第22話 声
昼飯を食べている途中、ふいに駿がこちらを向いて「風邪?」と尋ねてきた。
「なんか鼻声だし」
駿がそう続けると、みなも「あー、言われてみれば」と頷いた。
声の違和感は自分でもなんとなく感じていたため
「そうかも。昨日けっこう濡れたからなあ」
と呟けば、みながいきなり箸を置いてポケットを漁り始めた。それから「あ、あった!」と声を上げ、有名なメーカーの鎮痛剤を取り出した。
「お薬あげよっか」
満足げにそれをこちらに差し出してくる彼女に、何と返せばいいのか迷っている間に
「いや、これ痛み止めだし。風邪には効かねえよ」
と、駿が心底呆れた口調で切り捨てた。
「でも薬は薬だから、ちょっとは良くなるんじゃないかな」
「なるわけねえだろ。馬鹿かお前」
相変わらず容赦のない駿の言葉に、「あー、あのさ」と思わず割って入っていた。
「気持ちは嬉しいけどさ、大丈夫だから。ちょっと鼻声なだけだし、すぐ治ると思う」
そう言いながら、そっと鎮痛剤をみなのほうへ戻す。「えー」と、まだ何か言いたげに眉を寄せるみなの声はいつもと変わらぬものであることに気づいて、
「そういや、みなは何ともないのか?」
「うん、なーんとも。みな、体は丈夫だから!」
「まあ、馬鹿は風邪ひかないって言うしな」
「駿うるさーい。ちょっと黙っててー」
いつものように飛び交う軽口を聞きながら、俺はみなの手にある鎮痛剤をぼんやり見つめた。
頭の中で、電話越しに聞いた白柳の声が響いた。
「ていうか、それ言うなら駿だって全然風邪ひかないじゃん。みな、風邪ひいた駿とか見たことないもん」
「俺は体調管理がしっかりできてんだよ」
「なにそれー」
駿に言葉を返しつつ、鎮痛剤を再びポケットにしまいかけたみなの手を、「あ、やっぱ待って」と止めた。
「へ?」
「やっぱり、それ一個もらっていいか?」
言うと、みなはやたら嬉しそうに顔を輝かせた。「いいよ!」と大きく頷いて、箱から白い錠剤を取り出す。その横から、駿が怪訝気に
「なんだ? 直紀、どっか痛いのか?」
「いや、そういうわけじゃないけどさ」
「まさか直紀まで、鎮痛剤で風邪が治るとか思ってんのか?」
「いや、違うけどさ……」
「もー、うるさいですよー高須賀さん。はいっ、直紀!」
二つ錠剤を手のひらに載せてくれたみなに、
「あ、一個でいいよ」
「え? でもこれ、十五歳以上は一回二錠だよ」
「うん、でも一個でいいから」
みなはぽかんとしながらも、一つ返された錠剤は受け取った。みなに礼を言ってから、薬を胸ポケットに入れる。
「あれ?」とみなが何か聞きたげな声を漏らすのがわかったが、思い立ったらいてもたってもいられなくなってしまい、立ち上がった。
「ちょっと電話してくる」
そう告げると、駿が「全部食べてからにすりゃいいだろ」と眉を寄せた。そんな駿の至極もっともな意見にも、「すぐ終わるから」と短く返して歩き出す。
食堂を出たところで右に折れて、それなりに喧噪から離れた場所まで移動してから電話をかけた。
昨日と同じように十秒ほど呼び出し音が鳴って、それから白柳の声が聞こえてきた。
『も、もしもし』
どこか怯えたような彼女の声に、出来るだけ穏やかな調子になるよう努めて口を開く。
「白柳、今日学校来てるか?」
『あ……き、来てません』
おどおどと、罰の悪そうな声が返される。それから、まるで大目玉でも食らったかのように『ごめんなさい』と白柳があわてて謝るのを遮るように、
「なあ、今日、ちょっと会える?」
尋ねると、『へっ?』と素っ頓狂な声が上がった。思わず携帯を耳から少し離してしまったほどだった。とくに考えることもなく口にした言葉だったのだが、白柳のその反応に、遅れて恥ずかしさがこみ上げてきて
「ちょっと渡したいものあって。あと、ほら、本も借りっぱなしだっただろ」
と早口に続けた。白柳はえ、とかあ、とか意味のつながらない言葉をしばらく繰り返していたが、やがてようやく落ち着いたのか
『は、はい。いいですよ』
と、こちらも早口に頷いた。
「よかった。じゃあさ、」そこでふっと、自分が白柳の家を知らないことを思い出した。少し考えて
「白柳の家って、どこらへん?」
そう尋ねれば、白柳はあわてたように『い、いえ、いいですよ』と答えになっていないことを返した。自分でもその答えがおかしかったことにはすぐに気づいたのか、
『あの、私の家、すごく遠いので……だから、先輩が言う場所に、私が行きます』
と続けた。
「いや、でも白柳、具合悪いんだろ。昨日はちゃんと眠れたのか?」
『え……あ、少しは、眠れたと思います』
どうやら眠れなかったらしい。苦笑が漏れた。白柳は本当に、びっくりするほど素直だ。
