第29話 それだけで
呆けたまま彼らを見送ろうとしていたところに、「直紀も来るんだよ」と駿の声が飛んできたので、言われるままに立ち上がり、駿たちに続いて教室を出た。
みなも当然のように着いてきた。駿はすでに桜さんの腕から手を放していたが、桜さんは観念したように、何も言わず駿のあとに着いて歩いていた。
「ほら、直紀」
ここ最近だけでもう何度も訪れた、昼休みの喧噪からきっぱり遮断される渡り廊下に着いたとたん、駿がいきなりそう促してきた。
なにが「ほら」なのかわからず、ぽかんとしていれば
「こいつに言いたいことあるだろ」
と、駿は無遠慮に健太郎を指さして言った。
それでようやく理解して、ああ、と呟いてから健太郎のほうに向き直る。
一瞬目が合ったが、俺が「あのさ」と話し出すより先に、健太郎の視線は下へ落ちた。すると、間髪入れず「ちょっと刈谷くーん」とみなの声が飛んできた。
「直紀が話してるんだよ? ちゃんと話してる人の目見なきゃだめでしょー」
それに反応して健太郎は視線を上げたが、その視線の先は俺ではなく、隣のみなと駿のほうへ向いていた。困惑の中にはっきりと苛立ちを混じらせた表情で
「だいたい何なんだ、お前ら。関係ないだろう、俺たちのことには」
駿はぴくりとも表情を動かさず、「あのさあ」とこちらも苛ついた調子で口を開いた。
「言っとくけど、俺らは、刈谷と桜が付き合おうが別れようがそこはどうでもいいんだよ。ほんっとどうでもいい。全然興味ないし、好きにすりゃいいだろって話」
やたら強い語気で言葉を重ねていく駿に、そこまで言わなくても、と心の中で呟いてしまった。
「でも、お前らのせいで直紀にまで迷惑かかってんだよ。わかってんのか?」
桜さんはわかっていなかったのか、「え?」と声を上げてから、きょとんとして俺と駿の顔を見比べていた。
健太郎は何も言わずに、また視線を落とす。そこまで言ったあと、駿が「ほら」と再び俺を促してきたので、短く頷いて
「……あのさ、健太郎」
口を開けば、健太郎は今度は渋々といった様子で顔を上げ、こちらを見た。
「粟生野からどんな話聞いたのかは知らないけど、それ、ほとんど嘘だから。てか、もう全部嘘だって思ってもらっていいよ」
眉を寄せて「全部?」と聞き返した健太郎の声がどことなく寒々しい調子だったので
「とりあえず、お前が言ってた、俺が桜さんのこと好きだったとかいうのは嘘」
と、強く言い切った。
しかし健太郎の表情に、目に見える変化は現れない。短く相槌を打ったあとで、
「なんで粟生野が、そんな嘘をつくんだ?」
と怪訝気に尋ねてきた。
「そこは粟生野に聞かねえとわかんねえよ。でもなんか、粟生野、俺のこと嫌ってるらしいから、困らせたかったとか、そんなんだと思うけど」
ふうん、と健太郎の打った相槌からは、彼がそれをまったく信じていない気配が伝わってきた。
「とにかく、嘘なんだよ。だから健太郎が気にすることなんかないんだって」
精一杯真剣に、告げる。それでも健太郎は怪訝気な表情を崩さない。
だんだん気持ちが落ち込んできたとき、みなが助け船を出すように
「だいたいねえ、直紀にはちゃんと他に好きな子がいるんだもん。あ、いちおう言っとくけど粟生野さんじゃないよ? ていうか、その子、さっき堂々と宣言しに来てたからわかってると思うけど」
いきなりそんなことを言い出したことに少しぎょっとしたが、今は気にしている場合でもないと、半ばやけになって「そうだよ」と強い調子で頷いておいた。
「だから、桜さんとは何もない」
これ以上ないほどきっぱり言い放てば、健太郎は考え込むような表情で俺の顔を見た。
やがて、慎重に言葉を選ぶようにして、じゃあ、と口を開く。
「放課後に、なっちゃんと二人で残っていたのはなんでだ」
だからそれは、と答えかけたところで、それまで黙って俺たちのやり取りを聴いていた桜さんが、急に「だからそれはっ」と俺が言おうとした言葉を鋭い調子で発した。
「ちゃんと説明したでしょう。被服室のドアが悪戯されて開かなくなって、閉じ込められちゃったの。私は被服室の整理をしてて、そのときに桐原くんが備品を持ってきてくれたんだって、それだけだって、何回も言ったのに」
イライラした調子で捲し立てる桜さんにつられるように、健太郎の表情も硬いものに変わっていく。
なんだか嫌な予感がして、急いで口を挟もうとした。しかし俺より先に、「つーかさあ」と駿が見かねたように口を挟んだ。
「刈谷さあ、桜のこと、べつに好きじゃねえんだろ」
一瞬、この場所のすべてが停止したようだった。
あまりに唐突な言葉に、健太郎も桜さんも、ぽかんとして駿を見つめる。
言われた言葉の意味をまだ理解しかねているような健太郎に向けて、駿はさらに続けていく。
