第23話 薬

 公園に着いたのは約束の時間の五分ほど前だったが、白柳はすでに待っていた。

 小さなその公園には、砂場と鉄棒、それからブランコがあるだけで、白柳はブランコの一つに腰掛け、ぼんやりと彼女の他に誰もいない公園を眺めていた。制服ではなく、落ち着いた黒のワンピースの上にカーディガンを羽織っている。

 よほどぼんやりしていたのか、白柳は俺が公園に入っていってもしばらく気づかなかった。

 ようやく気づいた白柳は、あ、と声を上げて立ち上がりかけたが、俺が彼女の隣のブランコに座ると、また座り直した。


「ごめん、いきなり呼び出して」

 白柳はあわてたように首を振った。

 鞄から白柳に借りていた本を取り出し、彼女に渡そうとしたが、こちらを向いた白柳は頑なに顔を上げようとしない。困惑して尋ねると

「今、私、酷い顔してるので……隈、できてるし」

「別に気にしないって」

 そう言ってみても、白柳は首を振っただけでやはり顔は上げなかった。そんな様子を見ているとふいに心配になって

「本当に大丈夫だったのか? 外出てきて」

「あ、それは大丈夫です、全然」

 今度はこくこくと頷いた。ならいいけど、と呟きつつ彼女に本を差し出す。

「これ、ありがとな」

 面白かった。そう言うと、白柳は嬉しそうに笑った。

「ほんと、嫌なことも忘れるな」

「本当ですか。よかったです」

 白柳はきっと、純粋に面白いと思ってこの本を勧めてくれただけでそこまで考えてはいなかったのだろうけれど、怖さに読んでいる間は落ち込んでいることも忘れてしまえた。落ち込んでいるときはホラー小説を読めばいいのか、と一つ勉強になった。


