第27話 告白

 一瞬で、白柳の顔から笑みが剥がれ落ちた。

 見開かれた目が、なにか奇妙なものでも見るかのように俺を見つめる。

「……え」

 たっぷり五秒の間をおいて、白柳の口からそんな声がこぼれ落ちた。

「どうして、そんなこと、聞くんですか」

 あからさまに引きつってはいるが、なんとか口元に笑みを戻して、白柳は問う。しかしその直後、また笑みは消えた。怯えたようにひどく顔を強ばらせ、震える声で質問を続ける。

「せ、先輩、何か知ってるんですか……?」

 いや、と俺は静かに首を振った。

「何も知らないよ。白柳からは何も聞いてないんだから」

「じゃあどうして、中学のことなんか」

 中学という単語を口にするときに、より強く、彼女の声が強ばった。


 図書室は、夕日の柔らかな明るさに満たされていた。ブラインドの隙間から差し込む光が、床にまっすぐな線を引いている。その中を、細かな埃が舞っていた。

「白柳、前に言ってただろ。本借りに来た子の一人が、中学の頃の誰かに似てたって。声とか、話し方とか」

 そう言葉を続けたときだった。突然、白柳が「嫌です」と悲鳴のような声を上げた。彼女のこんな大きな声を聞いたのは、初めてだった。

「嫌なんです。あの頃のことなんて、話したくないです。なんでですか。終わったことなのに、なんで、先輩がそんなこと聞くんですか」

 ひどく乱れた口調で、白柳が捲し立てる。それは一瞬たじろいでしまったほどの、激しい拒絶だった。

 ずるり、彼女の足がわずかに後ずさる。この場から逃げようとするかのような動きに、思わず早口に続けていた。

「終わったことだって、白柳、本当に思ってんのか」

 耐えかねたように視線を足下へ落としたあとで、「思ってます」と、いやにはっきりした口調で白柳は頷いた。不自然なほどの即答だった。

「だって、仕方ないんです」

 前の言葉とつながらない、奇妙な返答だった。それでも白柳は、床をじっと睨んだままで、急き立てられるように言葉を継いでいく。

「私が悪かったんです。私が駄目な人間だから、仕方なかったんです。私、頭も運動神経も悪くて、何にも出来ないし、喋るのだって苦手で、だから、嫌われても仕方なくて」

 息継ぎもそこそこに捲し立てたせいか、白柳はそこまで言い切ると苦しそうに肩で息をしていた。

 やはり唐突に話の内容が飛んでいる。肝心の質問の答えは何一つ返していないのに、白柳はすでに弁解に入っている。そうすることで、触れられたくないなにかを必死に守っているようだった。

「べつに白柳は何も出来ないってことないだろ。図書委員の仕事ちゃんとやれてるし、頭だってべつに悪くないし」

 俺の言葉に、白柳は耳を貸さなかった。撥ね付けるように激しく首を振り

「私が駄目だからなんです。わかるんです。自分のことだから、自分が一番よくわかってます。仕方なかったんです。私が悪いんだから」

 自分を卑下する言葉を、縋るように続けていくその様は、どこか奇妙だった。後半は、ほとんど独り言のような調子になっている。それは、俺に向けられたのではなく、自分へ言い聞かせるための言葉だった。


 にわかに悲しくなってきて、「もういいよ」と唐突に話を打ち切った。

 白柳はとくに反応は返すことなく、ただ喋るのを止めた。

「じゃあ次、俺の話」

 白柳はうつむいたまま、身じろぎ一つせずに立ちつくしている。本当に俺の声が耳に届いているのかもわからないほど、何の反応も見せない。それでもかまわず言った。

「小学校の頃、俺のクラスでいじめがあったんだよ」

 今までなんとなく使うのを避けていたその単語を、あえて口にした。うつむいている白柳の表情はわからない。しかし相変わらず、凍ったように突っ立ったままだ。

「何か喋るたび冷やかされたり、机に落書きされたり、持ち物隠されたり、学級委員とか何か行事があるときの実行委員とかはいっつも押しつけられてて。いつも」

 ぎしりと体の奥が軋む。

「うざい、とか」それでも、吐き出すように続けた。

「見てるとイライラするとか、そういうこと言われてて。俺は、ずっと、それを黙って見てた」

 無造作に投げ出されていた白柳の右手が、ふいにぎゅっとスカートの裾を握りしめた。

「べつに、それに賛同してたわけじゃない。俺はそいつのこと、うざいなんて思ったことないし、見ててイライラしたこともないし、嫌いじゃなかった。でも助けなかった。そこまで深刻なものだって考えてなかったんだよ。だから単に、首突っ込むのは面倒だなって思っただけで」

