第24話 大嫌い
返信が遅れたことを謝る言葉のあとに、坂崎の高校については知らないとの返事が載せられたメールが届いたのは、いつものようにみなと駿と食堂で昼食をとっていたときだった。
小さくため息をつく。他に誰か知ってそうなやついるっけ、と電話帳を眺めていったが、自分と彼との共通の友人というのは思い浮かばなかった。
そもそも彼が誰と親しく付き合っていたのかということも、俺は知らない。俺は本当に、彼については無関心だった。自分たちのせいで、彼は中学で苦労していたかもしれないというのに。
ふたたびため息をついてしまったとき
「どうしたの」
と、怪訝気な声が掛かった。
顔を上げると、みながメロンパンを口元に持っていった手を止めて、こちらを見ていた。
「何かあったの? メール」
心配そうに尋ねてくるみなに、いや、と首を振ってから携帯を閉じる。
それから置いていた箸をふたたび手に取ろうとしたが、みなはまだ何か言いたげに俺を見ていた。それに気づいて、手にした箸でおかずをつまもうとしたのをいったん止めた。
「……あのさ」
口を開けば、知らず知らずのうちに普段より低い声が出た。
みなは、うん、と語尾を上げた調子の相槌をうった。
「小学校のとき、クラスに、しょっちゅうからかわれたりしてるやつがいて」
いきなりそんなことを喋りだしたので、駿も顔を上げてこちらを見た。
「教科書とか体操服とかを隠すのなんて毎日のようにやってたし、授業中に発表したりするときには笑ったり、あと学級委員とかも押しつけられて。なんかさ、みんなそういうのが当たり前みたいに思ってて」
そこまで言ったところで、みなが「ああ」とあっけらかんとした調子で口を開いた。
「小学校のときは、みなのクラスでもあったよ、そういうの。小学生とかって、ちょっと気に入らない子とかいると簡単にやっちゃうんだよね。あからさまに仲間はずれにするとか、聞こえよがしに悪口言うとか。簡単にやっちゃうもんだから、ターゲットはころころ変わってたけど」
「あー、俺の学校でもあったなあ、たしか。ガキだからさあ、くだらねえことで盛り上がるんだよな」
ね、と駿の言葉に頷いたあとで、みながふっと真顔になる。「あ、まさか」と呟いてこちらを向き
「小学校の頃にそういうことがあったんだから、今自分がこういう目に遭ってるのは仕方ない、とか言い出すつもりなの? 直紀」
俺がなにか返すより先に、みなは大げさにため息をついて
「言っとくけど、それは違うよ? 全然関係ない。今回のことは、完全に粟生野さんが悪いんだから」
「関係ないのはわかってるけど、でも俺、本当に酷いことしてたんだなって今更――」
「直紀はやってなかったんだろ? 教科書隠すとか、発表のときに笑うとか」
俺の言葉を遮って、駿が尋ねた。質問というより、ほとんど断定的な言い方だった。
「やっては、なかったけど」
「じゃあ別に、そこまで酷いことしてねえだろ」
「でも助けもしなかった。何もしなかった。十分、酷いことだよ」
「でも直紀」みなが意気込んで声を上げた。
「クラス全体でやってたんでしょ、そういう嫌がらせ。ならさ、直紀一人がどうにかしようと頑張っても、どうにもできなかったんじゃないかな。仕方ないよ」
「どうにもできなくても、一人でも味方がいるって思えることは大きかったと思う」
俺は、そうだった。みなと駿がいてくれることは、どれほど救いになっているかもわからなかった。
彼には、きっといなかった。一人きりだった。きっとそれが、一番つらかったはずだ。だから何も変わらない。彼に手を差し伸べなかった。彼を一人きりにした。彼を、苦しめた。
「でも」
俺が反論するなり、みなは畳みかけるように言った。
「直紀はずっと気にしてたんでしょ? 悪いことしたなって。それでいいんじゃないかなあ。こう言ったらあれだけど、今更その頃のことをどうにかできるわけじゃないし。みな思うんだけど、多分、その人に一番酷いことしてたような人はもう忘れちゃってると思うんだ。自分がしたこと」
「俺も、忘れてたよ」
ふっと苦笑してそう言えば、みなは、へ、と声を上げてから黙った。
「ずっと気にしてたわけじゃない。思い出したのはつい最近で、自分が同じような目に遭うまで、一度も思い出さなかった」
こんなことにならなければ、きっと思い出さなかった。それは、小学校の頃の記憶の、片隅に置かれた一部でしかなくて、時間の経過と共に風化してやがて消えていた。