「だって、桜の言うことが信じられねえんだろ。粟生野の言うことなら全部信じるのに。それってさ、つまりそういうことだろ。好きじゃねえんだよ、べつに。桜のこと」
それはまったく予期せぬ言葉だったのか、健太郎は唖然として固まっていた。
これにはさすがに黙っておられず、固まったままの健太郎の代わって、「いや、それはないと思う」と思わず反論していた。
「健太郎は、桜さんのことすげえ好きだって。間違いなく。だって健太郎ってさ」
続けようとした言葉は、「直紀は黙ってろよ」という駿の思いがけなく鋭い声に遮られた。
「直紀にはわかんねえだろ。こいつの気持ちなんだから、こいつにしかわかんねえよ。そりゃ最初はマジで桜のこと好きだったのかもしれねえけど、一年も経てば心変わりするかもしんねえし。べつに珍しいことでもねえだろ」
無表情に冷たい言葉を続けていく駿に、「そうだよねえ」とみなものんびりとした調子で同意した。
「だいたい、おかしいもんね。もし本当に、直紀が昔桜さんのこと好きだったとしても、それが何だっていうの。今は桜さん、刈谷くんのことが好きで、二人は付き合ってたんでしょう。それが全部だよ。別れる理由になんかならないもん。やっぱりさ、刈谷くん、桜さんが好きじゃなくなっちゃったんだよ」
みなは、うんうん、と一人で何度も頷くと、
「ただ別れたかっただけなんだよ、刈谷くんは。直紀のことは、きっかけに使っただけ。べつにそれならそれでいいけど、直紀は何にも悪くないんだから、八つ当たりするのはやめてね?」
呆気にとられたようにしてただ二人の言葉を聴いていた健太郎が、そこでようやく口を開いた。「八つ当たり?」わずかに掠れる声で聞き返す。
「そう、八つ当たり。だってそうでしょ?」
みなは、にこりともせずに言った。
「刈谷くんは桜さんと別れたいって思って、だから別れただけなんだもん。全部、刈谷くんの意志なんだから。別れた理由、直紀に押しつけないでね。ちゃんと自分の気持ちを認めなよ」
みなが言葉を切ったあとは、しばらく沈黙があった。
言いたいことはすべて言い切ったのか、みなと駿は、健太郎がなにか返すのを待つように、それきり黙っていた。
呆けたように二人の顔を眺めていた健太郎は、やがて足下に視線を落とした。そうして、しばらく自分の爪先をじっと睨んでいた。桜さんもうつむいていた。
「……さっきから」
随分と長く感じた重たい沈黙を破ったのは、そんな健太郎の低い声だった。
「さっきから、なに勝手なこと言ってるんだ」
顔を上げた健太郎は一度息を吐いて、それから、一気に言った。
「なっちゃんと別れたかったわけがないだろう。今でもなっちゃんが好きに決まってる。一年経とうが気持ちが変わるわけがない。なっちゃんのどこに嫌いになるような部分があるっていうんだ。非の打ち所がないだろう。こんな美人で、可愛くて、性格も良くて、どこに不満を持てばいいのかわからん。馬鹿じゃないのか、お前ら」
最後の言葉に、駿が明らかにむっとしてなにか言い返そうとするのがわかったが、そんな隙も与えず健太郎はさらに続けた。
「何年一緒にいても、なっちゃんだけは変わらずに好きでいられると誓えるぞ俺は。なっちゃんほど魅力的な人はきっといないだろうからな。なっちゃんは本当に、文句のつけどころがないからな」
そろそろ俺もむっとしてきたが、熱く語っている健太郎に口を挟む暇などない。いつものことだった。桜さんについて語るときの、健太郎のいつもの姿だった。
「別れたくなかったに決まっている。出来るなら、ずっと一緒にいたかった。粟生野の言葉は信じたくなかったし、出来ればなっちゃんや直紀の言うことを信じたかった。でも直紀は」
ふいに健太郎の声のトーンが沈む。
「いいやつだから。俺はよく知っているから。だから、多分」
健太郎は重たいため息をついてから、続けた。
「もし直紀がなっちゃんのこと好きだったら、とか、それが俺にとって考えられる限りで一番嫌なことだったんだと思う。そうなったら、もしかしたら奪われるんじゃないのか、とか。だから粟生野があんなこと言ってきたときは動揺した。しかも、なっちゃんも直紀も、そろって被服室に閉じ込められたとか変なこと言い出すし、それで余計」
「それは本当のことだって」
思わず口を挟んだ。しかし、どうしても健太郎は信じられないようなので
「ちなみに、その閉じ込めたやつってのは粟生野だよ」
と、さらに付け加えてみた。それは想像の域を出ない事柄だが、今は何より健太郎に信じて欲しくて、多分、と付け加えようとした語尾は呑み込んで、無理にきっぱり言い切ってみた。今なら、信じてもらえそうな気がした。
健太郎は、初めてこれまでと違う反応を見せた。眉を寄せ、
「何のためにだ」