「いいから、俺が行くよ。で、白柳の家、どこなの」
同じ質問を繰り返せば、今度はしばらく考えるように口ごもったあと
『口で説明するの、難しいです』
困ったように、そんな返事が返された。たしかにそうだ、と心の中で頷いて
「じゃあさ、近くにある店とか」
『店……』
また、しばらく考えるような間があった。やがて『ごめんなさい』と力ない声が返ってくる。
『私の家、近くにお店、全然なくて……』
そりゃ別に白柳が謝ることじゃないだろうに、と思いながら「店じゃなくてもいいから、何か目印になるもんない?」と質問を変える。白柳は、『目印になるもの……』とたっぷり三十秒は考えたあと
『工場!』
いきなり大きな声を上げるものだから、また携帯を少し耳から離してしまった。
『あの、工場があります。ジャムを作る工場で、大谷食品っていうんですけど』
ようやく見つけた目印に、白柳が嬉しそうに捲し立てる。「大谷食品」と白柳の言葉を繰り返す。聞き覚えのある名前だった。記憶をたぐり寄せていくと、見つけることができた。
「あ、あー……その工場って、横に公園あるよな?」
『そうです、公園があります。あと、向かいにはアパートがあります』
「だよな。よかった、そこなら知ってる。じゃあそこに、」
そこまで言ったところで、工場で待ち合わせってどうなんだ、とふと思い
「その工場の横の公園まで来られるか?」
『はい』
それから時間を申し合わせたあとで、食堂に残してきた二人のことが気になり始めた。
そういえば昨日も、昼食の途中で白柳に電話をかけに外へ出て、結局二人のことを忘れてしまったことを思い出し、そろそろ通話を切ろうと口を開きかけたとき
『先輩、大丈夫ですか』
出し抜けにそう言われ、え、と聞き返した。
白柳のほうも、ぽろっと口をついた質問だったのか、しばし口ごもって
『その、えっと……大丈夫ですか』
と、困ったように繰り返した。自然、笑みがこぼれた。
「大丈夫」
白柳へそう答えるときだけは、その言葉は嘘にならなかった。
食堂に戻ると、もうみなはいなかった。「次の授業が体育らしいから、もう行った」と駿が説明するのを聞きながら、あまり時間に余裕がなくなっていたため急いで弁当の残りをかき込んだ。
食堂から教室へ戻る途中、階段を上がるところで前に見慣れた背中を見つけた。健太郎だ。駿のほうも気づいたらしく、あ、と小さく声を上げるのが聞こえた。しかし俺がなにも言わないからか、それ以上はなにも言わなかった。
一組の教室に着いたので、じゃ、と言って別れようとしたところで
「直紀さあ」
にわかに駿が話し出したため、踏み出しかけた足を止める。
「結局、桜のこと好きだったのか?」
いきなりそんなことを尋ねてきたので、ぽかんとして彼の顔を見つめてしまった。
やがて我に返ると、急いで首を横に振り
「違うって。それは粟生野が勝手に言ってただけで」
知らず知らずのうちに、健太郎に向けて言うかのような必死さが滲んだ。
「じゃあそれ、あいつに言えばいいんじゃねえの」
「そりゃ言ったけど」
信じないんだよ、と続ければ、駿はなにか考えるような表情になった。それから、奇妙に静まりかえった目でこちらを見て、じゃあ、と言った。
「もういいじゃねえか、べつに」
その声は、ひどくぶっきらぼうに響いた。
言われた言葉の意味を把握しかねて、聞き返せば
「直紀がなに言っても、信じねえんだろ、あいつ」
なぜか少し嫌な予感がして、「まあ」と曖昧に頷く。
「そういうやつなんだろ。最初から、粟生野の言うことばっか信じてるようなさあ。今だって、こんなことになっても直紀のために何かしてやるわけでもねえし。つーか、マジで仲良かったわけ? あいつと」
呆気にとられ、しばし駿の顔を見つめた。一切の表情が消えたその顔は、一瞬見知らぬ他人のように見えた。
黙っていることは彼の言葉を肯定してしまうように思え、「でも」と性急に口を開く。
「粟生野の言うことって、なんか思わず信じそうになるし。とりあえず人望はすごいから」
「俺らは最初から、直紀の言うことしか信じなかったよ」
静かだが、まったく隙のない口調で駿は言った。今度こそ完全に、言葉を失ってしまった。
無表情な彼の、完璧なまでの無機質さは、みなのそれとよく似ていた。
見慣れぬ目の前の顔を呆けたように眺めているうち、始業時間を告げるチャイムが鳴った。それに反応して、駿はふっと視線を逸らし「まあいいや」と呟く。そして、いつもと同じように「じゃあな」と短く言って、教室に入っていった。
駿の冷たい声は、しばらく耳の奥から剥がれなかった。
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