彼が、きっと何年間も引き摺らなければならないような深い傷を負ったことも、自分がどれだけ酷いことをしたかということも知らないまま。
自分が同じつらさを体験しなければ。そして、白柳のことを知りたいと、白柳の近くに行きたいと思わなければ。
本当に、調子がいい。
「だから……謝りたいと思って」
わかっていた。今更何をしても、自己満足でしかない。彼が苦しんでいるそのときに何もしなかった。そしてそのことをあっさりと忘れてしまっていた。その事実は変えようがないのだ。
みなと駿は戸惑ったように顔を見合わせた。それから、ためらいがちに「でも」とみなが口を開きかけたので、「わかってる」と遮った。
「今更謝ったってどうにかなるわけじゃないけど、でもやっぱり、どうしても気が済まないというか。だから、あいつのためっていうより自分のために謝るのかもしれないけど」
なにか考えるような表情で、まあ、とみなは言った。
「直紀がそうしたいって言うなら、止めないけど」
駿も短く頷いた。それから、ああ、と納得したように
「直紀、そいつの連絡先聞いて回ってたわけか」
「まあ」
「見つかんねえの?」
頷くと、駿は出し抜けに「そいつの名前なに」と尋ねてきた。
「坂崎啓介、だけど」
駿は、さかざき、とその名前を復唱したあとで、
「そういや直紀って、中学どこだったっけ?」
「日野南」
駿はそれだけ聞くと、ふうん、と相槌をうってから中断していた昼食を再開した。
「水城学園だとさ」
駿がそう告げたのはその日の放課後だった。あまりに早い仕事ぶりだったもので、一瞬彼が何を言っているのかわからなかった。
ぽかんとしている俺の横から、みなが
「え、もうわかったの? みなも調べてたんだけどなあ。先越されちゃったー」
と悔しげに声を上げた。それでようやく合点がいって
「え、なに、坂崎の通ってる高校? 調べてくれたのか?」
まあな、と駿は何でもないように頷いて
「クラスに日野南出身のやつがいたから聞いてみただけだけど。たまたまそいつが知ってたから」
「でも水城学園なんて、みな聞いたことないなあ。どこにあるの?」
みなが首をかしげる。俺も、聞いたことがない高校だった。
「那珂鶴市らしい」
駿は、ここから二つ町を挟んだ先にある、海沿いの市の名前を口にした。
「那珂鶴?! うへー、なんでそんな遠くの学校行ったんだろ。このへんから通うとしたら、電車でも四十分はかかるよね」
「ああ、それがそいつ、中学卒業と同時に引っ越したんだとよ。那珂鶴に」
その言葉に少し嫌な予感がこみ上げたのを見透かしたように、駿はすぐに続けた。
「親の仕事の都合で、らしいけど」
それから駿は、ああ、と思い出したように
「でも、連絡先は知らないってさ。元々そこまで仲良かったわけじゃないらしいし。卒アルとかに載ってねえのかなって思ったんだけど、引っ越したんならわかんねえよな」
「そっか。じゃあやっぱり、直接行くか」
言うと、みなが「え?」と驚いたように声を上げた。
「行くって、水城学園まで? 那珂鶴市だよ?」
「うん、まあ元々そのつもりだったし。謝るなら、やっぱり直接顔見てじゃないとって」
ふへー、とみなは妙な声を上げて俺の顔をまじまじと見つめながら
「いつ行くの?」
と尋ねてきた。少し考えて
「もう、今日行こっかなあ」
先延ばしにすれば、気持ちが萎えてしまいそうな気がした。何にしても、早いに越したことはないだろう。
俺の答えを聞くと、みなはふっと真面目な顔になって
「一人で行くの?」
と質問を重ねた。頷くと、みなは心配そうに顔を覗き込んでくる。
「一人で大丈夫? ついていってあげよっか?」
それは、押しつけではない、ただ純粋にこちらを気遣う優しさだった。なんだか暖かい気持ちになって、「大丈夫」と笑って首を振った。
那珂鶴駅まで行けば水城学園は見つかるだろうとのことだったので、とりあえず最寄りの駅へ行くことにした。
みなは電車通学なので駅までは一緒に来るかと思ったが、なにやら駿と顔を見合わせ、やることがあるからちょっと学校に残る、と言った。その様子は少し怪しかったが、考えたところで思い当たることもないので気にしないことにした。
校門へ伸びる坂を下りていると、横を数人の生徒が急いで走り抜けていった。どうやら電車の時間が迫っているらしい。
