第25話 海

 那珂鶴駅に降りるなり、潮の匂いが鼻腔を満たした。

 駅員は一人しかいない小さなその駅は、多くの高校生でにぎわっていた。

 皆、深い藍色の学ランかセーラー服を着ており、彼らの提げている鞄には、どれも大きく「水城学園」の文字が縫いつけられている。


 誰かに水城学園への行き方を尋ねてみようかと考えながら、とりあえず辺りを見渡してみれば、そんな必要もなくなった。水城学園高校は、篠野高校にも負けないほどの最寄り駅からの近さだった。駅から、はっきりと校舎が見える。

 見つかった目的の高校に向けて歩き出すと、反対方向から何人もの水城学園の生徒が歩いてきた。

 彼らとすれ違ったあと、ふっと不安が湧く。携帯を取り出して時間を確認すれば、五時四十六分だった。なぜ今までこの可能性を考えなかったのかが自分でも不思議だ。――そもそも坂崎は、まだ学校にいるのか。

 彼が部活や委員会などをやっていないなら、すでに帰宅した可能性は高い。篠野高校なら週に何度か七限まで授業のある日があるけれど、水城学園はどうなのかわからなかった。

 しかし、今下校している生徒がかなり多いため、きっと今日はこのくらいの時間まで授業があったはずだ、と無理矢理自分を納得させる。それから、そうであってくれるよう祈った。


 煉瓦造りの立派な門の前で足を止める。ちゃんと水城学園という名前が書かれていることを確認してから、何とはなしに門の中を覗き込んでみると、いきなり「部外者立ち入り禁止」と大きく書かれた看板が目に入って、なんとなく居心地が悪くなり視線を戻した。

 門の横に設置された掲示板には、今年インターハイ出場を果たしたらしい陸上部の生徒の名前が大きく載っている。とりあえず、その掲示板の横まで移動した。


 俺と同じく水城学園の生徒を待っているらしい、校門の前には他校の生徒が数人いる。そのため、とくに訝しげな視線を向けられることもなく、そこで待っていることができた。しかし、やはり滅多に見かけない制服だからか、たまに不思議そうにこちらを見てから通り過ぎていく生徒もいた。


 校門から出てくる生徒の顔を、一つ一つ眺める。そうしている中で、また新たに不安が湧いた。

 俺の記憶にある坂崎は、小学六年生の姿のままだ。あれから五年も経って、彼の顔立ちもだいぶ変わったはずだ。果たして、俺に彼の顔がわかるのか。

 そんな疑問が生まれれば、見間違えないよう思わず生徒たちの顔を凝視してしまい、時折不審そうな目を向けられたが、今回ばかりは気にしていられないと眺め続けた。


 漠然とした不安は、常に胸の奥にくすぶっていた。時間が経つにつれ、それはますます大きくなっていく。

 自分のこの行為は、きっと、何一つ彼の救いにはならない。こみ上げた罪悪感に耐えかねた自分のための行動でしかない。なにを今更、と冷たく突っぱねられたとしても、それが当然の反応だ。

 それでも。

 それでも、思い出したのだから。五年かかったとしても、彼の痛みがわかったのだから。だから、無視するわけにはいかないと思った。



 どれぐらい時間が経ったのかわからなかった。

 俺の他にいた他校の生徒も、すでにお待ちかねの生徒と合流し、立ち去ってしまった。校門を通る生徒の数も、だんだんと少なくなってきて、今は五分に一人ほどのペースになっている。やはりもう帰ったのだろうか、という不安が色濃くなってきた。

 一つをため息をついて、もう一度時間を確認しようと携帯を開きかける。

 そのとき、一人の生徒が前を横切るのが視界に入り、視線を上げた。


「……へ?」

 思わずそんな間抜けな声が漏れたが、彼の耳には届かなかったらしく、足は止まることなく目の前を通り過ぎていった。

 他の生徒たちとは反対方向、校門の内側へ向かって歩いていく彼の背中に、あわてて声を投げる。

「あの、すみません」

 それでも、彼はその声が自分に向けられたものとはわからなかったらしい。足を止めない彼に、焦って思わず手を伸ばした。

 肩をぽんと叩けば、ようやく彼は立ち止まった。

 ちらと横顔が見えただけだった。しかし充分だった。その横顔は、驚くほどあの頃の面影を残していた。


 振り向いたその顔は、間違いなく坂崎啓介だった。

 小さいというイメージが強く根付いていたため、随分と背が伸びて、自分と視線の位置が変わらない彼に少し驚いたが、それでも未だあの頃のあどけなさが残る目元など、見間違いはしなかった。