 本が白柳の手に戻るのを見て、なんとなくほっとしていると、「先輩」と白柳に呼ばれ顔を上げる。相変わらず白柳はうつむいたままなので目は合わなかった。

「あの、なんか、声が」

「あー、やっぱおかしい? 多分、ちょっと風邪ひいた」

「大丈夫ですか?」

「大丈夫」

 そのとき、昼休みにみなにもらった鎮痛剤の存在を思い出した。

「あ、そうだった」

 白柳をここに呼び出した一番の理由であるそれを取り出して、彼女に差し出す。「これ、やる」言うと、白柳はきょとんとして俺の手のひらの上の錠剤を眺めた。

「何ですか? これ」

「眠くなくなる薬」

「……えっ?」

 素っ頓狂な声を上げると同時に、白柳はようやく顔を上げた。

 彼女の言うとおり、目の下にはくっきり隈ができていて、顔色も悪かった。本当に眠れていないんだな、とぼんやり思う。

「それ、今日飲んで」

 白柳は困惑したように俺の顔と薬を見比べて、「どうしてですか」と至極もっともな疑問を口にする。

「今日の夜中に、白柳にどうしても観て欲しい番組があるんだよ。でもそれ、時間遅いから眠くならないように」

 あらかじめ用意しておいた説明をすると、白柳は困ったように眉を寄せた。

「え、夜中ですか?」

「そう」

「でも、多分、夜中にテレビ観てたら、うるさいって怒られそうです」

 あー、と声を漏らす。たしかにそうだよな、と心の中で呟いて、「じゃあさ」と続ける。

「ラジオは?」

「え?」

「ラジオは聴ける? 夜中でも」

「あ、は、はい。ラジオなら、自分の部屋で聴けるので」

 よし、と頷いて

「じゃあラジオでいいや」

「え?」

 白柳は、わけがわからないといった表情で俺の顔を見ている。

 自分でも相当おかしなことを言っているのはわかっていた。それでも、ここまで言って止めるわけにもいかず、続ける。

「白柳に、どうしても聴いて欲しいラジオがあるんだよ。テレビが無理ならそっち聴いて。絶対最後まで聴いて欲しいから、寝ないようにその薬ちゃんと飲めよ」

 白柳はきょとんとしながらも、頷いて、「なんて番組ですか?」と尋ねた。

 少し考えたが、アドリブはききそうになかったため

「覚えてないから、あとでメールする」

 と言うと、白柳は少し首をかしげたが「わかりました」と言った。

「薬飲まなくても、寝ないと思いますけど……」

 とぽつんと呟く声が聞こえたため、

「もしかしたら、今日に限って眠くなるかもしれねえだろ。用心するに越したことはないぞ。うん」

 急いでそう言えば、「そうですね」と、まだよくわかっていないような表情で白柳は頷いた。

「絶対飲むんだぞ」

「はい」

「飲んだかどうか、あとでちゃんと確認するから」

「えっ? は、はい」

 白柳はあからさまに戸惑っていたが、受け取った薬はしっかり膝に置いていたハンドバッグにしまって

「ちゃんと飲みます」

 と、まるで先生の指示に頷くかのような従順さで答えた。


「白柳」

「はい?」

 最初はあれほど顔を見られるのを嫌がっていたのに、もうそんなことは頭から抜け落ちてしまったのか、白柳はまっすぐにこちらを見ている。

「来れそうになったら、来ればいいよ」

 え、と聞き返す彼女に、学校、と付け加える。

「俺も、新井さんも、待ってるから。でも今は、大丈夫になるまでゆっくり休んどけよ」

 白柳はしばし俺の顔を見つめた。それから「はい」と頷いて、小さく笑った。



 家に帰ると、俺は自分の部屋のクローゼットを開けた。奥に置かれた戸棚から、久しく手に取っていなかった小学校の卒業アルバムを引っ張り出す。

 何年間もクローゼットの奥にしまい込まれていたそのアルバムは、うっすらと埃をかぶっていた。

 六年二組のページを開く。ずらりと並ぶ顔写真の上に視線を走らせていれば、目的の人物はすぐに見つけることができた。久しぶりに見た彼の顔は、思いのほかあどけなかった。

 一目見れば、それがスイッチを押したように、次々と記憶がよみがえってきた。

 彼の表情。声。話し方。

 アルバムの写真を撮るときは笑うよう強制されたから、彼も周りのクラスメイトたちと同じように笑顔で写真に収まっている。しかしその笑顔は、どこかぎこちない。彼は、学校では滅多に笑わなかった。困ったような苦笑なら、しばしば目にしていたけれど。


 笑顔よりもずっと強く記憶に残っている彼の表情は、怯えた顔と苦しげな顔だった。

 クラスメイトたちの推薦であれよあれよという間にクラス委員に決まって、唖然としながらも担任から「よろしくね」と言われたときには、必死に押し出したように浮かべた笑顔。発表のとき、とくにおかしなことは言わなくても教室中から起こる笑い声に引きつる表情。黒板に貼られた自分の作文に気づいて、慌ててそれを剥がすときの真っ赤な顔。毎朝のように宿題を写すため席に集まってくるクラスメイトたちに困り切ったように笑う顔。隠された体操服や教科書を探し回る、蒼白な横顔。

 いつも遠巻きに眺めていただけの、その顔。全部が、まるで今目の前で見ているかのようにはっきりと思い出された。

 坂崎啓介。

 写真の下に載せられた、彼の名前。名字だけはぼんやりと覚えていたが、下の名前はもう忘れていた。あらためて、自分の都合の良い記憶力に嫌気が差す。


 アルバムは開いたまま、携帯電話を取り出した。随分と長い間連絡を取っていなかった小学校の頃の友達に、坂崎啓介が現在通っている高校を知っているかと尋ねるメールを送った。すぐに届いた返事は、知らないとのことだったため、また別の友人に同じ内容のメールを送っておいた。

 夕食を食べ終わった頃にまたメールが来た。白柳からだった。それは律儀にも薬をしっかり飲んだことを知らせるメールで、思わず笑ってしまった。


 十一時を少し過ぎた頃に、白柳に電話をかけた。

「ちゃんと起きてるか?」

 はい、と返ってきた声は明るかった。

『で、あの、その番組って……?』

 おずおずと尋ねてくる白柳に、「ああ、それなんだけど」とさらっとした口調で告げる。

「勘違いしてた。ごめん」

『え?』

「その番組、今日じゃなかった」

『へっ?』

 素っ頓狂な声が上がる。それから白柳は焦ったように

『で、でも私、もう薬飲んじゃいましたよ』

「うん、ごめんな。まあ、でもさ、どうせ白柳最近眠れてないんだから、あんまり関係ないだろ」

 そんな無責任な俺の言葉にも、白柳は『あ……そうですよね』とあっさり頷くものだから、思わず苦笑いが漏れた。

「俺もさ、同じ薬飲んじゃったんだよ」

『え』

「だからすげえ目冴えてて。白柳も全然眠くないだろ?」

『は、はい』

「じゃあ、ちょっと付き合って」

『へ?』

「電話」

 言うと、白柳はやたら意気込んで『は、はいっ、いいですよ』と答えた。


 それから、しばらく他愛ない会話を続けた。今日食べた夕食のメニューから始まって、好きな食べ物の話になり、そこから好きな音楽やらテレビやらいろいろな話題へ飛んでいった。中でも、やはり白柳は好きな本について語るときが一番楽しそうだった。