うちの高校に電車で通っているのは広原町かその周辺の生徒がほとんどで、篠野高校の生徒が帰りに利用するのは上り電車ばかりだ。そのため今急いでいる生徒たちが目指しているのも、上り電車なのだろう。
しかし俺が乗る予定の電車は下りなので、あわてた様子でみんなが駅へ走っていく中を、一人のんびり歩いた。
着いた頃には、上り電車は行ってしまっていて、駅は閑散としていた。駅員が一人いるだけで他に人の姿はない。
券売機で、めったに買わないような位置の切符を買う。じゃらじゃらと音を立てて落ちてきたお釣りを財布にしまっていたところで、視界の端に人影が映った。
何とはなしにそちらを向いたとき、思いがけない人物に、心臓が音を立てた。
「……粟生野」
彼女がまっすぐに俺のほうを見ているため、無視するわけにもいかず、とりあえずその名前を口にする。
粟生野はにこりと笑って、「ああ、やっぱり桐原だった」と明るく言った。
「桐原っぽい背中だなあとは思ったんだけど、桐原って電車通学じゃないし、人違いかなって思ったの」
まるで、時間が巻き戻ったかと思った。粟生野は笑顔を崩すことなく、あくまで明るく言葉を継いでいく。いつも教室で、気さくに話しかけてくるときのように。それはそこまで前の話でもないはずだが、もう、ひどく遠い昔のことのようだった。
しかし、やはり時間は巻き戻ってなどいなかったのだと、次の瞬間に突きつけられる。
「例の一年生、今日、学校来てたんだってね」
その一言だけでぞっとするほどの冷たさが巡り、思わず「なあ粟生野」と口を開いていた。
「頼むから、もう何もするなよ」
「何もって?」
「靴隠すとかスリッパ隠すとか。嫌がらせなら、俺だけにしとけよ。だいたい、白柳とかみなは関係ないだろ。てか、そもそもお前、何が目的なんだよ。どうなりゃ満足なの」
久しぶりに面と向かった彼女に、気づけば言葉が溢れ、そう捲し立てていた。
粟生野はふっと視線を外す。「ねえ桐原」俺の質問には答えず、彼女は呼んだ。
「一つ、いいこと教えてあげる」
その顔に浮かぶ笑みは、すでに別の色を帯びていた。「私ね」粟生野は言った。
「最初から、桐原のこと、大嫌いだったの」
それは、思いがけないほどの鋭さを持って脳に響いた。
つかの間、息が詰まる。それはきっと、その言葉が、重たいほど感情の込められた、本当の言葉だったからだ。
動揺を表に出さないよう必死になっても、粟生野はすべてわかっているような目で俺を見つめ、ねえ、と続けた。
「桐原、初めてでしょう? 面と向かって嫌いとか言われたの。だって桐原って、なんかさ、人に嫌われない才能みたいなの持ってるしね」
そう言うと、粟生野はからかうように笑った。
人に嫌われない才能。粟生野の言葉を繰り返す。
「……そういう才能持ってんのは、粟生野のほうだろ」
今回の一件で、怖いほどに実感したことだった。誰もが、粟生野を信頼していた。彼女を慕っていた。
俺の言葉を聴いて、粟生野が唇を歪める。そしてひどく忌々しげに
「そういうとこ、ほんと嫌い」
そう、吐き捨てた。
電車が行ってしまったばかりの駅は、不気味なほどに静まりかえっている。「でもね、桐原」その駅に、粟生野の声だけがくっきりと響く。
「私と付き合ってくれてれば、私、明るくて可愛い、みんなにうらやましがられるような彼女になってあげたのに。馬鹿だな。桐原が悪いのよ? 桐原のくせに、私を振ったりするから」
何度もぶつけられた、姿の見えない悪意とは違う。突きつけられるのは、はっきりとした憎しみだった。
「……俺が、粟生野に、何かしたのか」
一番の疑問を投げかけても、粟生野は歪んだ笑みを返すだけで、何も答えなかった。
そのとき、唐突に鳴ったベルがやたら大きく耳に響いた。続いた、まもなく下り電車が参ります、というアナウンスに、ふっと線路のほうへ目をやれば
「桐原、下りに乗るの?」
と粟生野が尋ねてきた。頷くと、「そっか。じゃあ、またね」と表情を明るいものに戻し、彼女は柔らかな声で言った。
「桐原」
改札を抜けたところで、背中に声が掛かった。振り返れば、粟生野が無表情にこちらを見ていた。
「私は、何の打算もなく、他人に優しくしたことなんかないよ」
――桐原みたいに。
抑揚のない声でそれだけ告げると、彼女は俺に背中を向けた。
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