第26話 今度こそ

 水城学園へ行った翌日、放課後に図書室へ行ってみた。

 どうやら俺が一番乗りだったようで、司書の先生以外に人の姿はなかった。カウンターのほうへ歩いていくと、気づいた先生が「あら」と声を上げた。

「久しぶりねえ」

 相槌をうってから鞄を下ろしていると

「最近、白柳さんも桐原くんも来ないから大変だったのよ。たまに新井さんは来てくれてたんだけど、あの子も塾があるとかで毎日来られるわけじゃなかったし」

 内容とは反して、そう話す先生の口調はのんびりとしたものだった。

「まあ図書委員は三人だけじゃないんだけどね」と笑う先生に、俺も笑って頷くと、ふいに先生は笑みを収め

「……あのね、白柳さんのことなんだけど」

 と、声を少し低くして、唐突に話題を変えた。

「しばらく学校休んでたでしょう。新井さんからちょっと聞いたんだけど、なんだか心配で。あの子、少し、なんていうか……人見知りが激しすぎるっていうかねえ。とにかく心配になっちゃって」

 なんと返せばいいのかわからず、ただ曖昧な相槌をうつと、ねえ、とにわかに先生が呼んだ。

「桐原くん、白柳さんと仲良いんでしょう?」

「はい」

「じゃあ、気に掛けてあげてね。お節介だとは思うんだけど、どうしても気になっちゃうもんだから。白柳さん、私にはあんまり話してくれないけど、桐原くんのことはすごく信頼してるみたいだし」

 さらっとそんなことを言うので、少し照れてしまった。

 とりあえず、はい、と力強く頷いておいた。


 それからしばらくして、白柳が顔を見せた。彼女が俺を見つけるなり顔を輝かせて駆け寄ってくるものだから、また照れてしまった。

「先輩、よかったです、来てくれて。昨日は来なかったから、あの」

 こちらへ来るなり、早口に白柳が言う。

「ああ、ごめん。昨日はちょっと用事があったから」

 謝ると、白柳は「い、いえ」とあわてたように首を振って

「先輩、学校では私に話しかけないようにするって言ってたから……もう図書室には来ないのかと」

 もごもごとそんなことを言ったあと、急になにやら思い出したように「あっ」と声を上げ

「あのっ、先輩にお願いがあるんです」

 なに、と尋ねれば、白柳は気持ちを落ち着けるように一度息を吐き、それから一息に言った。

「勉強を教えてほしいんです」

 以前の苦い記憶を思い出して少し不安がこみ上げたが、もちろん断る気はなかった。

「いいよ。何を?」

「えっと、あの、数学です」

 返ってきた答えにさらに不安が大きくなったが、それは表に出さないようにして、「わかった」と軽く頷く。

「えっと、私、数学すごく苦手で、それなのに随分休んじゃって、それで、えっと、授業が結構進んじゃって、私、ついて行けなくなっちゃって、だから、その」

 白柳は、覚えてきた台詞を思い出しながら話しているようだった。視線をあちこち彷徨わせながら、たどたどしい口調で続ける。

「教えてほしいんです。先輩に。いっぱい、いろいろと」

 おかしな言い回しだったが、とりあえず言いたいことはわかった。

「いいよ。うまく教えられるかわかんないけど」

「あの、いっぱいあるんです、教えてほしいところ」

「うん、べつにいくらでもいいけど」

 そう返しても、白柳はさらに言い募る。

「いっぱい、いっぱいあるんです。いっぱい休んでたから」

「うん」

「いっぱい授業進んじゃって、私、全然わからなくなっちゃって」

「うん」

 なにやら白柳は他にも言いたいことがあるらしい。それさっき言ったことを繰り返してるぞ、と思いつつも、辛抱強く相槌をうって、続きを促す。

「教えてほしいところ、いっぱいあるから、多分、一日じゃ教えられないほどの量でして」

「うん」

「だから、今日だけじゃなくて、明日も教えてもらえれば……その、明日だけじゃなくて」

「ああ」

 そこでようやく、白柳の言いたいことを理解した。

 笑って、「いいよ」と返してから

「ちゃんと毎日来るから。明日からも」

 そう付け加えると、白柳はぱっと顔を輝かせた。

 相当勇気を振り絞って口にしたお願いだったらしく、「ありがとうございます」と弾んだ声で礼を言ってから、白柳は長い安堵のため息をついていた。そんな白柳を見ているだけで、自然と笑みがこぼれている自分に少し驚く。