 途中、何度か中学校の頃のことをさりげなく聞いてみようかと思った。しかしそのたび、小学校で毎日のように見ていた坂崎の青い顔が頭をよぎり、それが、そのことについて踏み込むのを躊躇わせた。


 聞いているだけで寒気がしてくるような、おすすめのホラー小説の要約を語ってくれていた白柳が、話が一段落したところで、『あの、先輩』と遠慮がちに声を掛けた。

「ん?」

『あの……なんだか、眠たくなってきちゃいました』

 え、と声が漏れる。壁に掛けられた時計に目をやれば、十一時半を回ったばかりだった。

 驚いた。まさかこんな方法がうまくいくともあまり思っていなかったし、うまくいくとしてもこんなに早く効果が現れるとは思わなかった。やはり何日もまともに寝ていなかったのだから、相当睡眠不足だったのだろう。何にしても喜ばしいことだった。急いで

「そりゃよかったじゃん。じゃあ早く寝ろよ」

 と早口に告げれば、白柳は露骨に戸惑った様子で

『でも、なんででしょう。私、眠くなくなる薬飲んだのに……』

 どうやら白柳は俺の言葉を心から信じてくれているらしい。わずかに罪悪感がこみ上げたが、この際それは脇に置いておくことにする。

「多分、あれだ。白柳はあんまり効かない体質だったんだよ、あの薬」

 出任せに適当なことを言えば、白柳は『そういう体質があるんですね』と無邪気に納得してしまった。また苦笑する。きっと、白柳だったからこの方法はうまくいったのだろうなと思う。

「いいから、眠いうちにさっさと寝とけよ。また目冴えてくるかもしれないし」

『あ、でも先輩は……』

「俺のことはいいから。ていうか、俺もなんか眠くなってきた。もう切るぞ」

 一方的に告げれば、『え、あ、はい』とあわてたような声が返ってきた。

「……おやすみ」

 おやすみなさい、と返ってきた声は確かに眠たそうだったけれど、どこか明るかった。



 翌朝、学校へ向かっている途中に白柳からメールが来た。今日は学校に行きます、という短いメールだった。

 俺は思わず足を止めて、じっとその文面を眺めてしまった。何度も読み直したあとで、ようやく喉から「おお」と小さく声が溢れた。湿度の高いじめじめとした空気が、途端にさらっとした心地よいものに変わった気がした。


 昼休みに図書室へ行ってみると、カウンターに座る白柳の姿を見つけた。

 顔を見ることができれば満足したため、戻ろうとしたのだが、白柳のほうがこちらに気づいて駆け寄ってきた。

「先輩」

 目の前に立った彼女の顔色は、昨日より幾分良かった。

「すげえじゃん。ちゃんと来られたんだな」

 言うと、白柳はどこか誇らしげな表情になった。

「昨日、あれから眠れたのか?」

 はい、としっかりした口調で頷いたあとで、「先輩、あの……」と白柳は控えめに切り出した。

「昨日もらった薬、本当は眠くなくなる薬じゃなくて、眠くなる薬だったんじゃないですか?」

 だって私、昨日すごくよく眠れましたし。もごもごと言う白柳に、笑って「違うよ」と返す。

「眠くなる薬でもなくて、あれ、ただの鎮痛剤」

「えっ?」

「多分さ、白柳、眠れない眠れないって悩んでたから、そのせいで余計眠れなかったんだって。眠くなくなる薬飲んだって思っとけば、眠くないのは当たり前だって思えるから、そのことについて悩まなくて済むだろ。それで昨日は眠れたんじゃねえの」

 俺の言ったことはよく理解できなかったようで、白柳は首をかしげつつ、はあ、と間の抜けた相槌をうった。

 まあいいや。心の中で呟いて、笑う。それから、ほとんど無意識のうちに、俺は白柳の頭に手を伸ばしていた。そのまま彼女の頭を軽く撫でる。

「えらいえらい」

 白柳ははにかむように目を伏せて、笑った。

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