 それだけだった。

「わからなかったんだよ。そいつがすげえ苦しんでるって、そんなことすら」

 そこで一度言葉を切る。「だから」握りしめられた白柳の拳が、かすかに震えているように見えた。

「理由なんてなかったんだ。ただ他人事だったから、平気で酷いことも出来ただけで。どうでもよかったんだよ。あの頃は」

 白柳はうつむいたままだ。

 図書室は静かだった。グラウンドからどこかの運動部のかけ声が聞こえてくるが、耳につかない程度には遠い。

 そんな余計な雑音のない場所だったからこそ、唐突に白柳が発した小さな声も、聞き逃すことなく、はっきりと耳に届いた。


「――里香ちゃんっていう子がいたんです」

 起伏のないその声は、やはり独り言のように響く。

 かなりの唐突さだったが、とりあえず何も聞かずに相槌だけうった。

 話し出しても相変わらず白柳は顔を上げないので、俺には小さく動く口元しか見えない。

「小学三年生のときに仲良くなって、よく一緒に遊んでました。その子、お父さんを亡くしてたんですけど、私、そのこと知らなかったんです。父親参観の日、里香ちゃんのところだけおじいちゃんが来ていて、私は何も考えずに、なんでおじいちゃんが来てるのって聞いちゃったんです」

 先ほどまでとは打って変わって、淡々としたままの口調はまったく乱れることなく続いていく。

「里香ちゃん、一瞬すごく悲しそうな顔したんです。そのあとに、さらっと二年前にお父さんが死んだんだって教えてくれたんですけど、私、そのときの里香ちゃんの顔がすごく心に残っていて、ずうっと忘れられなくて。だから、私」

 また少し、握りしめた拳に力がこもるのがわかった。

「そのときから、誰も傷つけたくないって、傷つけないように気をつけようって、すごく強く思うようになって」

 ふいに言葉が途切れる。ゆっくりとした彼女の呼吸は、しかしどこか苦しげだった。

「気をつけて、きたんです」

 白柳の声が、わずかに揺らいだ。体の横に添えられていただけの左手が動いて、自らの右腕を掴む。それはスカートの裾を握りしめる右手と同じくらい強い力で、右腕を握りしめた。その手が震えるのが、今度こそはっきりとわかった。


 本当は、と続いた声は途端に掠れたものに変わっていた。

「本当は、私――」

 彼女の唇が震える。続いたのは、絞り出すような声だった。

「わからなかったんです」

 そう告げると同時に、白柳は顔を上げた。

 表情は怯えたように歪んでいるが、その目はどこかぼんやりとしている。まるで、今自分が言おうとしていることがわかっていないような、当惑した表情にも見えた。

「たしかに私は、あまり人付き合いがうまくなかったかもしれないけど、でも、誰も傷つけないようにって、それだけは気をつけてきたんです。もしかしたら、知らないうちに傷つけた人はいるのかもしれないけど、誰かを傷つけようとしたことなんて一度もなかった。なのにどうして、みんなは平気で私のこと傷つけるんだろうって、わからなくて、だから私、本当は――本当は、憎かったんです」

 今初めて自分の感情を理解したかのように、憎かった、と白柳はぼんやりした調子で繰り返した。

「理不尽だって思ってた。私だけこんな目に遭う理由がわからなかった。私は誰も傷つけてないのに、責められる理由がわからなかった。悲しかったし、悔しかった。つらい毎日が続いていくうちに、みんなへの憎しみもずうっと大きくなっていって」


