しちゃうから、なんとなく食べられくなっちゃってたんだけど、この前直紀の家で食べたグラタンがすっごくおいしかったから、なんかそっちの印象が強くなって、そしたらもう大丈夫になったみたいで。何年間も食べられなかったのに結構ちょっとしたことで克服できちゃって、なーんか拍子抜けだったけど。それほどおいしかったってことだよね」
母さんが聞いたら泣いて喜ぶだろうな、と思いながら、そっか、と俺も笑顔で相槌を打った。
「みなねえ、絶対無理だって思ってたんだよ」
フォークに刺したマカロニをぼんやり見つめたまま、みながふいに真面目な口調で言った。
「この先、グラタンは絶対食べられないだろうなって。一生。でも、案外簡単なのかもなあって思ったんだ。変えるのって」
彼女の口調と、それに駿が返した相槌も妙に静かだったので、なんとなくしんみりした気分になって、それきり黙ってしまった。
みなの言葉を反芻する。そして、そうだったらいいなと思った。
翌日の昼休みは、「やることがある」ということで駿が顔を見せなかった。
同じ日の放課後だった。ホームルームが終わり、担任の教師が教室を出て行くのと入れ違いに、駿が教室に入ってきた。まっすぐに歩いていく彼の先にあるのは、粟生野の席だった。
駿が教室に入ってきたときから粟生野はすでに気づいていたようで、教科書やノートを引き出しから鞄に移していた手を止め、自分のほうへ歩いてくる駿をじっと見ている。
他のクラスメイトたちも、なにやら不穏な空気を感じ取ったのか、昨日とは違って無関心を装おうともせずに、二人を興味深そうに見守っていた。中野は、少しでも駿がおかしな動きを見せればすぐにでも飛び出していきそうな様子で、二人を見つめている。
「なあ粟生野」
教室内が静かだからか、粟生野の席はわりと離れた位置にあるにもかかわらず、駿の声ははっきり耳に届いた。
後方の戸から入ってきたらしいみなが、俺の席の脇に立った。しかし何も言わず、静かな表情で駿たちのほうを眺めている。
そんな大勢の視線に囲まれた中、粟生野は落ち着き払って「なに」と聞き返す。声の調子と同じ、無表情な横顔が見える。負けないほどの無表情で、駿は続けた。
「ちょっと聞きたいことあんだけど」
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