「え?」と首をかしげる彼に構わず、

「坂崎、だよな?」

 と尋ねてみれば、彼は露骨に戸惑った様子で頷いた。

 しかし一拍置いて急に驚いたような表情に変わり、あ、と声を上げた。

「え、あ、桐原?」

 覚えて、くれていた。

 彼の口から出た自分の名前だけで、息が詰まりそうなほどだった不安が少し和らぐ。

 頷いて、とりあえず「久しぶり」と言えば、坂崎もぎこちなく同じ言葉を返した。


「え、今日って、なんかあるの?」

 向けられた質問の意味がよくわからず、「なんかって?」と聞き返せば

「いや、さっき、あっちでもその制服の人たちを二人見かけたから。その制服って、このへんの学校じゃないよね? 今日初めて見たし」

「え? 二人?」

 坂崎の言葉に、すぐに思い当たってしまい思わず苦笑が溢れた。

 すると彼が不思議そうな顔をしたので、あわててこみ上げた笑いを収め、まあ、と頷く。

「委員会で、那珂鶴に来る用事があって。ちょっと水城学園にも行ってみようかな、と」

 坂崎はまったく疑う様子もなく、そうなんだ、と相槌をうった。

 それから、彼が帰るのではなく校舎のほうへ歩いていっていたのがふっと気に掛かり

「坂崎、まさか今頃学校来たのか?」

 と尋ねてみれば、笑って否定された。

「裏門から帰ったんだけど、ちょっと忘れ物しちゃって、それがどうしても今日の宿題にいるやつだったから途中で取りに戻ったとこ」

「え……裏門とかあったのか」

 危なかった。もう少しですれ違いになるところだったのか。

 心の底から、その宿題を出してくれた教師に感謝しておいた。


 あらためて、目の前の坂崎の顔を眺める。顔立ちは昔とそう変わっていないが、顔つきは記憶の中にある彼のものとは遠い。あの頃とは違い、とても明るく見えた。

「坂崎さ、高校、楽しい?」

 出し抜けにそんな質問をしてみれば、彼は一秒も迷うことなく、「楽しいよ」と答えた。その答えに、自分でも驚くほど安堵した。

「水城学園って俺よく知らないんだけど、どんなことやってんの?」

「んー、えっとね」

 考えるときの癖なのか、坂崎は指を唇の下に当てて視線を漂わせる。

「水城学園は総合学科だから。いろいろやるよ。野菜育てたり、しょっちゅう調理実習もあるし」

 思いも寄らない話に、へえ、と声を上げた。

「すげえな、そんなことやるのか。楽しそうだな。こっちは勉強勉強だから」

「あ、進学校?」

「うん」

「そうなんだ。進学校って、やっぱり大変なんだってね。朝、すごい早くから授業あるんでしょ?」

「まあ、そうだなあ。朝課外ってのがあるから」

 へえ、と坂崎が相槌をうったところで、ふいに会話が途切れた。

 そのとき、今更ながら、彼が自分を拒絶することなく、笑顔で言葉を交わしてくれていることに、なんだかいたたまれないような不思議な気分になった。

 お世辞にも、坂崎にとって自分は良い人間ではなかったはずだ。罵声を浴びせてこの場から立ち去ろうと、誰も文句は言えないような立場にいるのに。

「……坂崎」

「ん?」

 彼はそんな気配も見せず、呼べば、俺の声に応えてくれる。


 息を吐く。そして、ゆっくりと口を開いた。

「小学校のとき、俺たち、坂崎にすげえ酷いことしてたよな」

 坂崎の顔からふっと笑みが消える。それから、少し間をおいて、曖昧な相槌が返ってきた。

「今更だけど」

 本当に、今更だ。どうしようもないほど。

「……ごめん」

 それでも、込められる限りの気持ちを込めて、そう口にした。


 坂崎は視線を俺から外して、なにか考えるような表情になった。

 やがて、口元にかすかな笑みが戻る。ひどく静かな表情だった。そして表情とまったく同じ静かさで、桐原は、と呟くように言った。

「僕が最初に桐原を桐原くんって呼んだとき、桐原でいい、って言ったんだよ」

「え」

「あと、体育でバレーボールやるとき、二人一組になる相手がいなくて困ってたら、桐原が、三人でやろうって誘ってくれて」

 たしかに、そんなことがあったかもしれない。はっきりとは覚えていなかった。

 俺が困惑しているうちに、だから、と坂崎は続ける。そして、ゆっくりと言った。その言葉は、まるで全身に染み渡るかのように響いた。

「桐原は、許すよ」


 ほんの、些細なことだ。

 彼がまるで宝物のように大切に抱えてくれていたものは、俺が数え切れないほど彼を裏切り、傷つけた中の、ほんの一握りの、些細なものだった。彼はずっと、何一つ忘れずにいてくれた。彼がどれほど苦しんだかなんて、本当は、俺になんて想像もつかないのだろう。