 私、と中途半端なところで言葉を切った白柳の顔が、泣き出しそうに歪んだ。

 一度息を吐く。それから、ゆっくりと唇を動かした。

「殺してやりたいって、思ったこともあったんです」

 ひどく掠れているのに、どこか、穏やかさの含まれた声だった。

 ふっと視線を外した白柳の口元に、かすかに笑みが浮かぶ。重たい、自嘲の笑みだった。

「でも私は、そんなことを思う自分が一番嫌でした。だからそんな気持ちは、見ない振りをしたんです。私、本当に忘れてたんですよ、今まで。やっと思い出しました。誰かを殺したいなんて考える自分よりは、みんなに嫌われていじめられるのも仕方ない自分のほうがマシだから。私が駄目な人間だから、みんな私に酷いことするんだって、そう考えたほうがずっと楽だったんです」


 一気にそこまで喋ったあと、白柳は視線をこちらに戻した。なにかを探すように、俺の目を覗き込む。

「私、そんな酷いこと考えたんですよ」

 苦しげに肩を上下させながら、白柳は、先輩、と呼んだ。その目は、まだ必死になにかを模索している。

「……私のこと、嫌いになりましたか」

 聞き覚えのある質問。なぜか、ひどくほっとした。その問いになら、俺はしっかりとした答えを持っている。

 笑みを向ける。今までで一番、優しく笑えた気がした。


「好きだよ」

 返したのも、いつかと同じ言葉。そんな簡単な答えが届くのにも途方のない時間がかかりそうで、一歩、彼女のほうへ歩み寄る。

 こちらを見上げた白柳の瞳は、相変わらずどこかぼんやりとしていて頼りない。急にもどかしくなって手を伸ばした。この両腕からもなにかが伝わればいい。そう、願った。

 強く抱き締めたのは、片腕にも余ってしまうほど小さな身体だった。

 白柳は悪くないよ、だとか、言いたい言葉はたくさん浮かんだ。しかし、それらはすべてこの言葉に詰め込められる気がした。だから精一杯気持ちを込めて、繰り返した。

「俺は、白柳が好きだ」

 反応は返ってこない。腕の中で、白柳が完全に固まってしまっているのがよくわかる。それでもかまわず続けた。ついでに、腕にもさらに力を込めてみた。

「あのさ、先に言っとくけど」

 恥ずかしさに悶絶するのも後悔するのも、全部、後回しにしてしまうことにした。今はただ、白柳に伝えたかった。それだけを考えていた。

「俺、白柳だけは嫌いになれそうもないんだよ。だから、放してやるつもりもないから。白柳が嫌だって言っても」

 だんだんとやけになってくる。こうなれば彼女が信じるまでひたすら繰り返すつもりで、もう一度、言葉を紡いだ。

「白柳が、好きだ」

 また少し、腕の力を強くする。

「めちゃくちゃ好きだ」


 腕の中に閉じ込めた、これ以上ないほど強張っていた体から、わずかに力が抜けるのがわかった。相変わらず身じろぎ一つしないが、小さく、先輩、と声が聞こえてきた。

「……もし、私が死んだら」

 きっと俺は今まで、自分でも気づかないほど、白柳の言葉に、笑顔に、救われていたのだと思う。

 だからその言葉は、最後まで言わせなかった。自分でも不思議なほどに、わかった。白柳の訊きたいことも、欲しい答えも。そして俺はその答えを口にすることにまったく躊躇がなくて、そのことに少し驚いた。

「一緒に死んでやるよ」

 白柳が、そうしてほしいなら。


 程なく、白柳の肩が震えた。喉を引きつらせる。嗚咽を呑み込もうとしたのか、不格好な声が漏れた。同時に、また彼女の肩が大きく震える。

 呆然と硬直していただけの白柳が、恐る恐るといった様子で、俺の肩に額を押しつける。ゆっくりと動いた彼女の手は、迷うような仕草で背中に回された。

 しかしすぐに、それはきつくしがみつく力に変わる。小さな子どものように顔を目の前の肩に埋めて、力一杯に抱き締め返してくる。


 私も、とくぐもった声がした。

「私も、好きです、先輩」

 どうしようもないほど震えるその声に、泣きたいのか笑いたいのかよくわからない気分になって、ただ両の腕に思い切り力を込めた。

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