と不思議そうに訊いてきた。
「俺と桜さんのことを、健太郎に誤解させるため。で、そのことで健太郎の俺への印象を悪くするため」
曖昧な答え方はやめることにした。この想像は当たっていると考えていいだろうし、そうしたほうが、健太郎も納得しやすいだろうと思った。
「もっと言うと、粟生野がそうしたかったのは、あの噂を健太郎も信じるようにするためだと思う」
あの噂、と健太郎は頭の中を整理するように呟いた。
「ちなみに言っとくけど、あの噂も、粟生野の嘘だから」
畳みかけるように続ければ、健太郎は真面目な顔でこちらを見た。それから
「本当に嘘なのか、あれ」
と、静かに尋ねてきた。
それは、確認だった。健太郎が俺の言葉を信じてくれていることを、そのとき初めて感じた。
途端に弾けた嬉しさに、小さな子どものように何度も大きく首を振りたくなったのはなんとか堪えて、「嘘だよ」と俺も静かに頷いた。
「俺は、何もしてない」
今更彼にそんなことを告げていることが、なんだか不思議だった。
口にしたところで、誰にも届くはずはないと思っていた言葉。しかし、目の前にいる健太郎はしっかりとその言葉に耳を傾けてくれている。
やがて、彼はゆっくりと頷いた。真剣な表情で「わかった」と言った。それだけで充分だった。
どうしようもなく嬉しくなって、駿が「で?」と唐突に話題を戻し、「桜は」と問いかけるまで彼女の存在がしばし頭から消えていた。
健太郎の先ほどの発言のせいか、頬を赤らめ、ぼうっとした表情で健太郎を見ていた桜さんは、それでようやく我に返ったように
「わ、私も、健太郎が好きに決まってるよ。別れたく、なかった」
早口に告げた桜さんの目元が急速に赤みを増して、すぐにその目から涙が溢れ出した。
きっと彼女も、相当に追い詰められていたのだろう。桜さんがどれほど健太郎を好きだったのかは、俺もよく知っている。
「なっちゃん」
健太郎が心底焦った声を上げた。
「悪かった」あたふたと謝罪の言葉をかける。それから桜さんのほうへ手を伸ばしていたが、そこに「刈谷くーん」とみなの声が飛んできて、健太郎の手は桜さんに触れる直前に止められた。
「謝る人、もう一人いるよね?」
彼は一瞬きょとんとしたが、すぐにはっとしたように俺のほうを向いた。
健太郎はしばらく視線を彷徨わせて、あー、とか、えー、とか意味もなく呟いていたが、やがて俺の目に視線を合わせた。一度ゆっくりと呼吸をする。それから、改まった様子で口を開いた。
しかし、彼がなにか声を発するより先に、渡り廊下に予鈴が響き渡った。
「あ! 次、体育だった!」
みなが突然あわてた声を上げた。
俺たちのことが気に掛かるようで、みなはしばらく迷うようにこちらを見ていたが、やがて「ちゃんと謝っとくんだよっ」と健太郎に言い残して、駆け足で校舎へ戻っていった。
「あー、そういや俺らも、次、移動じゃねえ?」
「あ、そういえば。次の古典、情報処理室だって言われてたね」
駿と桜さんは直接情報処理室へ向かうらしかったので、二人とは渡り廊下で別れた。
何とはなしに彼らの背中を見送っていると、数歩進んだところでふいに桜さんが立ち止まり、こちらを振り返った。彼女は少しだけ緊張したような笑顔を浮かべていた。
「健太郎、あの……今日、一緒に帰ろうね?」
健太郎は、高速で何度も頷いていた。
二人と別れたあとは、お互いになんとなく気まずく、無言のまま教室まで歩いた。
席について次の授業の準備をしようとしたときだった。健太郎が遠慮がちにこちらを向いたので、引き出しに突っ込んだ手はなにも掴まないまま再び外に出した。
「……直紀」
健太郎の表情は硬く、なにか必死に考えを巡らせているように見えた。
なに、と聞き返せば、しばし言葉を選ぶような間があって
「次の授業、何だ?」
ひどく深刻な口調で、そんな何てことない質問をした。
前を向けば、黒板に貼られた時間割表がある。隣の席にも斜め前の席にもすでに教科書がしっかり置かれている。大きく印刷された日本史Bの文字が、はっきり視界に入っている。しかし、全部、気にしないことにした。
「日本史」
そうか、と呟いて、健太郎はふっと目を伏せる。
「ありがとう」
ぼそりと言ったあとで、一瞬ためらうような間があって、健太郎は顔を上げた。今度は、まっすぐにこちらを見据える。直紀、ともう一度呼ばれた。
「……悪かった」
もう、どうでもいいような気がした。これまでのことなんて、その一言だけで、すべてが取るに足りないものに変わった。
「いいよ」
笑顔を向ける。すると健太郎も、ぎこちないがほっとしたように笑みを浮かべた。それだけでいいと、思った。
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