 ふと視線を外した先に、本の整理をしている司書の先生がいた。手を止めて、こちらをじっと見ている。

 俺と目が合うと、楽しそうな笑みを浮かべて、一度頷いてみせた。よくわからなかったが、とりあえずこちらも頷き返しておいた。


 数学はすごく苦手だと言っていたわりに、白柳は呑み込みが早かった。そこまで真剣にならなくてもいいのに、というほど彼女が真面目に取り組んでいたからかもしれない。

「先輩、頭良いですね」

 組み立て除法のやり方を聞かれたとき、どう説明すればいいものかよくわからず、教科書を復唱しただけのような説明をしてしまったのだが、白柳は感心したようにそんなことを言った。

「いや、これ一年の内容だし、俺はわかんないとやばいだろ」

「でも、先生の説明よりずっとわかりやすかったです」

 気を遣っておだててくれているわけではなく、白柳は心からそう思ってくれているらしかったので、うっかり口元が緩んでしまった。

 すっかり気を良くして

「他にも、わかんないとこあるか?」

 尋ねれば、白柳はすぐに「はい!」と妙に意気込んで頷いた。

 しかし、そのわりにしばらく教科書を眺めたあとで、ようやく「ああっ、ここです」と、組み立て除法を使った応用問題の一つを示した。


 しばらく教えているうちにわかったのだが、白柳はさほど数学が苦手ではないようだった。授業について行けていないというほどにも思えなかった。そこまでわかりやすいとも思えない俺の説明で、あっさり理解してしまう。

 もしかしたら、勉強を教えてほしいというのは単なる口実だったのかもしれなかった。俺が、もう話しかけないようにする、などと言ってしまったせいかもしれない。

 苦笑する。べつにそれでも構わないけれど、もし白柳が毎日図書室へ来てほしいとでも言えば、俺はきっと断れないだろうに。

「なあ白柳」

 組み立て除法の応用問題の説明が終わったところで、切り出してみた。

「今日さ、当番が終わったあと時間ある?」

「えっ、あ、はい。あります。いっぱいあります」

 白柳はまた、妙に意気込んで頷いた。嬉しそうに

「なんでですか?」

 と尋ねてきたが、俺が

「ちょっと話したいことあるから」

 と真面目な顔で答えると、少し心配そうな顔をしていた。



 五時になり、いつものように司書の先生が閉館を告げる。

 机で勉強をしていた数人の生徒がいなくなると、先生が俺たちに向かって「お疲れ様」と言ったので

「もう少し残っていていいですか」

 と尋ねてみた。ぽかんとする先生に

「鍵は俺が閉めて、職員室に返しておきますから。もう少し図書室を使わせてほしいんです」

 駄目もとで言ってみたお願いだったのだが、先生は少し考えたあとで、

「いいわよ。二人には、いつも当番頑張ってもらってるしね」

 と、快く了承し、鍵を俺に預けてくれた。


 先生もいなくなり残るのは俺と白柳だけになった図書室を、白柳は楽しそうに見渡して「初めてですね」と言った。

「図書室に、先輩と二人だけって」

 言ったあとで、すぐに白柳は後悔したらしかった。みるみるうちに赤くなると、これでもかというほど顔を逸らし、あわてたように次の言葉を探している。

 気にしない振りをして、「そうだな」と出来るだけ軽く頷いておいた。

「ここが一番落ち着いて話せそうだったから」

 言うと、「そうですね」と白柳は笑顔で同意した。

「ずっと、白柳から聞きたい話があったんだよ」

 改まってそう口火を切れば、白柳もこちらに向き直って、はい、と丁寧に相槌をうった。

 踏み込んだところで、どうにもできないのかもしれない。それでも、とりあえず今の状態は良くない。白柳はまだ、そこから動けずにいる。何一つ、断ち切れずにいる。

 目の前の、彼女の目をまっすぐに見つめた。今度こそ、俺は、手を差し伸べたかった。


「――白柳の、中学の頃の話」

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