 唐突に、泣いてしまいそうになった。しかし久しぶりに会った同級生の手前、渾身の努力でそれは抑えた。

 なにか言いたかった。しかし何も言葉が浮かばず、結局、

「ごめん、本当に」

 涙声にならないよう気をつけて、そう繰り返した。

 彼は笑った。そして、いいよ、と言った。



 校門から数十メートル離れたところにある、昔は食堂だったらしい空き家のほうへ歩いていく。自転車に乗った女子生徒がそこの前を通り過ぎるとき、怪訝そうに二度見していった。それを見て、また苦笑が漏れる。

「すげえ目立ってるから、それ」

 空き家の陰を覗き込むなりそう言葉を投げれば、なんと言い訳しようか迷っているような顔の友人と目が合った。

「ほーら」と、隣から駿のため息混じりの声がした。

「だから俺、もうちょい離れたがいいって言っただろ。ばれるに決まってんだよ、こんな距離じゃ」

「で、でもこれ以上離れたら、直紀たちの様子がよくわかんなくなっちゃうでしょー」

 みながかすかに顔を赤くして、早口に言い返す。それにまた駿が言葉を返しかけたところで、遮って尋ねてみる。

「心配して、ついてきてくれたのか?」

 みながおずおずと俺の顔を見上げる。笑みを浮かべれば、彼女は途端に表情を解して

「だって、直紀がもし何か酷いこと言われて、ショックで海に身投げでもしちゃわないかと思って」

 顔は笑っていたが、口調は心底真剣だったもので、思わず吹き出してしまった。笑いながら「するわけないだろ」と言えば

「いや、今の直紀ならやりかねねえよ」

 と、駿まで真面目な顔でそんなことを言った。

 そのとき、なぜか、また泣いてしまいたい衝動がこみ上げてきて

「でも二人とも、電車乗ってなかったよな? どうやって来たんだ?」

 とあわてて話題を変えた。

「ああ、みなたちはちゃんとばれないようにバスで来たんだよ。で、途中からはタクシー」

 ふうん、と相槌をうったとき、みながふっと真面目な顔になって俺の顔を見つめた。それから、にこりと笑って

「ちょっとあっちに行ったらね、海があるんだよ。ね、行こ行こ」

 と、無邪気に、しかしとても優しい声で言った。


 長く伸びる防波堤に並んで腰を下ろし、穏やかな波の立っている海を眺めた。

 海岸には発泡スチロールやら空き缶やらがちらほら転がっており、あまり綺麗とは言い難いものだったが、夕日の柔らかな光を受けて静かに輝く海面は、ちょっと感動してしまうほど綺麗だった。

 遠くのほうで、鳥が群れをなして飛んでいる。砂浜には、犬を連れて散歩している初老の男性が一人いるだけで、ひどく静かだった。那珂鶴駅よりもずっと濃く、風に混じる潮の匂いを思い切り吸い込んでみたとき

「いいやつみたいだったな」

 打ち寄せる波をぼんやりと見つめながら、唐突に駿が言った。

「いいやつだったよ」

 そう頷けば、なんだかしんみりした気持ちになってしまった。


 それきり、しばらく言葉はなく、三人でただぼうっと海を眺めていた。

 視線を横にずらせば、防波堤の先に古びた灯台があるのが見えた。そのさらに先には、小さな島が浮かんでいる。この景色は、いつまで見ていても飽きないような気がした。

 やがて、右肩にかすかな重みを感じた。横を向けば、みなが頭を軽くもたれかからせていた。頬を、彼女の柔らかな髪がくすぐると同時に、

「よかったね」

 と、茶色い頭の向こうから、優しい声がした。

 今度こそ、堪えきれないほどの急激さで目頭が熱くなった。

 みっともないと思う頭とは別の場所で、この二人の前でなら構わないと思ってしまう部分がたしかにあって、そちらのほうが冷静な部分よりもわずかに大きく位置を占めているのだった。

 前を向く。赤い光を反射しながら、海はどこまでも広がっている。この場所は、すべてが優しかった。

「……ありがとう」

 ようやく、言えた。ずっと、彼らに言いそびれていた言葉だった。

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